尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「抗夫」-漱石を読む④B

2017年06月18日 21時23分40秒 | 本 (日本文学)
 「虞美人草」に続いて、漱石全集第4巻後半にある「抗夫」を読んだ。1908年1月から4月にかけて、朝日新聞に連載された。漱石作品中、一番の異色作と言われるが、普通「失敗作」と思われている。確かに間違いない失敗作で、はっきり言って全然面白くない。でも無視もできない作品ではある。漱石を全部読もうと願を立てた人以外は、「虞美人草」と「抗夫」は飛ばして先へ進むのが賢明。

 この小説は一種のルポルタージュ文学で、女性問題のいざこざに巻き込まれた19歳の青年が、家出して放浪しているところを「ポン引き」に捕まって抗夫になろうと思う話である。実際にそういう体験をした青年が、漱石のもとに体験談を小説化して欲しいと持ち込んだという。漱石は断ったけど、朝日で予定していた藤村の作品が遅れて、穴埋めに書かざるを得なくなったという。

 漱石の小説は、そのほとんどが東京のインテリ階級を主人公にしている。舞台もほぼ東京である。地方を描いているのは、「坊っちゃん」「草枕」「抗夫」だけだろう。(イギリスものは除いて。)この中でも、下層階級の実態を描いているのは「抗夫」だけ。その意味で異色作に間違いないけど、読んで見るとあまり抗夫が出てこない。というか、実は主人公は抗夫にならない。アレレ。

 舞台になる鉱山は足尾銅山だということだけど、文庫本230頁ぐらいの中で100頁ほど読んでやっと鉱山に到着する。それまでは、連れられてヤマへ行くまでの記録。裕福な家の御曹司だったらしい「自分」は、いちいち下層社会に堕ちた驚きで話が進まないのである。ハエがたかった饅頭に驚き、抗夫にならんかと言われてビックリする。何するという考えもなしに、ただ家を飛び出た主人公は、ひたすら悪の手先のような男に連れられて「魔界」に足を踏み入れる。

 そこで他の抗夫の生態に触れて、下層民衆の卑しい生活になじめない思いを面々と訴える。その後、試しにヤマに入ってみることになるが、そこは確かに迫力はある。そこで働けば面白い文学になったかもしれないが、身体検査を受けたら気管支炎と診断されて、鉱山内労働不可となる。なんだという感じ。一種の「冥界めぐり」の異文化体験だけど、面白くなりそうなところで終わってしまう。

 この作品の一番つまらないところは、抗夫の生態が一面的にしか描かれていないことだろう。彼らは儲けた金をバクチと娼婦に使ってしまう。だから金がたまらない。だから、いい加減に生きているやつらはダメなんだというような感じである。そりゃあ、バクチや女にカネも使おうが、それ以前に会社によって、あるいは親方制度によって、搾取されているはずだろう。労働者自身も複雑に身分差が作られている。それに対する抗議運動もあったわけで、史上有名な軍隊まで出動した足尾銅山争議は1907年のことである。この小説が書かれる前年のことではないか。

 いくら19歳のうぶな青年の経験をもとに書いていると言っても、同時代を揺るがした足尾大争議(暴動)や、足尾銅山鉱毒事件(1901年に田中庄造の天皇直訴事件、1906年に谷中村の強制廃村)の影も形も見えないとなれば、それは作家の想像力が及ばなかったんだろう。漱石の思想性の限界ではなかろうか。モデルの人物が、せっかく鉱山まで行きながら、そういう社会的矛盾をとらえる目がなかったということなんだろうけど、それがこの作品を弱いものにしているのは間違いない。

 ルポルタージュ文学としても、明治東京の下層社会を描いた松原岩五郎「最暗黒の東京」(1893)、横山源之助「日本の下層社会」(1899)などの迫力に遠く及ばない。何しろ漱石が自分で見もしないで書いているのだからやむを得ない。作者が自ら潜入して迫真的な告白ルポを書いた、鎌田慧「自動車絶望工場」や堀江邦夫「原発ジプシー」のような迫力がないのも当然。

 その後、プロレタリア文学、戦争文学がいくつも書かれ、主人公がもっとすごい境遇に置かれて絶望的な体験をしている。そういうことを知っている今の目で言えば、ほとんどお坊ちゃんのお遊び的な体験記というしかない。だけど、それ以後の漱石作品が都市の知識人世界に限られるようになったのも、いわば「抗夫」の失敗体験ゆえなんだろう。その意味では重要だし、富裕層の青年が下層社会をどう見るかという社会学的な意味はある。ただ、文学的な意味での感興には乏しい作品だ。
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