尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「かぞくのくに」

2012年08月19日 23時21分23秒 | 映画 (日本新作)
 ヤン・ヨンヒ(梁英姫)監督の劇映画第1作「かぞくのくに」。ベルリン映画祭フォーラム部門国際アートシアター連盟賞受賞。非常に複雑な思いをさせられる、切ない感情にあふれた傑作である。北朝鮮への「帰国事業」について知らないとよくわからない部分もあるかもしれないが、とても心揺さぶられる映画で、是非見て欲しい。「フィクションの力」についても、改めて考えさせられた。東京では「テアトル新宿」で上映中。
 

 1997年のこと、「あの国」から兄が25年ぶりに帰ってきた。脳腫瘍の治療のために。「監視役」の「ヤン同志」に連れられて。父は「同胞協会」(当然、朝鮮総連のことである)の幹部、兄の「帰国」後は、母が喫茶店を営みながら妹を育ててきた。妹は、父が信じ、兄が住む「あの国」をもう信じてはいない…。25年ぶりにあった兄は、口数の少ない感情を失ったような人間になっていた。久しぶりの同窓会にも、家族にさえも打ち解けられない部分がある。そして妹には「ある頼み」をしてくるのだった…。3か月とされていた帰国期間は突然短縮され、明日には帰らなければならないと告げられる。「こういうことはよくあるんだ」「決定には従わなくてはならないんだ」という兄。「考えてはいけないんだ。思考停止。楽だぞ、思考停止。」「でもな、お前は、お前には考えて欲しい。お前、たくさん考えろ。どう生きるか考えて、納得しながら生きろ」。

 これは「北朝鮮」帰国事業をめぐる非人道的な状況を描き出すとともに、「在日」家族の生活の日々をつづったホームドラマでもある。と同時に、今あげた上記のセリフに見られるように、「考えさせない仕組み」を持つ企業社会や「いじめ」問題などにも、直接は触れてないけど見る側の想像力が及んでいく。自分が自分らしく生きる社会について考えさせられる、優れた映画になっていると思った。

 ヤン・ヨンヒ監督は、1964年大阪生まれの在日コリアン2世。父は総連幹部で、実際に兄3人が「帰国」している。自分も朝鮮大学校を出て90年まで大阪朝鮮高級学校で教師をしていた。辞職後に劇団女優、ラジオパーソナリティを経て、映像作家としてドキュメンタリー作品を作るようになり、97年に渡米した。03年帰国後、05年に長編記録映画「ディア・ピョンヤン」を発表、09年に「愛しきソナ」を発表。どちらも自分の家族を題材にした「私ドキュメンタリー」で、重い題材を身近な家族の中にとらえる視点が評判となり、ベルリンを初め世界の映画祭で上映。これらの映画を見て、劇映画の素材を持っていると考え製作を持ちかけた人がいる。「慧眼」というべきだろう。ドキュメントではなくフィクションでしか語れない、ものすごく重い体験がいっぱいヤン・ヨンヒ監督の中にはあったのだから。

 「帰国事業」については、今ではかなり細かく判ってきている。今までよく「川崎の貧しい朝鮮人が金日成主席に直接手紙で訴えた」ことがきっかけと言われた時があるが、それ以前から日本国内でも構想があった。50年代には、在日朝鮮人が在日のまま日本で生きて行くことは大変なことで、経済的にも社会的にも、子どもが大学に進学したり大企業に就職することは事実上考えられなかった。朝鮮戦争休戦からまもない時代で、韓国は李承晩大統領の独裁時代で経済的にも貧しかった。北朝鮮の方が中ソの支援もあり「計画経済」で順調に復興していると言われていた時代なのである。社会主義への期待が強かった時代で、日本で貧しい暮らししかできないなら、「祖国の社会主義建設に参加しよう」という訴えが心に響いた。一方、日本の治安当局は朝鮮人社会主義者への警戒を怠らず、また貧しい朝鮮人を「厄介払い」できる機会として、「帰国事業」に内心では反対でなかった。「在日」はほとんどが南部にルーツを持つが、こうして家族も親戚もいない北部にたくさんの若い世代が渡っていった。

 その当時は行きたいところへ行く、住みたいところに住むという権利を実現させた、世紀の人道事業と思われていた。今その様子をうかがえるのは、傑作映画「キューポラのある街」で、家族や友人と離れ離れになる悲しいことも起こるが、基本的には人道的な出来事として描かれている。ところが実際に行ってみると、思っていた以上に貧しく、大学へ行かせてくれるというのも宣伝で、労働力として使われるのはまだしも、資本主義社会を経験している「腐敗分子」として警戒された。また帰国者は一部の才能や資産に恵まれた人を除き、「出身成分の悪い被差別階級」として扱われた。「地上の楽園」と日本では宣伝していたが、実は貧困と差別の渦巻く「封建社会」だったのである。

 そのような実情は秘密にされなかなか明るみに出なかったが、80年ごろからはかなり情報が多くなり、内部でも問題になってきたようである。しかし、朝鮮総連ではタブー視され、家族を「人質」にされて発言できない人が多かった。経済環境が大変で家族は仕送りに追われた様子は、崔洋一監督の傑作「月はどっちに出ている」に見ることができる。「脱北」して帰国したような人もいないわけではないのだが、健康を害して早死にしたり、収容所に政治犯としてとらわれたりしたものも多いという。日本から「祖国訪問事業」で家族を訪ね少しだけ会うことはできたが、朝鮮人の夫について行った日本人妻を含め、ほとんどが日本を再訪することができないままになっている。これは戦後の日本に起こった悲劇的な人権問題なのだが、あまり取り上げられることがない。

 この映画で描かれていることは基本的には、全部事実がもとになっている。ただし実際は兄が3人いるわけだが、映画では兄1人とされている。また韓国の映画監督ヤン・イクチュン(傑作「息もできない」)が演じている「監視役」は実際はいなかったという。本当は日本の公安警察が見張っていたのだというが、気持ちの上では常に「北」に監視されている気分が続き、その気分の形象化が監視役ユン同志なのである。この役が非常にうまく効いている。安藤サクラが演じる妹リエはある夜、ユン同志につめより「あなたも、あなたに国も大嫌い!」と言い放つ。しかしユンは「あなたの嫌いなあの国で、お兄さんも私も生きているんです」と告げる。

 実際の人生では、このような言葉は言えなかったという。フィクションの世界の中で、何十年も経って本当に言いたかったことを登場人物に言わせたのである。実際に突然帰国命令があったらしいが、その時にはヤン監督は何も言えずに兄をただ見送るしかできなかったという。今回も兄をただ見送るシーンも撮ったというけれど、どうしても違うヴァージョンを撮りたくなり、安藤はアドリブで演技をした。そのシーンが映画のラストに使われているが、妹は出発しようとする兄の手をずっと離さず、車は一度停まってしまう。ただそれだけのことしかできないわけだが、それでも本当はしてみたかった小さな抵抗をフィクションの中で実行することで、ものすごく「救い」となったのではないか。これが人がフィクションを必要とする理由なのだと思った。

 同窓会として数人が集まった時(当然、朝鮮学校の同窓生なんだろうけど)、「白いブランコ」を歌うシーンがある。ビリー・バンバンのうたった1969年の曲である。60年代末から70年代初頭の「フォークソング」ブームの世代であるということを示している。「君は覚えているかしら あの白いブランコ…」。思い出が切なくよみがえる歌。このシーンを撮った時、俳優も皆泣いてしまったという。その気分直しで「あの素晴らしい愛をもう一度」も歌ったということだが、それはカットされている。忘れがたい心に沁みるシーンである。

 兄は井浦新で、この前「11・25 自決の日」で三島由紀夫を演じていたが、今回は全く違う役柄を実に似合いで演じている。全くその通りの感じ。ヤン監督は初の劇映画だが、素晴らしい緊張感で画面にあふれている。遠くに引いて見つめるのではなく、登場人物に寄り添いすぎるのでもなく、微妙に揺れるカメラが観客の心に共感を呼び起こす。ある夜、兄が妹に「頼みごと」をする場面は忘れられない名場面である。
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雑学に (私立お気楽ナツミ学園)
そんなことも知ってるの?って感じだよね~