尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

9条と国民主権-古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む②

2017年05月08日 23時07分54秒 |  〃 (歴史・地理)
 「日本国憲法の誕生」の歴史では、やはり「憲法9条」、そして「国民主権」をめぐる問題が、最大の焦点だったのは間違いない。だから、そのテーマをめぐって書くけど、憲法をめぐる議論をいま本格的に書きたいのではない。今回は「書評」ということで。
(古関彰一氏)
 大日本帝国憲法はそもそも改正する必要があったのか? 今じゃ当たり前すぎて誰も考えないけど、当時はそれも大きな論点だった。そして美濃部達吉斎藤隆夫幣原喜重郎のような、軍閥や右翼にひどい目にあわされてきた人々も、当初は改正不要論だったのである。美濃部達吉は「天皇機関説」が問題とされ、貴族院議員を辞職し、右翼に襲われた。斉藤隆夫は「反軍演説」で衆議院を除名された。幣原はたびたび外務大臣を務めたが、軍部・右翼からは「軟弱外交」と非難された。

 まあ判らなくもない。これらの人々は軍部や右翼には恨みがあっても、「大日本帝国憲法体制」に恨みがあったわけではない。敗戦に伴い、軍閥や右翼は権威を失墜した。もともと彼らは大日本帝国で重要な地位を占めてきた。彼らを追放した一派がいなくなれば、これからは自分たちの時代である。自分が帝国を指導していれば、無謀な対外戦争は起こさなかった。だから、それでいいわけで、改正の必要はないことになる。特に美濃部博士は、一生研究してきた帝国憲法がそもそも間違いだとは言えないのかもしれない。復帰した貴族院でも改正に反対した。

 こうして、戦前には「体制内リベラル」のように見られてきた人々が、実は「天皇制の呪縛」から逃れられなかった。後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「押しつけ」のような状況になるのは、日本側に当事者能力がなかったからである。この本を読めば、それがよく判る。マッカーサーはよく知られているように、昭和天皇を戦犯裁判に訴追するつもりはなかった。それに対して、マッカーサーの独断を押さえるために「極東委員会」(FEC)が作られる。1946年2月末に正式に発足すれば、天皇制に厳しい見方をしていたソ連やオーストラリアの意見が大きくなる可能性がある。

 GHQが急いで憲法改正案をまとめ上げたのは、「日本が平和国家に変わった」、だから「天皇がいても問題ない」という構図を作ることが目的だったのは間違いない。だから日本国憲法を「押しつけ」だというなら、それは「憲法9条の押しつけ」だったのではなく、「象徴天皇制の押しつけ」だったわけである。改正案審議時の首相・吉田茂やその前の首相・幣原喜重郎も、そのことはよく理解するようになっていた。(319頁)「皇室の御安泰」のためには、この憲法を受け入れる他なかったのである。

 そのことは改定前の本で、すでに明確になっていたが、今回の増補改訂版ではさらに「昭和天皇実録」など新しい資料を使って論じられている。それらを見ると、まだ不明確な点も多いが、「本土の非軍事化」と「沖縄の軍事占領」がセットになっていたことの意味がさらに重大な論点になってきたと思う。憲法9条で日本が戦争を放棄したことは、同時に米軍が沖縄に軍事基地を固定化することでもあった。それを理解していたのは、同時代的には、「沖縄メッセージ」を発して沖縄の軍事占領を認めた昭和天皇ぐらいしかいなかったのではないか。

 本書によれば、もともとGHQでは9条は「戦争の廃止」と表現されていた。その「廃止」という表現は、米国では「奴隷制の廃止」を連想させるという。それが「日本化」される過程で、「放棄」という表現に変わっていく。日本政府は、日本語表現と英語表現をあえてあいまいにすることが多かった。そのこともあって、言葉の変更の意味は本書でもまだ完全には解明されていないと思う。ただ、今まで「もともとは戦争の廃止だった」などという話は初めて聞いた。

 敗戦に伴い軍は解体されたので、天皇が軍を指揮するという帝国憲法は、変えざるを得ない。論理的にはそうなる方が当然で、「戦争放棄」はとりあえず受け入れがそれほど難しくはなかったと思う。(昭和天皇が自ら詔書で「平和国家」を表明していた。)それに対して、「国民主権」の方はなかなか明確化されなかった。戦後最初の総選挙(1946年4月)では、まだ保守派の政治家が多く当選していて、「国体護持」は大きな関心事だった。政府草案も当初は「国民主権」ではなく、「国民の総意が至高」などとあいまい表現になっていた。それに対して、報道され問題化する前にGHQが介入し、「国民主権」が明確化されたのである。(345頁以下)

 このことは今まであまり意識されていないように思う。これはある意味では、確かに「押しつけ」なんだけど、当時の日本政府が明らかにおかしい。GHQとしては、後で国際問題化することはマッカーサーの「面目」にも関わるし、絶対に避けなければならない。そこで「内面指導」を行ったのである。つまり、日本政府が自発的に変えるように裏で交渉するわけである。日本政府は受け入れるしかない。今では国民主権は当たり前のことになっているが、そういう経過が存在したのである。

 もう一点、憲法審議の過程で、政府が自ら変更した点がある。それは憲法9条の修正案が決まって、2項に「前項の目的を達するため」という文言が挿入されることになったことに関わる。極東委員会での協議で、中国代表から「この修正を口実にして自衛のためと言って軍を持つのではないか」と、まさに図星のような指摘があったのである。(393頁)もちろんこの当時の中国は「中華民国」である。古関氏が指摘するように、日本による「自衛の名による侵略」を受けてきた中国だからこそ、9条修正が何をもたらすかに気付いたのである。

 そこでいろいろと議論されたが、マッカーサーに問い合わせを行うことになった。そして、なんにせよ占領終了後に日本が憲法を改正して再軍備することはあり得ると考え、むしろそれを前提にして、66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という条文を挿入することになったのである。「文民」という日本語は当時は存在しない。(今もないのと同じだろう。)civilianの訳語だけど、あえて言うなら「文官」の方が日本ではなじみがある。戦力を持たない日本では全員が「文民」のはずだが、あえてこの条項が入れられた裏には、戦後日本への懐疑的な国際世論が存在したわけである。

 まだまだこの本から学ぶ点はたくさんある。特に憲法研究会の活動などは印象深い。今回新たに増補された(ちくま新書「平和憲法の深層」所収)「東京帝国大学『憲法研究委員会』の役割」の章を読むと、新憲法制定史には不明な点がかなり残されている。それらの点は、今後書くかもしれないが、とりあえず本書に直接当たって欲しい。書評としてはこれで終わることにする。
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