尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「坊っちゃん」「倫敦塔」他ー夏目漱石を読む②

2017年04月18日 23時02分51秒 | 本 (日本文学)
 漱石読書の2回目。ちくま文庫版漱石全集の第2巻には「倫敦塔」「幻影の盾」など7編と中編「坊っちゃん」が入っている。しかし、「坊っちゃん」以外は恐ろしく読みにくい。それらは擬古風の美文で書かれたロマン派風の作品で、漱石初期にはそういう作品も書いていたということである。泉鏡花や幸田露伴みたいな作家になったかもしれない可能性が、漱石にもあったわけだ。

 だけどまあ、あまり成功していないと思う。特に「一夜」「趣味の遺伝」なんかは何だか全然判らない。ただ、「趣味の遺伝」は旅順攻撃で戦死した友人が出てきて、中で乃木将軍(と思われる将軍)の凱旋の模様が描かれていて興味深い。「倫敦塔」「カーライル博物館」「幻影の盾」「薤路行」(かいろこう)はイギリスに材を取っている。「カーライル博物館」は写生的だけど、それ以外は幻想的な短編。中世騎士の伝説を描く「幻影の盾」や「薤路行」は結構いいけど、今では読みにくくて雰囲気に浸りにくい。「倫敦塔」が一番いかもしれないけど、イングランド史の暗い王権簒奪の歴史が身に沁みる。ただ「琴のそら音」は普通の文章で書かれたホラーもので、後味も悪くなくて面白かった。
 
 ということで、「坊っちゃん」にたどり着くまでにだいぶ時間がかかる。「坊っちゃん」は中学以来だと思うが、今でもものすごく面白い。「文体」が確立している。だけど、内容的には生徒だけでなく、自分も教師を体験したわけだから、ある程度感想も変わってくる。今回、小林信彦「うらなり」(2006年、文春文庫に2009年)を取り出して読んだけど、今では両者を比べて読む方がいいと思う。漱石の原作で「うらなり」とあだ名された英語教師古賀の「その後」を描いている。昭和9年になって、古賀(うらなり)と堀田(山嵐)が再会する。「マドンナ」のその後も出てくる。それらは著者の創作だけど、違和感はない。
 
 今はどうなのか知らないけど、「坊っちゃん」は中学生ごろの必読本とされていた。「中一時代」とか「中一コース」とかいう「学年雑誌」を多くの生徒が予約購読していた時代で、多分そういう雑誌の付録に付いてたので読んだんだと思う。文学初心者でも読める。スラスラとどこまでも渋滞しない文体で、漱石が初めて獲得したものだと思う。1906年に書かれたが、その時点では「猫」もまだ続いていた。「ホトトギス」には両方載っているという。「猫」は猫語りと、苦沙弥先生と、漱石自身が混然となっている。そこが魅力でもある。だけど、「坊っちゃん」は漱石が後景に退いて、主人公の語りに一本化されている。

 今までに多分2回読んでると思うけど、それこそ半世紀近い前だから、ずいぶん忘れていた。一番驚いたのは、「マドンナ」(遠山令嬢)がほとんど出てこないこと。確かに出ているし、坊っちゃんも駅で実見しているけど、他にはほとんど出てこない。「坊っちゃん」は戦前の山本嘉次郎監督作品から、昨年正月の二宮和也主演のテレビドラマまで何度も映像化されている。映画の中では、岡田茉莉子、有馬稲子、加賀まりこ、松坂慶子らがマドンナを演じている。坊っちゃん以上に、マドンナに集客効果を期待しているような感じである。赤シャツがマドンナ宅を訪れるような場面は原作にない。

 原作を表面的に読むと、どこか四国辺の中学(漱石が実際に赴任していた松山中学がモデルと普通思われているが、名前は出てこない)に赴任した「坊っちゃん」が、「江戸っ子」の流儀を押し通す「痛快物語」である。最後まで名前が出てこないから、すごい。読んでるうちに「デジャブ」(既視感)が高まってきた。自分で読んでるんだから当たり前だろうという話ではなく、映像で見た高倉健や石原裕次郎のサラリーマンものを思い出したのである。60年代初期に作られた大衆映画の中では、会社にはびこる不正を新進気鋭の社員が暴いて正義を実現する。高倉健や石原裕次郎は、そういう映画の中の「快男児」にピッタリである。「坊っちゃん」はそういう快男児の原型と言っていい部分がある。

 だけど、「坊っちゃん」をよく読むと、漱石は表面的印象とは違うことも書いている気がする。小説を読んでいるだけでは、「坊っちゃん」先生を生徒がからかう場面が最初にある。天ぷらや団子、温泉などの様子を教室でからかわれる。その後、初の宿直で「バッタ事件」が起きる。バッタ事件などは相当に悪質で、この学校にはそれ以前から問題があったのではないかと思われる。その後、坊っちゃんは赤シャツ(教頭)と野だいこ(美術教師吉川)に釣りに誘われ、生徒の裏に山嵐(数学主任堀田)がいるらしいとフェイクニュースを吹き込まれる。

 坊っちゃんは今までの学校を知らないので、来たばかりで問題を起こしている教員である。まあ採用すぐというのはそんなものだと思うが、「初任者研修」も何もないので手探りでやっていくしかない。坊っちゃん自身も、「江戸優先主義」を振りかざし、地方蔑視が甚だしい。それに直情径行でかっとしやすいから、生徒からすれば一番からかいやすい新任教員である。だから何も判っていないのだが、英語教師古賀の父が死んで古賀家没落が始まるのは、もっと前である。赤シャツとマドンナの関係も坊っちゃんの来るずっと前から始まっている。山嵐と学校側の確執も前からである。

 坊っちゃん側からすると、坊っちゃんの大活躍で学校の不正が正されるかのように思われるが、実は違っている。坊っちゃんと山嵐は学校に辞表を出して去り、校長と教頭は安泰である。それに先立って古賀先生も延岡に去っている。赤シャツの完勝である。坊っちゃんは、この「学園紛争」の脇役である。校長からすれば、堀田先生を追放した後で、数学が手薄にならないように、坊っちゃんを抱き込む必要がある。というより、東京物理学校(今の東京理科大)を出ていて、学士ではないものの東京出身をウリにできる坊っちゃんが赴任してきたから、山嵐追放へ動き始めたと言ってもいかもしれない。

 「坊っちゃん」を読んでる限りでは痛快物語だけど、教員間では完敗してるし生徒の応援もない。中学対師範学校での生徒のケンカでも、赤シャツの弟が誘い出しに来ていて、生徒はむしろ赤シャツ側だったのだろうか。生徒の応援のない教員間トラブルは大変だ。そういう「苦い現実」を隠し通し、坊っちゃん視点から「痛快物語」にしているのが小説「坊っちゃん」である。だけど、このネーミング自体、最後の方で野だいこのからかいの言葉として出てくるのである。「青二才」といった意味である。だから漱石は「裏の現実」を認識していて、そのうえでこの小説を書いているのである。
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