尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍「お友達内閣」をどう考えるべきか

2017年07月01日 00時01分29秒 |  〃  (安倍政権論)
 2012年12月に復権していて以来、第2次、第3次と長期政権を続ける安倍晋三内閣。今までも何回も触れているけれど、その「お友達内閣」性をどう評価するべきなのか。安倍氏は1954年9月21日生まれなので、2006年9月26日に小泉内閣の後を受けて内閣総理大臣に指名されたときは、まだ52歳になったばかりだった。これは日本の政界においては「若い」と言われる年代だけど、安倍氏は小泉後継に名を挙げた。父の安倍晋太郎は、首相を目前にして病気に倒れたので、待っていては自分も病気で総理を逃しかねないと思ったと言われている。

 そのため第一次安倍内閣は、準備不足、性急さ、仲間内で固めた偏りなどが指摘され、「お友達内閣」などと揶揄されたわけである。その後、2007年の参院選に敗北し、9月になって首相を辞任。続く福田康夫内閣も1年で辞任し、麻生太郎内閣となるも、2009年に民主党政権が誕生する。そして、2012年12月の総選挙で自民・公明の連立内閣が復活する。安倍氏は2012年9月の総裁選では、最初2位だった。そういう経過もあり、当初の第2次安倍内閣は、幹事長に石破茂を配するなど、それなりに党内融和を図っているように見えたわけである。

 ところが、次第に「本性を現す」というか、自分に近い人だけを重用するという態度が露骨になってきた。小池都知事に関して書いたときに触れたように、稲田、高市氏などは何度も重要ポストに使われるのに、小池氏はポストが回ってこない。そういう人事をどう理解するべきだろうか。菅官房長官などに言わせると、「閣僚人事は総理の専管事項」の一言で済まされてしまう。何か安倍首相に深い配慮があるかのようだけど、今になると誰もそう思う人はいないだろう。要するに「ひいき」なのである。

 最近稲田防衛相が、ちょっと信じられない「失言」をした。都議選で自民党候補の応援演説で、「防衛省、自衛隊、防衛大臣としてお願いしたい」と言ったというのである。いま「失言」にカッコを付けたけど、それはこれが多分「失言」(不都合なこと、まちがったことなどをうっかり言ってしまうこと)ではないからである。だから本人は「誤解を与える発言」と言い張っている。でも「誤解」のしようがない発言だろう。それなのに安倍首相はかばい続けて交代させない。

 ちょっと前に今村復興相という人が、これはホントの「失言」をしたときはすぐに交代させられた。今村氏の発言は論外だけど、法には触れない。稲田氏の発言は「違法性」がある。ちなみに、教育公務員は選挙前になると「政治的中立性を疑われないように注意せよ」というお達しを毎回厳しく言われる。職員室のどっかにも貼られているんじゃないか。自民党などの右派勢力がうるさいから、教育委員会もピリピリする。防衛省、自衛隊ではそういう通達は出ないのだろうか。今回の発言が論外で違法だということは、毎回選挙ごとに言われてきた身には自明というしかない。

 でも、多分総理は稲田防衛相を変えないだろうなと事前に思った。そういう人なのである。もうよく判っている。「泣いて馬謖を斬る」ができない。自分に近い人にこそ、厳しい接し方をすることがトップに立つ人には求められる。今回、間髪を入れずに稲田防衛相を更迭していたら、逆に支持が少し回復したのではないだろうか。でも、まあ予想通り稲田氏は内閣改造までは留まることになりそうだ。

 そういう「お友達内閣」性をどう考えればいいのか。僕にも最終的な結論はないんだけど、最近よく判ってきたのは「失意の時期の安倍氏を支えた人々への恩義意識」である。小池氏がポストを得られず、稲田、高市氏らが重用される。あるいは今回の加計問題で名があがる、下村博文、萩生田光一らも同様に考えれば判る。安倍氏の総裁選立候補に、率先して支持した麻生氏を副総理で処遇し続ける。総裁選の実務を仕切った菅官房長官も同様。これが案外大きいと思う。

 マスコミも同様である。先に読売新聞で改憲への意欲を表明し、国会でも「読売新聞を熟読せよ」と暴論を吐いた。いつも内閣を支持してくれる読売新聞への恩返しかと思うが、ではもう一つの新聞はどうするのかと思ったりもした。そうしたら、6月24日に神戸で「正論」の懇談会発足の会に出席して「怪気炎」を上げた。なんでも秋の臨時国会で自民党の改憲案を出すとか。それに獣医学科大学も全国に展開するんだとか。その内容の問題性は別に書くとして、「正論」というのは、産経新聞が出している右派論壇紙だから、これでちゃんと産経にも恩義を果たしたわけである。

 もう一つ、ある意味、「本気」なのかもしれないということである。どういう意味かというと、単なる「ひいき」ではなく、自分たちの思想に近い人々を優遇することは正しいと本気で信じ込んでいるのではないかということである。アメリカでは金持ちが自分たちの住む街にゲートを作って警備員を置き、外部から隔絶された環境で暮らすというようなことがあるそうだ。日本でも「自己責任」「規制緩和」がもう20年近く言われ続けている。本気で信じ込む人々が出てくる方が自然である。

 小さい時から恵まれた私立の一貫校でしか過ごしていない人々が安倍内閣のほとんどである。自分たちが「自己責任」によってではなく、恵まれた階層性によって現在の地位についているのに、そのことが理解できない。自分の周りの友人に配慮するのは「美徳」である。「教育勅語」にも「朋友相信じ」とあるではないか。どこかからお金をもらって政治を曲げたのではない。友人にちょっと配慮してあげただけである。そこらあたりが本音ではないのか。今僕が思うのはそういうことである。
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