尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

歴史の中の朝日新聞-朝日問題⑥

2014年09月25日 23時06分09秒 | 社会(世の中の出来事)
 朝日新聞問題を歴史的な文脈で考えてみたい。ウソも100回聞くと信じてしまう人が世の中にはいるらしいから、朝日新聞を「反日」とか、まあそれは極端すぎるとしても、「左翼新聞」などと思っている人もいるのかもしれない。もちろん、そんなことがあるわけもなく、朝日新聞は基本的にはずっと「体制内野党」的な立場にたってきた。というか、基本的に新聞というのは皆そういうものである。そうではない新聞が欲しいと財界が出資して全国紙となった産経などは別として、本来の問題は朝日ではなく、「読売新聞はどのようにして右派的論調に変容したのか」の方だろう。

 大新聞社というのは、大体国有地を払下げてもらって本社ビルを作っているし、販売網の維持や新聞用紙の手当など既存の社会、経済システムの中で存在している。だから、普段は政府批判をしていても、「最後には体制維持を優先する」ものだと昔から思われている。大新聞のことを左翼陣営はよく「ブル新」(ブルジョワ新聞)などと呼んでいたものだが、60年安保闘争の時の「七社共同宣言」などは、それを証明するものとも考えられる。これは朝日の笠信太郎などが中心となり、6月17日の各新聞に「暴力を排し議会政治を守れ」と題した共同宣言が掲載されたものである。(6・15の国会前衝突で樺美智子が死亡して大きな衝撃を与えたことを受けて作られたもの。日本経済、毎日、東京タイムズ、朝日、東京、産業経済、読売の7社が参加した。)

 大新聞のもとをたどると、朝日、読売、毎日などは、資本の推移があっても大体明治初期にさかのぼることができる。活版印刷技術が新聞発展の条件だが、それ以上に「ある程度自由な言論空間」がないと新聞は存在できない。新聞を読まなくても生きていけるわけだから、「新聞を必要とする」人々、つまり武力で政府に立ち向かうのではなく、言論で反政府活動を行う人々の存在が新聞を成立させる。わざわざ金を出して政府の言い分を読もうという人は少ないから、どうしても政府批判や高官のスキャンダルなどが新聞の売り物になる。だから自由民権運動は新聞で広まり、政府も対抗して讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例などで弾圧を強める。だから新聞の出自は反政府運動にある。

 とは言うものの、新聞を真に大きくしたものは、反政府運動である以上に「戦争」だった。これは世界共通で、1898年の米西戦争はアメリカのハースト系新聞の扇動によると言われる。日本でも日清戦争が始まると、各新聞は反政府の主張を一時おいて戦争報道に熱狂する。日露戦争なども同様で、大正デモクラシーの限界としてよく言われる「内に立憲主義、外に帝国主義」という言葉は新聞にも当てはまる。それでも、大阪から東京に進出した朝日新聞は、護憲運動や普通選挙運動などを熱心に支援した。そして大正時代中頃、寺内内閣時代に大阪朝日の白虹(はっこう)事件が起こっている。「筆禍」事件に発した言論弾圧で、詳しくはウィキペディア等で調べて欲しいが、右翼団体の反発・不買運動、反朝日キャンペーンなど、今回のケースと類似点が多くみられる。この事件で長谷川如是閑などが退社し、大阪朝日が屈服したことが、後の満州事変以降の戦争賛美報道につながったとも見られるので、非常に重要である。

 今年、夏目漱石の「こころ」連載100年ということで、改めて朝日新聞が再連載して注目を集めた。夏目漱石は1907年に東大講師を辞任して朝日新聞に入社して評判になった経緯がある。このように文化的な貢献が大きいために、戦前から朝日新聞は日本を代表する新聞と目されてきた。そのため、右翼から反発を受けることが多く、例えば2・26事件の時も反乱軍に占拠されたし、戦時中には反東条の意味がある中野正剛「戦時宰相論」を掲載して問題化した。このような戦前の「弾圧」は戦後になれば「勲章」になる。吉田茂(戦争中に反東条運動で憲兵隊に拘束された)や共産党(幹部の徳田球一や志賀義雄が「獄中18年」に耐えて釈放され英雄視された)などと同じである。朝日も戦時中には戦争報道を繰り広げたわけだが、それでも戦前の弾圧体験が戦後の朝日新聞に「信用」をもたらしたのは間違いない。

 戦後の朝日は国民感情に沿った「平和」と「進歩」を主な論調としてきた。それを最近は「リベラル」などと表現することが多いが、戦後社会では「進歩主義」という言葉の方が実態に合うのではないか。「進歩」を掲げるので、核兵器には反対しても一時期までは「原子力の平和利用」は「進歩」として支持した。一昔前までは「進歩的文化人」という言葉があって、自民党政府に反対する声明やデモを呼びかける作家、評論家、大学教授などをそう呼んでいた。「平和」(を重視する)意識はまだ残っているけれど、「保守」はマイナスで未来に向かう「進歩」がプラスという考え方はだんだん衰えたから、最近では「進歩的文化人」などといった、今思えば恥ずかしい表現はすたれている。それと歩を合わせるように、朝日の論調に対しても右からの批判が強くなってきた。

 そして、中央紙の一つとして、朝日新聞も論調もそれなりに変化してきたのではないか。例えば、消費増税やTPPは朝日も毎日も読売も「基本的に賛成」である。しかし、TPPには地方紙のほとんどは反対である。(東京新聞が反対なのは、東京新聞が中日新聞の子会社で基本的にはブロック紙、東京における地方紙という意識からではないか。)集団的自衛権などでは、よく知られるように「朝日・毎日・東京」対「読売・産経・日経」となる。一つ一つの問題で、各紙がどんな論調を取ろうと、それはもちろん自由である。しかし、このような「平和」問題における「二極構造」を考えると、先の消費税、TPP問題を考え合わせて想像すると、「あともう少し」と見えないだろうか。部数を考えると、朝日と読売が同じような論調になれば、おおよそのマスコミ、特に中央の新聞、テレビは従わざるを得ないのではないか。「あともう少し」というのは、今、朝日新聞を徹底批判し、屈服させ、論調を少しでも変えさせれることに成功すれば、「憲法改正への道も切り開かれてくる、そこまで、あともう少し」と安倍政権には見えているのではないかという意味であることはもちろんである。

 朝日だろうとどこの新聞社だろうと、個々の記者には様々な考えの人がいるから、もちろん左翼政党(及び新左翼党派)を支持する人もいただろう。一方、保守やノンポリの人もいる。(例えば、松島みどり現法相は朝日新聞記者出身である。)そういう個々の記者の様々な考えを別にして、経営首脳陣の考えはおおむね「体制内野党」=「自民党内のハト派」に近かったのではないかと思う。そう思うと、最近の朝日新聞に宮沢喜一、伊東正義、後藤田正晴、加藤紘一、河野洋平、古賀誠、野中広務などを取り上げる記事が多いような気がする。これらの政治家がやったことは、支持できないことがいっぱいあるように思っているけれど、確かにこれらの政治家が政府の中枢にいたならば、靖国神社に参拝するとか、集団的自衛権の行使などどいった問題は発生しなかったのではないか。「河野談話」が感情的に批判されている様子なども考えると、今の政治の「対立構図」は「自民党内の少数勢力だった右派勢力」が「自民党政治を作ってきた保守本流」を追い落とし、政治的発言権を最終的に奪ってしまうことを目指している、ということだろう。世界の状況を判っている「国際協調派」を追い落とし、「国粋主義」にまとめるという意味で、1930年代の国際連盟脱退や滝川事件、天皇機関説事件に近いムードが週刊誌の見出しだけ見ると存在する。これは明確に「戦争に向けた国づくり」の一環として計画されていたものではないだろうか。
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