尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書「観応の擾乱」を読む

2017年08月08日 23時16分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書で出た呉座勇一氏の「応仁の乱」が昨年来ずっと売れている。僕もとっくに読んでいるんだけど、ここまで大ベストセラーになるとも思わず、ここでは書評を書かなかった。この本は判りにくい応仁の乱を相当に判りやすく書いているけれど、それでも一般には難しいだろう。歴史専門の人ならともかく、ここまでの記述は煩わしいんじゃないかと思ったのである。

 で、今度は亀田俊和観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)が出た。これも判りにくい出来事を判りやすく書いたものである。こっちは書いておこうかと思う。でも、多くの人は「観応の擾乱」と言われても何だか知らない言葉だと思うだろう。応仁の乱と違って、高校段階の日本史では大きく取り上げない。だから僕もよく知らない。もちろん、何だったかは知っている。南北朝時代に足利幕府内部で、将軍足利尊氏と弟の足利直義(ただよし)が争った出来事である。

 もともと足利氏の執事を務めて大きな権勢を誇った高師直(こうのもろなお)など高一族と直義の対立が激しくなったことが争乱の始まりである。そこからオセロゲームのように白と黒があっという間に変わるような激動の戦乱が続いた。そこに吉野の奥で存続していた南朝も絡んで、全日本に戦乱が広がった。一時は直義が南朝と結んだこともあれば、その後逆に尊氏が南朝と結んだこともある。自分たちで擁立した北朝をうっちゃって、勝手に南朝と手を結ぶなど「禁じ手」の連続である。

 その推移は誰もちゃんと覚えていられないぐらい激しい。結局は足利尊氏が勝利し義詮、義滿と続き、天皇家も北朝が続く。それをみんな知ってるから、観応の擾乱? そういえばそんなのあったよね程度で済まされてしまいがちである。それを細かく丁寧に史料を読み込んで、なるほどという歴史叙述にまとめ上げる。著者の亀田俊和氏(1973~)は、僕は知らなかったが、ここ数年『高師直』や『足利直義』などの著作があり、このテーマをずっと追いかけて来たことが判る。なお、今月から国立台湾大学日本語文学系助理教授という気になる肩書が書いてある。

 中世史という分野は、史料の整備が格段に進んだうえ、細かな制度史の研究が進んできた。そうなると、いくらでも不思議なことが出てきて、どうも簡単な決めつけが出来なくなる。通説的理解では、高師直は典型的な「バサラ大名」で革新的、一方直義は旧来の秩序を重んじる保守派だとされてきた。高師直は「太平記」で大変な極悪非道に描かれているから、そういう「悪人」と正道をゆく政治家の対立のようにも言われたりする。でも、どうもそう簡単には割り切れないようだ。

 鎌倉時代には、源氏将軍が絶えた後に皇族や藤原氏を名目的将軍に仰ぎ、北条氏執権として実権を握った。だが、後には執権も名目化し、北条氏の「惣領」である「得宗」(とくそう)が実権を持ち、さらに得宗家の家政を担当する「御内人」(みうちびと)が権力を持つようになる。そういう「表に立つ人」と「裏で実権を持つ人」が分裂するのは今もよくあることだ。さらに、権力というのは、どうしても「身内」(御内)を優先する「お友達政権」になっていくということが判る。

 足利氏はもともと源義家の4男、義国に発する源氏の名門御家人で、源氏将軍が滅亡した後も北条氏に従い、有力一族と認められていた。高一族はそういう有力一族の家政を担う「御内人」のような存在だったのだという。一方、尊氏、直義兄弟の母が出た上杉氏も関東で大きな力を持っていた。後に関東管領となり、戦国時代に長尾氏に上杉姓を譲り、戦国を生き抜いて米沢で幕末まで続いたあの一族である。(幕末まで続いたから中世史料も相当に残った。)高氏と上杉氏も対立した。

 そこに足利直冬(ただふゆ)が登場する。尊氏の実子だが、庶子でなかなか認められなかった。後継者がいなかった直義が養子とし、中央政界で武将としてデビューした。だが尊氏はずっと冷たくて、この父子対立が大きな影を落とす。争乱当初、直義・直冬側が圧倒するのも、武将としての才能があった直冬を認めない尊氏に対して多くの御家人の反感あったからではないかという。

 争乱の経過はめまぐるしいが、高師直が大軍でクーデタを起こし、直義も一時は出家に追いやられる。だが反転攻勢に転じると、直義側に転じる武士が続出し、直義も南朝に降伏し…。その後高師直らは敗れ惨殺される。尊氏・直義のトップ会談でいったん和平が実現するが、それはすぐに破れ今度は直義が関東に落ち延びる。そういう経過をいちいち書いていても面倒くさいだけ。本書を読んでいても、あっという間に形勢が逆転するから、はっきり言って訳が分からない。

 そのもとにあるのは、「恩賞充行権」(おんしょう・あておこない)だったという。もともと後醍醐天皇に背く気もなかった尊氏に対し、北朝を積極的に擁立したのは直義の方だった。だから将軍の地位にはありながら、尊氏はあまり政治にやる気を見せず、直義にかなり実務をゆだねていた。軍事指揮権も直義にあったのである。(だからこそ、直義と師直が対立することになる。)だけど、そんな時期でも「恩賞充行権」だけは尊氏が握っていたという。

 戦争で功を挙げても、それだけでは所領は増えない。どこどこの領地を与えるという実際的なお墨付きがないといけない。でも、もともと荘園は皇族・貴族・大寺社の所領であり、武士が勝手に横領してはいけない。裁判になると証拠のはっきりした領主に軍配が上がることが多く、だから直義が「保守派」とか「正義派」と言われることにもなる。そこではっきりした「恩賞」を力で充てることができるのが、武家政権の最高権力者である。

 直義は勝った時にも多くの武将に恩賞を充てることがなかった。一方、尊氏はどんどんやる気を見せていき、ついには足利幕府の骨格を築くことに成功する。もっとも、直義や直冬もずいぶん戦闘には消極的である。もっと先頭に立って戦っていればば局面は変わったかもしれない。この本によれば「実兄」「実父」への遠慮がどうしてもあったという。それがこの骨肉の戦いを少しは救っている。具体的な制度のあり方と同時に、人間どうしの相性も大きな影響を持つ。今の時代の政争も同じだろう。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 上値重い内閣支持率-安倍改... | トップ | 驚くべき傑作、インド映画「... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL