尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

イランの傑作映画「セールスマン」

2017年07月15日 22時39分50秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したイランの映画、アスガー・ファルハディ監督「セールスマン」は、有無を言わせぬ心理サスペンスの大傑作。今年を代表する何本かに入る映画だ。(東京でのロードショー公開は、渋谷のBunkamuraル・シネマで21日まで。)

 木曜日に見たので、忘れないうちに書いておきたい。アスガ-・ファルハディ(1972~)は、前に「別離」でもアカデミー賞を受けているので、2回目になる。この監督の不思議な映画世界に関しては、未公開作品がフィルムセンターで上映されたときに「アスガー・ファルハディの映画-現代アジアの監督③」で書いたことがある。イランの他の有名な映画監督のように、詩的、神話的、あるいは社会批判的な要素は少ない。ないわけじゃないけど、それよりテヘランの日常生活に材を取って、緻密な脚本で人間関係の矛盾を見つめているような映画が多い。

 今度の「セールスマン」は、説明がないから判らないところも多いけど、実に完成度が高い。現実の人間ドラマをその場にいてドキュメントしたような感じもするけど、実は練り上げられた脚本計算されたカット割りで作られている。映画を見ているうちに、イラン独自の事情から、だんだん人間世界に共通の深みに達していく。その力量は素晴らしく、ファルハディの最高傑作になるだろう。
 (2016年カンヌ映画祭で、脚本&男優賞を受賞した時)
 「セールスマン」というと、僕なんかつい「の死」と言いたくなっちゃうんだけど、ホントに「セールスマンの死」に関わる映画だったのには驚いた。20世紀アメリカを代表する劇作家アーサー・ミラーの代表作である。日本でも何度も上演され僕も見ているが、イランと言えばアメリカと長いこと断交中である。ミラーの劇なんか上演できるのかと思ったけど、ちゃんとしているからビックリ。そういえば、中国で上演されたときのノンフィクション「北京のセールスマン」という本もあった(未読)。発展中の国々でこそ、時代に取り残された男の悲しみが伝わるのだろうか。

 高校の国語教師エマッド(シャハブ・ホセイニ)と妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)は地域の劇団で主演する俳優である。もうすぐ「セールスマンの死」を上演するので稽古中。そんなある日、住んでるマンションで「危ない、避難しろ」という声が飛び交う。なんだと思うと、隣の土地が工事中で、壁にヒビが入っている。その事情が最初よく判らないんだけど、日本でも耐震偽装問題なんかもあったし、世界ではビル倒壊のニュースなんかもけっこう聞く。まあ、そうして突然引っ越すわけ。

 引っ越し後のある日、ラナが夫だと思ってマンションのカギを開けて、自分はシャワーを浴びていたら…。突然何者かがやってきて、ラナは襲われる。隣人たちが騒いでいる中を夫が帰ってきて、病院に連れて行く。一体何があったのだろう? その後の隣人たちの話では、以前の住人は「ふしだらな女」だったらしい。荷物もたくさん残っていて、前から迷惑していたが、そんな人だったとは。「ふじだら」とは、どうも見知らぬ男を何人も部屋に入れること。つまりは「売春婦」だったのだろうか?

 ラナは軽症で済んだが、警察には行きたくないという。エマッドは部屋にお金と車のカギがあるのに気づく。カギは駐車場に残されたトラックに当てはまった。これが犯人の車と思って、犯人探しを始める夫。一方、ラナは犯罪被害者としてPTSDになったようで、舞台にたってもセリフが出てこない状態になる。こうして、映画の後半では夫の犯人探しと「セールスマンの死」の舞台が交互に描かれる。

 次第に「セールスマンの死」のテーマ、つまり競争社会の中で取り残されていく主人公崩壊する家族金銭によって測られる人生への苦悩などが、テヘランに住む人々の苦悩と共振していく。そこが見事な作劇で、特にエマッドは「セールスマンの死」の主人公ウィリー役なんだけど、現実の彼はどんどん変貌して復讐に取りつかれてしまう。一方、時代に取り残された「セールスマン」にあたる人物が最終盤に出てくるのが圧巻。そこで人間の不可思議、判りえないものが残されて終わる。

 犯罪被害者、特に女性が「性」に絡んだ被害にあったとき、被害者側にも落ち度があったのではないかと周辺から見られることは、日本でも判ることだ。特に家父長制が強く残るイスラム社会では厳しいものもあるだろう。だから、警察に届けないというラナの判断も理解できる。都会のインテリ階級なんだけど、それでも夫の中には「妻が負わされた被害を夫が回復しなくては」という意識にとらわれてしまう。表向き欧米と同じようなリベラルでも、一皮むけば「過去」にとらわれている。

 そのような問題は日本でもよく判るし、非常に痛切な思いが伝わる。だけど、ファルハディ監督の作風としては、テーマを声高に語るのではなく、あくまでも夫婦間の事件に絡んだ人間模様を細密に描くだけである。セキュリティのしっかりとしたマンション、車を乗り回す人々、パスタを作ってもてなす妻、アメリカの戯曲を上演する劇団…とこれがイランの生活かという感じなんだけど、イランと言えば中東の政治問題でしか語られないイメージがどれだけ偏ったものかということでもある。主演のタラネ・アリドゥスティは今回来日しているが、ファルハディ作品は4回目の主演。前にも思ったけど、薬師丸ひろ子似で魅力的。(下は来日時の写真。)
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