尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日中戦争の本質-「日中戦争全史」を読む②

2017年12月11日 23時13分17秒 |  〃 (歴史・地理)
 笠原十九司「日中戦争全史」を通して、日中戦争の本質について考えたい。この本には様々な出来事が書かれていて、いくつもの切り口があると思う。第二次世界大戦についてはぼう大な本があるが、米英との戦争が始まった後の中国戦線に関してはあまり書かれていない。この本ではその頃のことも十分に書かれていて、日中戦争に関して全体的な把握ができるようになっている。

 あまり知られていないので、その問題を最初に。中国には大量の日本軍が動員されていたが、東南アジアへの侵攻が始まると多くの部隊が南方へ回された。そして、中国は兵站(へいたん)基地とみなされるようになった。戦争を支える資源、食糧などを日本軍に提供する場所である。そして、1942年4月に日本に対する初の空襲、ドゥーリトル隊の攻撃が起きる。秘密裡に日本近海に近づいた空母から米軍機が飛び立ち、日本各地を空襲後に中国の飛行場に向けて飛び去って行った。

 「帝都」を空襲された日本軍は衝撃を受け、本土空襲を阻止するために未支配地区の飛行場をつぶす作戦が実施された。それが「浙贛(せっかん)作戦」で、浙江省から江西省へ至る作戦という意味である。(「贛」は江西省の別名。)ここで日本軍は細菌戦を実施した。現地軍や支那派遣軍総司令部も細菌戦には反対したのだが、中央が押し切ったのである。いわゆる「731部隊」が研究・開発したコレラ菌を散布したのである。だが、この非人道兵器の使用を秘密にした日本軍では、中国軍が撤退した後に進軍した日本軍兵士がコレラに感染し1700人も死亡する惨事となった。

 非人道兵器としては毒ガスも以前から何度も使用していた。化学、生物兵器はジュネーヴ条約で禁止されていたが、日本は批准していなかった。それでもこれらが非難されるものだと知っていたはずだ。米英との戦闘では使用していないのだから。それを中国戦線では使用したのである。当時から秘密にされていたから、その後の研究の進展を知らない人は、日本軍が毒ガスや細菌兵器を使用したことを知らないのではないか。現在は史料によって確認されているのである。

 時間を前に戻して、1940年1940年8月20日に「百団大戦」が開始された。これは中国共産党の「八路軍」による一斉攻撃作戦である。当時の日本軍は、重慶の国民政府しか眼中になく共産党の勢力をあなどっていた。この年はナチスドイツが電撃戦を開始してフランスが降伏し、ヨーロッパをドイツが制覇する勢いだった。ドイツはイギリスにも毎日のような大空襲を続けていた。中国でも日本は重慶に大空襲を繰り返し、3月30日には国民政府を脱した汪精衛(汪兆銘)による政府も成立していた。9月27日には日独伊三国軍事同盟が結ばれた。「ファシズム勢力」の最盛期だったのである。

 ここで八路軍による「百団大戦」が起こった。参加兵力は40万と言われ百を超える軍団が参加したから「百団大戦」と呼ばれた。これは日中戦争史、あるいは中国共産党史では前から知られているが、一般的はまだ知られていない言葉だろう。この作戦で日本軍は大きな損害を受ける。鉄道線路の破壊114か所、橋梁爆破73か所などで、死傷者数は日本側は明らかにしていないが、中国側は日本軍の死傷者2万645人としているという。しかし、そういった具体的な「戦果」以上に、困難な時期に総力を挙げて「抗日」を続ける意思を示した歴史的意味がある。イギリスの「バトル・オブ・ブリテン」やベトナム戦争での「テト攻勢」などに並ぶものだ。

 共産党軍の力を認識した日本軍は、以後共産党の「抗日根拠地」をつぶすことに力を入れる。それが中国側が「三光」(焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす)と呼んだ作戦である。三光作戦が中国側のネーミングだけではなく、日本軍が「燼滅掃討作戦」(じんめつそうとう)と呼ぶ正式な作戦だったことを明らかにしたのは笠原氏である。まとめて「治安戦」と言われた。それこそが虐殺や性犯罪が多発した作戦だった。治安戦によって、一時的に抗日根拠地が弱体化したのは事実である。

 だが、戦争末期になって、日本軍が本土防衛に力を入れざるを得なくなると、根拠地掃討もおろそかになる。東北(満州)や華北では日本軍が弱体化した後に、共産党勢力が進出して根拠地を広げた。ソ連の対日参戦以後は、「満州国」は事実上ソ連軍によって「解放」され、共産党の支配地区となった。それが戦後の国共内戦で、共産党が勝利する大きな要因となる。一方、華中、華南に勢力があった国民政府は、一番重要な地域を日本軍に奪われ破壊されたことで弱体化した。日中戦争の最大の歴史的意味は、共産党による中国革命に道を開いたことにある。

 この本を読んでいると、同じ名前に何度か出会う。日本現代史に有名な武藤章富永恭次服部卓四郎辻政信などである。日中戦争拡大派の武藤は、不拡大派だった石原莞爾(かつて謀略で柳条湖事件を起こした)に対し、あなたが満州でやったことを今やっているだけだと豪語した。服部、辻は一貫して作戦畑を歩き、ノモンハン事件でソ連に大敗しても責任を問われず、その後も現場無視の強硬作戦を続けた。先の細菌戦を強行したのも辻だった。富永は東条英機の子分として有名で一時は東条陸相のもとで陸軍次官を務めた。交渉でまとまるはずの北部仏印進駐に際して武力進駐を強行した。東条内閣崩壊後フィリピンの司令官に左遷されるが、特攻隊に対し自分も後から行くと言いながら、米軍が迫ると視察と称して台湾に「敵前逃亡」した。

 およそ日本軍が組織として機能していなかったことがよく判る。内外の国民・兵士の生命に大きな影響を及ぼす組織が、きちんと責任を取る組織じゃなかった。無能どころか、現場を知ろうともしないで大言壮語し空疎な精神論を繰り返す。そんな人物が出世するのが日本軍だったのだ。だけど、それは今の日本の政界、産業界、教育界などを見ると、今もなお日本社会に残り続ける問題じゃないか。この本を通して、戦争と日本社会に関して多くのことを考えることになる。細部の問題では他にもっと詳しい本がいくらもあるけど、全体像をきちんとつかむという意味ではこの本しかない。ぜひ多くの人が読んでみて欲しい本。
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