尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

昔の映画を見るということ-日々のあれこれ②

2015年03月28日 00時54分36秒 | 自分の話&日記
 元気な時は昔の映画を見に行くことが多い。今日(27日)も仕事帰りで疲れているなと思って、プロ野球の開幕戦とかサッカー日本代表のチュニジア戦を見ようかと思い、あるいは袴田事件再審決定1周年集会が日弁連であるのも知ってたんだけど、やっぱり映画を見に行ってしまった。最近通ってる神代辰巳特集やフィルムセンターの井筒和幸監督特集もあるんだけど、気分的に菅原文太追悼特集の「山口組外伝 九州進攻作戦」と「安藤組外伝 人斬り舎弟」を見たくなったのである。前者は山下耕作監督、後者は中島貞夫監督で、やはり実録ものは深作欣二がいいなあと改めて思う。どっちも初めてで、東映の実録映画は大量に作られて70年代半ばには食傷気味で見てない映画がたくさんある。後者は4月初めにシネマヴェーラ渋谷の安藤昇特集でも上映されるが、併映の「仁義の墓場」が傑作というか、もう突き抜けてる映画で、近年見直したのでしばらく見たくないなあと思ってこっちで見た。僕にも見たくない映画があるのである。その「仁義の墓場」がどんな凄い映画かはいくらでも語れるけど、陰惨すぎてもう若くない身には思い出すのも辛い。

 こういう話は関心がある人には意味があるけど、知らない人には意味が薄いので、情報伝達の観点から新作映画以外は一つ一つの映画は書かないでいいかなと思っている。今回書きたいのは、自分がどうして昔の映画を見る、特に見直しているのかである。まあ、映画は昔から好きだったけど、自分でも何でこんなに見てるんだろうと思う時がある。外的な理由としては、「東京に住んでいること」と「ヒマな時間が増えて見たい映画のレベルが深化したこと」だろう。僕の場合、映画館のスクリーンで見ることを映画鑑賞の条件にしているので、映画館がないと見ることができない。東京では、昔の映画を上映するような場所が比較的多いのである。毎日見ても尽きないぐらいのプログラムがある。首都圏そのものが一番人口が集中しているわけだが、その中の相当数が老齢層なわけで、若い時の一番の楽しみが映画だった世代である。需要がある。

 外的な理由の二つ目は、要するに「たくさんやってると、見なくてもいい映画まで見たくなる」ということである。もっとも、見てみないと、見なくてもいいかどうかの判断ができない。駄作をたくさん見ないと、傑作の価値がわからない。これはあらゆるジャンルに共通することだろう。そして、たくさん見るようになると、見たい映画のランクが下がってくるわけである。例えて言えば、ヒマがないサッカーファンが日本代表戦ぐらい、せめてテレビで見たいと思ってて、退職して余裕ができた。そうすると、J!の試合や外国の試合もケーブルテレビで見るようになり、ヨーロッパのリーグ戦の細かな情報やJ2からどこが昇格するかの予想の方が面白いとか言い出すようなものである。あるいはプロ野球で言えば、2軍の練習試合を見にいく方が面白くなってしまうようなものである。一種のコレクション趣味で、有名作品は大体見てるので、珍品の方に興味が移るわけである。僕にもそういう面はあると思う。東京では、どんな趣味であれ、毎日通っても絶えないほどのプログラムが用意されているから、時々乱気流に巻き込まれないように自分でセーブしないといけない。

 では「内的な理由」は何だろうか。「時間を置いて再評価すること」と「日本社会、あるいは世界への尽きない興味」ということだろう。映画は製作に多額のカネがかかる(昔の商業映画の場合)ので、時代を反映するところが大きい。その時代に受けるような作りをしている。それを時代を経て見直してみると、社会のコードが転換してしまって、今では通じないような表現も多い。当時のベストテンなども見直していかないといけない。日本映画の最盛期からは半生記以上経ってしまったので、この「再評価の試み」はものすごく大切であると思う。これは「映画史的関心」というものだろう。映画だけでなく、文学や演劇なんかでも同じで、昔すごく面白かったものが今ではつまらなく、逆に今になって見るとものすごく身近に感じると言ったものはいくらでもある。

 でも、やっぱり昔の映画、日本でもそうだし、ハリウッドのどうってことない娯楽作は面白いのである。面白さと技術的高さに驚くような思いをすることがたくさんある。フィルムだから、現像してみないとどう撮れているか判らない。ダメだったら撮り直すということも大作や巨匠作品にはないでもないが、多くは撮影や照明、色彩設計などの技術力で何とかなる画面を何シーンも取って置き、優れた編集力で1時間半程度にまとめるのである。今の映画は、一本立てで、デジタル撮影だから、長すぎる映画が多い。いらないシーンが多すぎる。よくディレクターズ・カットと銘打って、上映時間が長くなった映画をやるけど、逆にもっともっと削ったヴァージョンを作る監督はいないものか。このようにモノクロですごい映画を作り続けた時代とは何なんだろうか。古代中国の殷王朝の青銅器は、今では再現できないような高い技術だというけれど、そのような「もう再現できない優れた技術力」が昔の映画には封じ込められているのではないか。

 そういう映画を見て、高度成長期以前、あるいは高度成長期の映像を今見直すと、忘れてしまった「日本社会の豊かさと貧しさ」を再発見することができる。そう、技術力の高さと人間性、社会性の豊かな世界と同時に、いかに日本社会が貧しかったのかもよく判る。そういうことを知らずに、21世紀の日本を考えることはできないのではないか。例えば、「文楽」(人形浄瑠璃)を見る時に、今すぐに文楽を見て、その世界に入り込める人ばかりではないと思う。それは仕方ないだろうと思う。(歌舞伎と落語は、まあ理解はできると思う。ただし、話自体が現代人には、何だ、これは的な展開になることがけっこう多い。)でも、近松門左衛門原作の映画を何本か見れば、その意味するところが判るのではないか。そういう話は前にも書いたことがあるけど、例えば「近松物語」(溝口健二監督)や「曽根崎心中」(増村保造監督)を神保町シアターというところで、4月に上映する。この映画などは、およそ日本の歴史や文学、あるいは人権やフェミニズムに関心がある学生などはまず見るべきものだと思う。だけど、それを学生に語るべき大学や高校の教員も、見てない人が多いだろう。だから、「負けちゃう」んだと思うのである。負けちゃうというのは、当面「文楽」の補助金を削った橋下大阪市政のことを指しているけど、もちろんそれだけではない。大昔のものはそのままでは通じない。でも、半世紀前の文化ならはまだ通じる。今では、人権と平和を求めて闘った日本人の心は、戦後日本の映画を見ることを通してしか継承していけないのではないだろうか。

 今までのブログでは、上映された映画、あるいは近々上映される映画を紹介することが多かった。だから、特集上映がしばらくないフェリーニやヴィスコンティ、アントニオーニなどを書いていない。四方田犬彦が大著をものしたけど、まだ特集上映の企画がないブニュエルも。インド映画はたくさんやるようになったけど、サタジット・レイもしばらく見てない。小津は書いたけど、溝口はまとめて書いてない。僕が本当に好きな映画作家はまだまだ書く機会を待っているなと思う。そういう話もまたいずれ。それを言えば、映画より好きな本と温泉のこともあまり書いてないなあ。
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