だからいじめで不登校とかはその最悪のパターンで、決して不登校児やその家族だけの問題にすべきではないのにそういうものとして語っちゃってるのがさっきの教育支援がどうたらのサイトに対する私の憤りです。商売用の広報ページでそんなん言及することじゃないとはいえ。
かつて地域や家庭が子どもに対して担っていた役割をいま学校と教師がほとんどを担っているわけで…。とはいえ、学校がいま一時的に背負っている仕事を家庭や地域に戻そうとしても、家庭と地域に余裕がないんだよね。単純に戻すだけじゃダメで、じゃあどうすれば?
しかしその不良がどうたら、いじめがどうたらに対する強制なり更生機能を、本当に昔の地域社会が担っていたかは疑問。そういう碌でなしはどこの地域にも昔からいて、学校というハコがまともに機能するようになってきてようやく可視化されただけな気が。
40年前の東京の場末の子供は寿司なんか食べなかった。貧乏で食べられなかったというのとは少し意味合いが違う。そもそも食べたいと思わなかった。酔っ払いの食い物だと思ってましたよ。
寿司っていうのも大人の男だけが外で食べるもので家族で食べにいくよりも父親が飲んで帰ってくる時に折り詰めで持ってくるようなものだった。サザエさんで酔って帰ってくる波平やマスオさんが手に提げているものがなんだかわかってない人もいるのかなあ。
前の会社にいたとき、「もしここで頑張って認められて、給料沢山貰えるようになっても、俺の人生絶対ロクでもないことになるな」という感覚があった。個人的にはああいう状態を「働いたら負け」というんだと思ってる。
セックスしたいいって言ってる奴に風俗行け。っていうのはな、数学の勉強してる人間に答えだけ教えるようなもんなんんだよ、それで立派な大人に育つか?新たな困難に立ち向かえるか?そこはまず公式を教えてあげるべきだろ?な?じゃあまずは数の数え方から教えてください。
オレオレ詐欺は信じてもキスダムクラスタの言うことは信じるな、と祖父ちゃんの遺言にあったので無理 RT @act_amitabha: Beezus7 世間ではキスダムの七生愁役で認識されているのでそれだけはおさえておきましょう
「作品として凡庸だ、内包している物が浅い、つまらない」という美術・芸術論争は存分にやればよろしいが、「俺が見たくないから描くな、展示するな」に関しては「うるせえ」って言うしか無いよねぇ。ゾーニングした上で、作品のみならず言語において意図をさらに伝える、試み程度までじゃないの
バスターズは自分をデータ化して転送できるし、相棒はロボットだし、仲間のうちひとりはデータに欠損があるし、相棒のロボットを一旦データに分解して合体することでパワーアップするし、なのにエンターに対しては「人間はただのデータじゃない」と言い張るのがなんかこう なんだ
メサイアカードでのデータ集めやエスケイプを通じて「どうしたらただのデータの集合が人間に近づくのか」を試行錯誤しているエンターのほうが「人間とはなにか」に対して真摯だよな。
もし本当に「大のために小を切り捨てる」が許されるんだとすると、エンターロボに取り込まれた人間は無視して撃破してしまって構わないはずで、それとは逆にヒロムは「現状復帰」を約束してる