「百歩譲って」
私はこの言葉が嫌いだ。
念のため左のサイドバーで「ブログ内検索」してみたが、自分では一回も使っていないことを確認してほっとした。
てっきり「百歩譲って」は「一歩譲って」の誤用だと思っていたら、goo辞書では「誤用」とはされていなかった。
Googleで検索してみると、「百歩譲って」は約 408,000 件ヒットするのに対し「一歩譲って」は約 34,800 件。「百歩」のほうが10倍も多い。
この言い方は昔からあったのだろうか?
私が子供のころは「一歩譲って」が普通の言い方であり、「百歩譲って」はわざと大げさな言葉を使うときにだけ用いたような記憶がある。もっとも、私は子供のころからやたらと物覚えが悪いのであてにはならない。
「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いは、私の頭の中ではこのように映像化されている。
まず「一歩譲って」の場合。
場面の前半は同じだ。だが、お互いの距離が「一歩」であれば普通の声での会話が可能だが、「百歩」となるとそうはいかない。なにしろ、歩幅を60cmとすると百歩では60mである。とても普通に会話のできる距離ではない。
たぶん、「百歩譲って」を何気なく使う人にはそのような意図はないのだろう。おそらく「一歩」よりも「百歩」譲ったほうがより謙虚であり、相手の(あるいはギャラリーの)心証を良くすることができる、と考えているのだろう。
だが本当にそうだろうか。私には「一歩譲って」よりも「百歩譲って」のほうがずっと攻撃的な言葉であるように思われる。
「百歩譲って」の「百」という言葉に具体性はなく、「大量に」という意味だろう。「百歩譲って」という言い方は、「自分は(考えられないほど)大量に譲歩をしたのだ、だからお前もそれに応じる義務がある」という脅迫の意図を秘めているように私には感じられる。
「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いを無理やり具体的状況にしてみる。
町を歩いていて誰かにぶつかりそうになったとする。そのとき、「一歩」を横に譲って相手を通す動きは優雅で心地よいものだ。だが、もし相手が「百歩」譲ろうと全速力で走り去ったらどう思うだろう。私だったら「よほどひどく嫌われた」とか「自分のそばに爆弾でもあるのか」とか想像してずいぶん嫌な気分になる。
もちろんこんな極端な状況は「世にも奇妙な物語」以外で起きるはずもないが。
要するに、「一歩(あるいは三歩、五歩)譲って」であれば程がよいのに対し、「百歩譲って」はあまりにも大げさすぎるのである。本当にぎりぎり最大限の譲歩をするのならともかく、本当はぜんぜん譲る気がないのに「百歩譲って」を使うのは見苦しい。
外交交渉の場で北朝鮮がとんでもなく非常識なわがままを並べ立てたあげく、最後に「わが国は最大限の譲歩をした」と宣言する姿を思い浮かべてしまう。
そういうわけで、私はよほどのことがない限り「百歩譲って」という言葉は使わないことにしている。
本当は「百歩譲って」を使う人たちに口うるさく注意したいのだが、なにしろ多勢に無勢、ごまめの歯軋り、蟷螂の斧。
ここは「一歩」を譲って、ひとさまの言葉遣いに文句を言うのはやめておこう。
関連記事 一歩と百歩 その2
私はこの言葉が嫌いだ。
念のため左のサイドバーで「ブログ内検索」してみたが、自分では一回も使っていないことを確認してほっとした。
てっきり「百歩譲って」は「一歩譲って」の誤用だと思っていたら、goo辞書では「誤用」とはされていなかった。
Googleで検索してみると、「百歩譲って」は約 408,000 件ヒットするのに対し「一歩譲って」は約 34,800 件。「百歩」のほうが10倍も多い。
この言い方は昔からあったのだろうか?
私が子供のころは「一歩譲って」が普通の言い方であり、「百歩譲って」はわざと大げさな言葉を使うときにだけ用いたような記憶がある。もっとも、私は子供のころからやたらと物覚えが悪いのであてにはならない。
「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いは、私の頭の中ではこのように映像化されている。
まず「一歩譲って」の場合。
二人の男が話し合っている。これが「百歩譲って」だとどうなるか。
そのうち興奮し、アメリカ映画によくあるようにお互いのつばがかかるほど顔を近づけて怒鳴りあう。
しばし怒鳴りあった後、自分たちのやっていることの不毛さに気付いた二人は苦笑いし、「一歩」の距離を置いて冷静な話し合いに戻る。
場面の前半は同じだ。だが、お互いの距離が「一歩」であれば普通の声での会話が可能だが、「百歩」となるとそうはいかない。なにしろ、歩幅を60cmとすると百歩では60mである。とても普通に会話のできる距離ではない。
「百歩」の距離を置いた二人は自分の主張を声を限りに叫びあう。相手の言葉は風に流されてよく聞こえない。やがて機転の利くほうの男がハンドマイクを持ち出して相手を圧倒する。私の感覚だと、「一歩譲って」は「会話のための適切な心理的距離を作る」という意味だが「百歩譲って」だと「会話の拒否」「一方的自己主張宣言」に近い。
たぶん、「百歩譲って」を何気なく使う人にはそのような意図はないのだろう。おそらく「一歩」よりも「百歩」譲ったほうがより謙虚であり、相手の(あるいはギャラリーの)心証を良くすることができる、と考えているのだろう。
だが本当にそうだろうか。私には「一歩譲って」よりも「百歩譲って」のほうがずっと攻撃的な言葉であるように思われる。
「百歩譲って」の「百」という言葉に具体性はなく、「大量に」という意味だろう。「百歩譲って」という言い方は、「自分は(考えられないほど)大量に譲歩をしたのだ、だからお前もそれに応じる義務がある」という脅迫の意図を秘めているように私には感じられる。
「一歩譲って」と「百歩譲って」の違いを無理やり具体的状況にしてみる。
町を歩いていて誰かにぶつかりそうになったとする。そのとき、「一歩」を横に譲って相手を通す動きは優雅で心地よいものだ。だが、もし相手が「百歩」譲ろうと全速力で走り去ったらどう思うだろう。私だったら「よほどひどく嫌われた」とか「自分のそばに爆弾でもあるのか」とか想像してずいぶん嫌な気分になる。
もちろんこんな極端な状況は「世にも奇妙な物語」以外で起きるはずもないが。
要するに、「一歩(あるいは三歩、五歩)譲って」であれば程がよいのに対し、「百歩譲って」はあまりにも大げさすぎるのである。本当にぎりぎり最大限の譲歩をするのならともかく、本当はぜんぜん譲る気がないのに「百歩譲って」を使うのは見苦しい。
外交交渉の場で北朝鮮がとんでもなく非常識なわがままを並べ立てたあげく、最後に「わが国は最大限の譲歩をした」と宣言する姿を思い浮かべてしまう。
そういうわけで、私はよほどのことがない限り「百歩譲って」という言葉は使わないことにしている。
本当は「百歩譲って」を使う人たちに口うるさく注意したいのだが、なにしろ多勢に無勢、ごまめの歯軋り、蟷螂の斧。
ここは「一歩」を譲って、ひとさまの言葉遣いに文句を言うのはやめておこう。
関連記事 一歩と百歩 その2
百歩譲って~の「攻撃性」は、言われてみるとなるほどと思います。でも大抵この手の語は慣用として覚えるもので(私は一歩譲って~という用例は聞いたことがありませんでした)、どこか隣国の古典にでもレトリックとしての淵源があるような気がします。上記の例は「百発百中」という四字熟語の来歴として言われるものですが、案外こうしたところに「百歩譲る」の元ネタがあるのかも。
でもおっしゃる「一歩譲って」という語感は、なんだか説得力ありますね。
『百歩譲って』を『一歩譲って』の延長線上に考える点は間違いではないでしょうか?
『百歩譲って』というのは、自分にとっては”まるっきり承伏できかね、
議論の余地どころか前提条件と用語の摺り合わせから始めないことには
会話にすらならない徒労感すら憶え、また相手の心情には部分的にはわかるが
それは頼むから横に置いてくれ”というような相手の言い分に対して、
99%は認めたと仮定して考えたとしても、やはり尚どうしても承伏しかねる1%について
話をするための枕詞のようなものだと思っております。
語法としては「百歩譲って~~であるとしても、~~であることには変わりない」とかですね。
玄倉川さんのおっしゃる自己主張宣言であり、その為に使用される言葉であると思っております。
つまり、誤用ではなく、そもそも違う言葉であるという認識です。
その辺りがどうにもモヤモヤして筆をとりました。
浅学故の誤解がありましたらご容赦、またご教示下さいますよう。
しかし『百歩譲って』と『一歩譲って』との言葉の比較という点で、玄倉川さんがものを書く際に
一貫した態度がよくわかり、今日も興味深く拝読致しました。
『百歩譲って』は攻撃的であるし謙遜ではありませんし、多用すればする程その人の価値を下げます。
上手く使えば、全く噛み合わない話を噛み合わせる一つの取っかかりにはなりますが、
大概においては議論の終結宣言(というか捨て台詞)にしかなりません。
私もよくよく自重致しましょう。
当然、私も「百歩譲って」しか使ったことがない(といっても、使う機会はほとんどないのだけれど)。
「一歩譲って」を、はじめて見たり聞いたりしたのは、おそらく80年代半ば過ぎ。「こういう言い方をするようになったんだ」と思ったものです。
まあ品のある言葉でないことは確かですね。
ご参考まで。
>uumin3さん
私は検索するまで「一歩」が普通で「百歩」は大げさで新しい言い方だとばかり思ってたので、「百歩」のほうがずっと多いのを知ってびっくりしました。
大げさな感じは「白髪三千丈」とかに似てますから、中国の故事成句が起源というのもありそうですね。
>ついさん
なるほど、使う目的が違うと考えたほうがいいみたいですね。
とはいえ、「百歩譲って」の使用例を見ると「大げさだなあ」「ここは『一歩』にしておいたほうがむしろ謙虚なのに」と思うことが多いです。
>TOSIさん
「百歩」と「一歩」の使い方には地域的な差もあるかもしれません。
私の周りの人や読んだ本に「一歩」派が多かったのでしょうか。
>Unknownさん
多くの場合「百歩譲って」を使う人自身は大きく譲歩しているつもりであも、他の人は大して譲ってないと見ているのではないでしょうか。
他の言葉を例にすると、「がんばります」と言えばいいところで「全身全霊の努力を捧げます」と言ってるみたいで(私の感覚では)大げさすぎて変です。
「一歩を譲ることは百歩を譲ることだ」
背景を説明すると、隠遁・兵法研究生活をしていた孫武が呉の国に亡命した楚の国の武将伍子胥に、呉の国に仕えるよう要請されます。
しかし、国に仕えるということは孫武の美学に合わないので断りますが、有無を言わせない強引さで「もし断るなら王宮まで来て、我が主に直接言ってくれ」といわれます。
仕方なく王宮へ行くことにした訳ですが、ここで王宮に行くということは、国に仕えることを断れない状況に追い込まれることと同義であることを察します。
そこで先ほどの「一歩譲ることは百歩譲ることだ」という言葉につながります。
そのことから、「歩を譲る」という言葉自体が”仕方ないけど相手の言い分を(一部)認める、相手の要請(一部)を飲む”というものだと理解していた次第です。
簡単にするとこんな感じでしょうか。
・一歩を譲る=相手が一歩己の領域に踏み込んでくる
・百歩を譲る=相手が全面的に己の領域に踏み込んでくる
・そして、一歩を譲ることは百歩を譲ることに繋がる。
まあ、あくまでイチ小説の話ですが参考になればと思います。
元々、中国では一つ譲るとずるずると譲らされる羽目になると聞いたことがありますので、その生活習慣からの言葉じゃないかなあと考えています。
私自身は上記内容から、百歩譲るというのは謙譲というより、あなたの理不尽な要求、言い分を全て認めたとしても、尚この部分は譲れない認められない、という場合に使っています。
「だらしない」と「しだらない」の
違いでしかないと私は思います。
尤も、上記に示した後者の方が
本来の言い方であるのは間違いない
訳でありますが。
遠慮を徳とする日本人の感性が「一歩」を
「百歩」に変えたのだと思います。
おもしろいお話ありがとうございます。
戦国時代であれば「一歩を譲ることは百歩を譲ることに繋がる」という覚悟は必要だったのでしょうが、現代において普通に(ケンカ腰でなく)対話しているときに「百歩譲って」を使われると「え、そんなに強引な要求はしてないんだけど」と戸惑い、ちょっと不快になってしまいます。
>abusanさん
> 遠慮を徳とする日本人の感性が「一歩」を
> 「百歩」に変えたのだと思います。
私は「百歩」となると遠慮というより「こんなに遠慮してやってるんだぞ」という「誇示」の意図を感じます。
「一歩譲って」は私も初めてこのエントリで知りました。なお「百歩譲って」は、高校の担任の先生が口癖のように使ってました。特に生徒への説教の時には必ず2回は出てきたものです。全く自分の考えを譲る気も相手の考えを取り入れる気もないのがミエミエだったなあ、と懐かしく思い出しました。教員はこのくらい面の皮が厚くないとやっていられないのでしょうが。
「百歩譲って」ってのは、「一歩譲って」と言うべきところを、「五十歩百歩」とかとわざと混同して冗談めかして大げさに言ってるもんだとずっと思ってたんですが、普通に使われてたんですね。