「反原発(脱原発)」運動が極めて「倫理的」な事柄に基づくものであると説いているのは、大江健三郎であるが、大江さんが何故「フクシマ」の事態に象徴される現代社会の「モラル・ハザード(倫理観の消失・混乱)」について問題視しているのか、そこには例えば東電の事故処理を見ればすぐ分かるのだが、自分(自国)の「利益」のみを追求するあまり、これまで営々と築き上げてきた人々の「生活」を破壊しても、まず考えるのは「国益」だという、いかにもアクロバチックな対応しかできない現実があるからなのではないか、と思う。
それは、「鎖国」をしていた江戸時代が終わり、「近代国家」として対外的な関係を持たざるを得なくなった明治以来、これまでにもことある事に「国益」優先というようなことが言われ、その結果「破滅」への道を歩むことになったのは、この国の現代史の「常識」と言ってもいいのだが、「国益」という、実は訳の分からない「国家の利益」が取り上げられるとき、決まって一人一人の「倫理」が問われるときだからに他ならない。
大江さんが問題視しているのは、「フクシマ」に対する政府や東電、原子力ムラに集う御用学者や企業人の在り方なのだが、何日か前に発覚した沖縄防衛局長の宜野湾市長選挙に「介入」したと思われる「講話」問題に発した政府やマスコミの対応などを見ていると、最早この国を動かす立場にいる人たちからは完全に「倫理観」が失せてしまったのではないか、と思われてならない。在沖縄自衛隊の「トップ」と言っていい沖縄防衛局長が部下の職員・自衛隊員のみならず家族・親戚の名簿を作らせ、その名簿に掲載された人たちに向かって「宜野湾市長選挙に棄権せず、投票に行ってください」と講話すること自体、「権力の選挙への介入」に他ならないが、この防衛局長はそれまでにも同種の「講話」を別な選挙の時もやっていた、という。ある新聞の記事に拠れば、普天間基地の移設先として計画されている辺野古地区を抱える名護市の「受け入れは可か否か」を問う「住民投票」の際など、防衛庁(省)の役人たちがホテルに数十人が陣取って「移設受け入れ」の投票を勧める運動をしていたという。また、何ヶ月前の神奈川県の厚木基地からの米軍移転を巡って争われた岩国市長選挙では、選挙が始まる何ヶ月前に米軍の厚木基地から岩国基地への移転を勧めている防衛省のお金で、市内の小中学校の全てにエアコンが付けられる、ということがあったという。選挙の結果は、「移転賛成派」の現職が勝利した。
このような「米軍基地」(自衛隊基地)を巡る一連の政府・防衛省の在り方を見ると、「原発」建設を巡って原発立地に「電源三法」による巨額の金(税金)をはじめとして様々な便宜を供与してきた在り方と「うり二つ」で、「国策」という名の「インモラル」が堂々とまかり通ってきたこの国とは、いったい何であるのか、と思わざるを得ない。
このような政府(現在の民主党政権だけのことを言っているのではない。長い間「保守政治」を続けてきた自民党とそれを支えてきた公明党の「責任」の方が、むしろ重いといえるだろう)の「非倫理的(インモラル)」な在り方は、当然のように人々の暮らし方(生活や考え方の在り方)にも反映している。例えば、このブログの記事を読んでいる人は先刻承知していることだと察するが、いくら僕が「匿名でのコメントには応接しない」と言っているのに(その理由は、「対話」なり「論争」は、相互の立場や思想が明確なときにのみ成立するからである)、自分の名前はもちろん、立場(職業など)や思想(考え方)を明らかにすることなく、つまり「匿名」性の陰に隠れて、一方的に「非難(批判ではない)」する、そのような人たちは他者を「不快」にすることを喜びとする一種の「愉快犯」なのかも知れないが、迷惑きわまりない。そのような「匿名」でしか他者と関われない人は、「倫理観」など一欠片もないのかも知れないが、そのような「匿名」性こそネット社会を象徴するものだなどと開き直っているような人が多いのも、「倫理」が意味をなさなくなった社会を象徴しているようで、容認してはいけないのではないか、と思っている。
例えば、近々の例で言えば、「元祖でかマラお」などと名乗って、コメントを寄せてくる輩、この人は一体どのようなメンタリティをしているのだろうか、と思わざるを得ない。また、余りにも「不勉強」で一方的なコメントなので、仕方なく「1回」だけという条件で応接(批判)したら、再非難(批判ではなく)してきた「閻魔」と名乗る御仁、僕が橋下徹大阪市長を「ファシスト」だと批判したら、橋下を応援しているのは堺屋太一だから、堺屋太一もファシストと批判したことになる、「黒古センセイ、えらいことになりましたぞ」なぞと、僕が堺屋太一を怖れているかのごとく言い(全く僕は堺屋太一を怖れていません、というより彼が1970年の「大阪万博」に荷担したときから、「体制派」の彼は僕とは無縁、と思ってきました)、その揚げ句に人のブログに入り込んで「応接は御無用、ひとり言ですから」などと「捨てぜりふ」を吐く、こういう度し難い「インモラル」な輩は早く引き取ってもらいたい、と思うしかないのだが……。
ともあれ、今こそ問われているのは僕らの「倫理的」な在り方に他ならない、というのは間違いないようである。
それは、「鎖国」をしていた江戸時代が終わり、「近代国家」として対外的な関係を持たざるを得なくなった明治以来、これまでにもことある事に「国益」優先というようなことが言われ、その結果「破滅」への道を歩むことになったのは、この国の現代史の「常識」と言ってもいいのだが、「国益」という、実は訳の分からない「国家の利益」が取り上げられるとき、決まって一人一人の「倫理」が問われるときだからに他ならない。
大江さんが問題視しているのは、「フクシマ」に対する政府や東電、原子力ムラに集う御用学者や企業人の在り方なのだが、何日か前に発覚した沖縄防衛局長の宜野湾市長選挙に「介入」したと思われる「講話」問題に発した政府やマスコミの対応などを見ていると、最早この国を動かす立場にいる人たちからは完全に「倫理観」が失せてしまったのではないか、と思われてならない。在沖縄自衛隊の「トップ」と言っていい沖縄防衛局長が部下の職員・自衛隊員のみならず家族・親戚の名簿を作らせ、その名簿に掲載された人たちに向かって「宜野湾市長選挙に棄権せず、投票に行ってください」と講話すること自体、「権力の選挙への介入」に他ならないが、この防衛局長はそれまでにも同種の「講話」を別な選挙の時もやっていた、という。ある新聞の記事に拠れば、普天間基地の移設先として計画されている辺野古地区を抱える名護市の「受け入れは可か否か」を問う「住民投票」の際など、防衛庁(省)の役人たちがホテルに数十人が陣取って「移設受け入れ」の投票を勧める運動をしていたという。また、何ヶ月前の神奈川県の厚木基地からの米軍移転を巡って争われた岩国市長選挙では、選挙が始まる何ヶ月前に米軍の厚木基地から岩国基地への移転を勧めている防衛省のお金で、市内の小中学校の全てにエアコンが付けられる、ということがあったという。選挙の結果は、「移転賛成派」の現職が勝利した。
このような「米軍基地」(自衛隊基地)を巡る一連の政府・防衛省の在り方を見ると、「原発」建設を巡って原発立地に「電源三法」による巨額の金(税金)をはじめとして様々な便宜を供与してきた在り方と「うり二つ」で、「国策」という名の「インモラル」が堂々とまかり通ってきたこの国とは、いったい何であるのか、と思わざるを得ない。
このような政府(現在の民主党政権だけのことを言っているのではない。長い間「保守政治」を続けてきた自民党とそれを支えてきた公明党の「責任」の方が、むしろ重いといえるだろう)の「非倫理的(インモラル)」な在り方は、当然のように人々の暮らし方(生活や考え方の在り方)にも反映している。例えば、このブログの記事を読んでいる人は先刻承知していることだと察するが、いくら僕が「匿名でのコメントには応接しない」と言っているのに(その理由は、「対話」なり「論争」は、相互の立場や思想が明確なときにのみ成立するからである)、自分の名前はもちろん、立場(職業など)や思想(考え方)を明らかにすることなく、つまり「匿名」性の陰に隠れて、一方的に「非難(批判ではない)」する、そのような人たちは他者を「不快」にすることを喜びとする一種の「愉快犯」なのかも知れないが、迷惑きわまりない。そのような「匿名」でしか他者と関われない人は、「倫理観」など一欠片もないのかも知れないが、そのような「匿名」性こそネット社会を象徴するものだなどと開き直っているような人が多いのも、「倫理」が意味をなさなくなった社会を象徴しているようで、容認してはいけないのではないか、と思っている。
例えば、近々の例で言えば、「元祖でかマラお」などと名乗って、コメントを寄せてくる輩、この人は一体どのようなメンタリティをしているのだろうか、と思わざるを得ない。また、余りにも「不勉強」で一方的なコメントなので、仕方なく「1回」だけという条件で応接(批判)したら、再非難(批判ではなく)してきた「閻魔」と名乗る御仁、僕が橋下徹大阪市長を「ファシスト」だと批判したら、橋下を応援しているのは堺屋太一だから、堺屋太一もファシストと批判したことになる、「黒古センセイ、えらいことになりましたぞ」なぞと、僕が堺屋太一を怖れているかのごとく言い(全く僕は堺屋太一を怖れていません、というより彼が1970年の「大阪万博」に荷担したときから、「体制派」の彼は僕とは無縁、と思ってきました)、その揚げ句に人のブログに入り込んで「応接は御無用、ひとり言ですから」などと「捨てぜりふ」を吐く、こういう度し難い「インモラル」な輩は早く引き取ってもらいたい、と思うしかないのだが……。
ともあれ、今こそ問われているのは僕らの「倫理的」な在り方に他ならない、というのは間違いないようである。










