今朝の新聞を見て、まず驚かされたのは、1面に「原発稼働、60年に」といった内容の記事が掲載されていたことである。何日か前に「原発は、原則40年で廃炉」と細野原発担当相が言明した時に、各種のマスコミが「原則」という言い方に不信を表明し「抜け道」が用意されるのではないか危惧していたが、僕もいつもながらの政治(家)の言い方だなと思いつつ、それでも「フクシマ」が未だ収束していない段階では、高村薫が「東京新聞」の時評で「40年で原発は廃炉」に微かな希望を感じると言っていたのと同じように、何とか僕の中から消えない政治の「脱原発」政策への不信と危惧をなだめようとしていたのに、案の定というか、お決まりのように「原発の稼働は、60年まで可能」ということが、原子力安全庁(仮称)の方から出されてきた。
経済界の後押しがあってということだろうが、どんなことをしても原発を維持したいと考える経産省が後ろに控えての「60年稼働」案なのだろう。経産省もその下部組織といってもいい「原子力安全庁」も、世界を震撼させた「フクシマ」が起こったことをどのように考えているのだろうか。経産省や原子力安全庁も、また「原子力ムラ」にたむろして甘い汁を吸ってきた電力業界、原子力行政に関わる官僚たち、そして「エセ」としか思えない原子力の研究に携わってきたという「御用学者たち」、それら全ての関係者に欠如しているのは、大江健三郎が言うところの「倫理」(今朝の朝日新聞掲載の「定義集」)なのではないか。
大江健三郎は、ドイツの学者たちがメルケル首相に提出したという原発に関わる「倫理」提言こそ自分たちが学ぶべきことで、電気が足らなくなって仮に「耐乏生活」を強いられるようなことがあっても、「人間(人類)」の未来を考えたとき、もう「脱原発」を選択するしかないはじだ、といった内容を持つドイツの学者たちの「提言」を、僕ら日本人も深く噛みしめるべきだと主張しているのだが、全くその通りである。
僕らは、どうしても原発から供給される電気(約3分の1、ということが公表されていたが、それは原発依存を高めるために、既設の火力発電所や水力発電所を休眠させることによって弾き出された数字であることが、今では判明している)によって支えられてきた「快適な生活」に慣らされて、ちょっと数十年前まで「先人の知恵」などから学んで、何とか寒さ暑さを凌ぎ、それなりに「豊かな」生活をしてきたのに、例えば形態を片時も放せないような生活こそ「豊かさ」の象徴であるかのように、錯覚した(逆立ちした)論理と倫理を身に付けるようになってしまって、今が良ければ「未来」のことなど関係ない、といった刹那的(倫理の欠如した)生活に対して何の疑いも抱かなくなってしまっている。
「モラルハザード」とはよくぞ言ったもので、根源から僕らは自分の生活の在り方を考え直す必要があるのではないか、と思わざるを得ない。「財政再建」と東日本大震災の復興のためという大義名分を振りかざして、自分たちの既得権を守ることにキュウキュウの政治家と官僚が主導する「消費税増税」に躍起になっている野田民主党政権、これなども本当は何のための「増税」なのかが全く理解できないことを考えれば、やはり「倫理=確たる人間観・世界観」が欠如しているからとしか思えない。知人が電話してきて、「世の中のことを考えると<鬱状態>になる」と言っていたが、まさにその通りで、「フクシマ」の先行きが全く見えない現在、多くの人が「鬱」的な信条になっているのではないか、と思う。
何とかしなければならないと思うのだが、もしかしたら僕のような心情の持ち主が橋下徹(大阪維新の会)や石原慎太郎のようなファシスト的な政治家を支持するのかも知れないと思うと、よけい憂鬱になる。
と思いつつ、昨日発表の芥川賞・直木賞の作品を思い返し(直木賞は読んでいないが)、「3・11」や「フクシマ」などの社会・時代状況とは全く関係ない(と僕には思える)「技巧」ばかりが目に付く作品が受賞したことに、これまた現代文学が陥っている陥穽、つまり「時代」と「人間」の関係をスポイル(捨象)した現代文学の在り方、について考えざるを得なかった。自分は決してそのような文学傾向とは違う道を行くのだ、と思いつつ、こんなことではますます文学離れが進むのではないか、と危惧を抱いた。
八方ふさがり、なのだろうか?
経済界の後押しがあってということだろうが、どんなことをしても原発を維持したいと考える経産省が後ろに控えての「60年稼働」案なのだろう。経産省もその下部組織といってもいい「原子力安全庁」も、世界を震撼させた「フクシマ」が起こったことをどのように考えているのだろうか。経産省や原子力安全庁も、また「原子力ムラ」にたむろして甘い汁を吸ってきた電力業界、原子力行政に関わる官僚たち、そして「エセ」としか思えない原子力の研究に携わってきたという「御用学者たち」、それら全ての関係者に欠如しているのは、大江健三郎が言うところの「倫理」(今朝の朝日新聞掲載の「定義集」)なのではないか。
大江健三郎は、ドイツの学者たちがメルケル首相に提出したという原発に関わる「倫理」提言こそ自分たちが学ぶべきことで、電気が足らなくなって仮に「耐乏生活」を強いられるようなことがあっても、「人間(人類)」の未来を考えたとき、もう「脱原発」を選択するしかないはじだ、といった内容を持つドイツの学者たちの「提言」を、僕ら日本人も深く噛みしめるべきだと主張しているのだが、全くその通りである。
僕らは、どうしても原発から供給される電気(約3分の1、ということが公表されていたが、それは原発依存を高めるために、既設の火力発電所や水力発電所を休眠させることによって弾き出された数字であることが、今では判明している)によって支えられてきた「快適な生活」に慣らされて、ちょっと数十年前まで「先人の知恵」などから学んで、何とか寒さ暑さを凌ぎ、それなりに「豊かな」生活をしてきたのに、例えば形態を片時も放せないような生活こそ「豊かさ」の象徴であるかのように、錯覚した(逆立ちした)論理と倫理を身に付けるようになってしまって、今が良ければ「未来」のことなど関係ない、といった刹那的(倫理の欠如した)生活に対して何の疑いも抱かなくなってしまっている。
「モラルハザード」とはよくぞ言ったもので、根源から僕らは自分の生活の在り方を考え直す必要があるのではないか、と思わざるを得ない。「財政再建」と東日本大震災の復興のためという大義名分を振りかざして、自分たちの既得権を守ることにキュウキュウの政治家と官僚が主導する「消費税増税」に躍起になっている野田民主党政権、これなども本当は何のための「増税」なのかが全く理解できないことを考えれば、やはり「倫理=確たる人間観・世界観」が欠如しているからとしか思えない。知人が電話してきて、「世の中のことを考えると<鬱状態>になる」と言っていたが、まさにその通りで、「フクシマ」の先行きが全く見えない現在、多くの人が「鬱」的な信条になっているのではないか、と思う。
何とかしなければならないと思うのだが、もしかしたら僕のような心情の持ち主が橋下徹(大阪維新の会)や石原慎太郎のようなファシスト的な政治家を支持するのかも知れないと思うと、よけい憂鬱になる。
と思いつつ、昨日発表の芥川賞・直木賞の作品を思い返し(直木賞は読んでいないが)、「3・11」や「フクシマ」などの社会・時代状況とは全く関係ない(と僕には思える)「技巧」ばかりが目に付く作品が受賞したことに、これまた現代文学が陥っている陥穽、つまり「時代」と「人間」の関係をスポイル(捨象)した現代文学の在り方、について考えざるを得なかった。自分は決してそのような文学傾向とは違う道を行くのだ、と思いつつ、こんなことではますます文学離れが進むのではないか、と危惧を抱いた。
八方ふさがり、なのだろうか?










