黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

久闊を叙しつつ……「勝てば官軍」なのか?

2012-02-13 09:56:16 | 仕事
 土(11日)日(12日)と、かつて僕の研究室に1年間留学していたアメリカ人の日本文学研究者(現在、オレゴン州ポートランドの「ルイス&クラーク カレッジ」の准教授)が十数年ぶりに自宅に訪ねてきて、延べ10時間ほど歓談した。彼の研究領域は、「ベトナム戦争(反戦運動)と日本の文学―開高健・小田実・大江健三郎を中心に」といったことで、歓談は彼の研究がどう進んできたか、3月に学会で発表する予定の「60年代の都市計画(1964年の東京オリンピックと東京の都市改造)と日本の文化の変化」というような、日本の大学生や院生などが絶対に取り上げないようなテーマ、などを中心に、村上春樹の最新作『1Q84』をどのように評価するか、「フクシマ』は今後どうなるか、など多岐にわたったのだが、僕としては彼の様々な質問に答えながら日頃考えていることを、整理・点検しながらわかりやすく話をするということ続ける内に、二つだけ今までもやもやしていたことがクリアになったことが分かった。
 一つは、昔小田実は『日本』の内側でしか問題を捉えていない日本の現代文学に対して「鎖国の文学」と呼んだが、今や例えば村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチ「壁と卵」や、カタルニア国際賞授賞式における例の「反核スピーチ」が象徴するように、グローバル化(国際化?)の昨今を反映するものなのだろうと思うが、小田実が言う「鎖国の文学」とは真逆な「空白の内(国内・内部精神)」に無自覚な国際化が進行しているのではないか、ということである。外側(彼)からの質問や考えを聞いていると、余計に「内」を蔑ろにして「外=外国・国際化」のことしか考えない、貧寒とした現在の日本が浮かび上がってくるのだが、今年は外国へ行く機会が何度かありそうなので、そのようなことも今年は考える必要があるな、と痛感した。
 なお、この2日間に分かる新鮮な経験について、僕が日頃考えている「文学」の存在意義に関わる「個(人間)と時代との関係を追求する」という原理(観点)に照らして言えば、例えば「フクシマ」への対応(反省や総括)が未だ不十分であるにも関わらず、他国(インドやトルコなど)に平気で原発を輸出しようとする原子力企業とそれを後押しする政府、あるいは自分たちの報酬(給料)は「お茶を濁す」程度に下げるだけで、「フクシマ」によって生じた赤字をいい加減な計算方式で国民から「電力料金の値上げ」で打開しようと姑息に考える東電、などの在り様と「文学」の在り様はどのように交差(関係)するのか、全く不明としか言いようがない。つまり、この国のこの時代を生きる個(人間)の「内部」を全く無視して、ひたすら「経済(お金)」のことだけを考えるているようにしか思えない経済(企業)や政治の在り方と「文学」はどのように関係しているのか、その現実が全く見えなくなっている、としか言えないということである。
 80年代の半ば頃から「ポスト・モダン」が世界中に喧伝され、この国でも「人間尊重=ヒューマニズム」という近代の根底を支えてきた考え方を否定する風潮がずっとこの国の思想界を支配してきたように、僕には思えるのだが(僕もそのような「ポスト・モダン」の考え方に同調していた時期もあったが)、どうも「近代」が基底とするヒューマニズム(人間尊重)は、経済のグローバル化や科学技術の「進歩」などと言ったことから否定されるような「柔な」思想ではなく、人類が様々な失敗や試行錯誤を繰り返しながら到達した、今のところ考えられる「究極=最高」の思想なのではないか、とこの頃よく考える。前に提唱した「共生の思想」も、考えてみれば「ヒューマニズム」思想を変形させたものであり、先頃から騒がれている「緑の党」や農本主義的な生き方もみなその根っこは「ヒューマニズム」なのではないか、と思っている。
 そのような「ヒューマニズム」の思想に照らすと、やはり次の総選挙で200議席獲得を目指して作られるという「維新の会」に2500人を超す応募があったという橋下徹大阪市長(大阪維新の会)「人気」や、同じく石原慎太郎東京都知事の「人気」は、ドイツでヒットラーが台頭し、日本で軍部が政権の中枢を担うようになった1930年代(ファシズムの嵐が吹き荒れた時代)を想起させ、あの時代も既成政党が「だらしなかった」ために、国民が「独裁者」を「救世主」のごとく迎い入れてしまったわけだが、その結果が悲惨かつ過酷な戦争(そして「敗北)であったことを僕らはもう一度考える必要があるのではないか、と思う。何よりも、昨日(12日)の朝日新聞にも出ていたが、橋下徹が提唱する「競争原理(弱肉強食の世界)」に基づく政治(教育や経済政策を含む)が決して人々の暮らし(生活)を「雄高」にするものではないこと、「改革」という美名の下で行われることが、小泉純一郎の郵政改革が「格差社会」の固定化しか生み出さなかったこと(郵政改革で「言い思い」をしたのは、アメリカと一部の投資家でしかなかったこと)を僕らは今一度思い起こす必要があるのではないか。まさに橋下徹は、「勝てば官軍」的な在り方を続けているのだが、「敗者」の「痛み」が分からない人間がリーダーになったとき、その社会がどのようなものをもたらすか、そこには「荒廃」しかないのではないかと思うが、何とも「いやーな」気持である。
 もちろん、そのような事態を招いたのは、「政権交代」を成し遂げながら、結局「自公」時代と同じような「古い」政治しか行っていない民主党やそれを支持した国民であって、その「迷走」の責任は、また僕らにもあるのだが、それにしても「フクシマ」が収束しないままに、この国はどこへ行こうとしているのだろうか。
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