栗太郎のブログ

一人気ままな見聞記と、
手づくりのクラフト&スイーツ、
読書をしたら思いのままに感想文。

そうだ行こう、京都への旅(2) 六波羅蜜寺

2017-02-13 02:16:55 | 見聞記 箱根以西

永観堂から長駆、六波羅蜜寺まで来た。



お堂はどこか日本らしくない。中国の寺院のような印象を持つ。朱色の柱に白壁のせいかと思ったが、むしろ正面の鉄門のせいだろう。
平安時代の天暦5(951)、空也上人により開創という。西国17番目の札所でもある。
ここは、東山からなだらかな傾斜が続き、鴨川までいたる地形。地名の「ろくはら」とは、その東山の麓の原「麓原」が語源ともいう。
転訛して「六原」、「六波羅」になった。「六」は霊の古語。霊魂の集まる場所としてはふさわしい当て字だ。
平安の当寺、このあたりは鳥辺野と呼ばれた風葬地だった。鳥の字がついているのは、鳥葬の地の名残だろうか。
それを知れば、空也上人がこの地に草庵を編んだ訳も理解できる。
すぐ北側には小野篁で有名な六道珍皇寺があり、冥土へ通じるという井戸がある。なるほど、このあたりはあの世と近い。
六波羅といえば個人的には、やはりかつて清盛をはじめとした平家一族の邸宅がひしめいていたところという印象が強い。空也上人からでは200年のちのこと。
平家物語では、市中警護の役人を「六波羅」と呼んでいた。つまり施政者平家のことを指しているわけだ。
一門の邸館は5,200余も並んでいたという一大勢力も、木曽義仲が京に入った際に兵火により焼失してしまう。
そんな中、この寺の諸堂も類焼に及んだというが、ただひとつ本堂だけが焼失を免れたというのは、なんの幸いだろうか。

着いた時にはすでに、その本堂(貞治2(1363)修営)の中から念仏が聞こえていた。
ただでさえ狭い境内はテントが設営されていてさらに狭く、人がわさわさとひしめいている。まるで野外バーゲンセールの会場にでも来ているようだ。
聞こえてくるお念仏は人混みのにぎやかさと混迷し、騒がしさだけは伝わってくるがよく聞き取れない。
おそらく本堂では、重要無形民俗文化財の「空也踊躍念仏」が行われているのだろう。
「踊る」にさらに「躍る」がつく。どんだけ踊り狂うのか知らないが、熱狂的なお念仏であった名残りを強く感じるネーミングである。
かつて、かくれ念仏と呼ばれていたらしい。
この寺で行われる「空也踊躍念仏」について、しおりには、
<「罪業消滅」、つまり一年間私たちが人として世に生かされている中で知らず知らずに犯した罪業の消滅と、新しき年が良き年である事を祈るお念仏であり、ご参拝者とともに修する一年を締めくくる修業である。>とある。
つまり除夜の鐘とおなじなのだ。
人間には業というものがある。それを否定的な考えでいるのではなく、誰だって生きているだけで何かしらの罪を犯しているのだという考えでいると、多少のつまずきがあるくらいの生き方も肯定されたような気分になれるから不思議だ。
どこで何をしていいかもわからずモタモタしていると、人の流れが本堂のほうへと進んでいった。とりあえずその流れに委ねてみようとついていく。
内陣に目をやると、幾人かの僧侶が立っている前に、参拝者が三人ずつ座っては拝み、次の三人が座っては拝み、を繰り返している。
だんだんと堂内の参拝者は捌かれていき、いつの間にか自分を含め数人が残されるだけになった。
この時点で僕は、まだことの流れが把握し切れてなく、いつの間にか施されるに任せて仏壇の前までやってきた。
残った最後の三人の一人となった僕は、神妙に座り、頭を垂れ、お焼香をし、帰りにお札をもらった。
いくらか払うのかと思ったが、催促はなかった。



ひと気がなくなりだすと、まるで蛍の光が流れてもおかしくないような、店じまいの空気。
あ!いや待った、まだ空也上人と清盛に会っていないんだった!!
慌てて宝物館へと行くと窓口に人がおらず、声をかけようと館内に顔を突っ込んでみた。
左に、空也上人が見えた。見えたと思ったその時、横から「拝観料は?」と叱責されてビックリした。
声の主のおじさんは、受付というよりは、門番、家守、という感じ。もしくは、ゴミの指定日じゃないことを咎める自治会長、か。
お代600円を払い、すっきりした気分でホトケさんを見渡す。
見るからに平安期の四天王や地蔵立像(定朝作)も見事だが、やはり、運慶や湛慶の作った端正な仏像に眼を奪われる。
当寺十輪院のご本尊という地蔵坐像(運慶作)は、怜悧な目つきで実に凛々しかった。
その仏師二人の坐像もあった。作者の像なんて珍しいな、と思っていたら、十輪院が運慶一族の菩提寺だからだそうだ。


目当ての一体、清盛像もあった。

 (六波羅蜜寺HPより)

鎌倉時代の作という。
この像、<平家物語に描かれている傲慢さは全くなく、仏者としての気品を覚える>と紹介されているのだが、僕にはその感想は持てなかった。
やや窪んだように見える眼孔、経典の中身をむさぼるような視線、わずかに開いた口元、胸元がはだけるままに任せているような衣服、、、。
その姿からは、死の恐怖から解放されたいと仏法にすがる老人にしか思えなかった。
ところで、この像の製作を依頼したのは誰だろう?
すくなくとも鎌倉幕府側の意向ではあろう。でなければ、幕府の仇敵を、他の誰が後難を顧みず作れることができるだろうか。
ではその目的は?
そうなると、結論はやはり怨霊封じしかあるまい。


あらためて空也上人像を近くで拝顔した。

 (六波羅蜜寺HPより)

運慶の四男・康勝の作という。像として小さいのが意外だったが、生命感ははんぱない。
手品師が口から万国旗を引きずりだしているように、もわもわっと6体の阿弥陀さまを出してる。
お念仏を称えながら練り歩いている姿なわけで、阿弥陀さまが現れて見えたくらい、空也の称えた念仏はありがたく聞こえたのだろう。
左手に持つのは錫杖じゃなくて、鹿の角の杖だ。首から鉦を下げ、右手には今にも打とうと撞木を持っている。
ふと、若山牧水が心の鉦を打ち鳴らしたいと願い憧れた姿は、かくもあろうかと思い当たったが、呑んだくれの彼の場合、口から出てくるのは阿弥陀さまではなくてアルコールが気化するモヤぐらいなものか。

僕が空也上人に見惚れていると、もう人もわずかのせいか、さっきの家守が気安く話しかけてきた。
「どれも黒くて、護摩焚きのおかげでいい感じで燻されてますね」というと、
「おかげで虫除けになって、虫に食われてないんですな」と笑った。
「たいていがヒノキでできてますわ。堅い木ではないんで彫りやすかったんと違いますか」と続けたので、
「新潟あたりじゃ、あのあたりを遊行した木喰上人が彫ったホトケさんがたくさんあって、イチョウの木なんて堅い木のも結構ありますがね」と返すと、意外そうな顔をした。
「イチョウのホトケさまってのは、木の質のおかげで肌が艶々してて、あのしっとり感がたまんないんですよ」と僕の好みを言うと、先ほど誰何したときの眼付きはどこへやら、
「ほう。あんた、いろんなとこ行ってはりますなあ。」とほほ笑んでくれた。
「まあ、ホトケさん見て回るのが好きなもんで。せやから、京都なんてくるともう、どこ行っても大そうなホトケさんが仰山いてますでしょ?こっちゃもう、消化しきれず食あたりになりそうですわ」
「はっは!そりゃ、もう病気やぁ。」と家守は、豪快に歯を見せて笑った。
関西人と話すと僕はいつのそうなるのだが、最後の頃には、かつて大阪にいたころのしゃべり方に戻っていた。




宵の薄明りは逃げるようにかけ足で、追いかけてきたかのような速さで夜の闇はやってきた。
このまま宿に行ってもTVもないし、ぶらり寄り道、自転車で新京極へ。
腹が減ったので晩飯を食う。
寒いので重ね着用にトレーナーを買う。
肌が乾くのでハンドクリームを買う。
スマホが使いにくいので指無しの手袋を買う。およそ、観光客の買い物ではなかった。

思い立って夜の清水寺へ行った。
誰も歩いていない坂道を、力の限り漕ぎ漕ぎ、どこまで登れるかと挑戦したのだが、半分も行けなかった。
茶碗坂からの入口は鉄格子で閉ざされていて、清水坂へと迂回したが、そこからでも、仁王門の階段手前までしか行けなかった。
これは近年の油かけ事件の余波ではあるまいに、奈良の東大寺だったら境内に入れたのになあ、と愚痴を言った。それでもライトアップした三重塔は綺麗だった。




宿に戻り、近所の銭湯でのんびりつかり、お約束のコーヒー牛乳で喉を潤し、帰って寝た。
深い眠りの淵に沈むのも、わけがなかったが、深夜、何度かこむら返りが起きて跳ね起きたのは参った。
結局僕は、朝から京都にいながら、永観堂と六波羅蜜寺にしか行かなかった。




(つづく)

『京都府』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« そうだ行こう、京都への旅(1... | トップ | そうだ行こう、京都への旅(3)... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。