栗太郎のブログ

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2016 劇場鑑賞映画マイランキング

2017-01-04 18:03:12 | レヴュー 映画・DVD・TV・その他

年明けて2017年。昨2016年、劇場で観た映画を数えてみたら116作品。そのうち、「君の名は。」と「永い言い訳」は二度観た。
情緒ある良質な邦画にあたると、それだけで幸運を引き寄せたような気分にある。
単館上映の映画の中にもいいものがあった。特に、「走れ、絶望に追いつかれない速さで」と「恋」は特筆だった。「恋」はDVDまで買ってしまったし、「走れ、」は出たら買うだろう。
普段観ないアニメも、「君の名は。」「聲の形」には驚きをもって感動を得られた。圏外では「レッド・タートル」「この世界の片隅に」も推したい気分。



ではランキング。やはり第1位はこれでしょう。

永い言い訳 
公式サイト
感想はレビューで。

映画『永い言い訳』本予告



第2位
走れ、絶望に追いつかれない速さで 公式サイト
TVドラマ『ゆとりですがなにか』の山岸役の太賀が主演(ここでは、漣)というだけで、観たいと思ったこの映画。
その、惰性で生きてきたような漣が、親友・薫の自殺の訳を探しに行くストーリーである。
親友の初恋の相手に会い、打ちのめされた漣。ふらりと行き着いた日本海に臨む崖の上。眼下に波立つ水面の下は、絶望の象徴のようだ。
そんなじれったい漣を見ながら、おい、しっかりしろよ!と怒鳴りたくなってくる。
そこで宿のおじいちゃんに運よく救われた漣は、連れ戻された宿の台所でメシを食らいながらわんわん泣く。
メシの美味さをかみしめながら、生きてる実感に震えているのだ。
この場面を見ながら、こんないい役者なのかとこっちがつられて泣けてきた。
そしてそのあと漣は、壁に掛けられた絵を見て何かに気づく。何に気づいたかの説明は特にない。
で、ここからは僕の想像になるが、おそらく、あ、薫もこの絵を見たんじゃないか!と直感したんじゃないだろうか。
おそらく薫は、大阪行きが決まったあとに、漣たちに黙って初恋の彼女に会いに来て、同じこの宿に泊まったのだ。
そのとき、薫は自分の大事にしていた過去を根底から否定されてしまったのだろう。例えば、あなたなんて覚えていないわとか言われたのだ。
そして、あまりにも自分の熱い思いと乖離した冷めた再会によって、絶望の淵に落とされたのだ。
まえに、屋上で朝日を浴びながら飛行機の真似ごとをして戯れていたのはこの絵を思い出していたからで、そのときにはすでに死を覚悟していたのかもしれない、と漣は気づいたのだろう。
だから薫は、送別会であれだけつれない態度をとったのだ。携帯をなくしても平気だったのだ。
ちなみに、ついでに余計なことを書く。旅館の娘のことだ。
凧揚げの場面が不要だという意見を、あるレビューサイトで見かけたが、僕の意見は違う。
あれは「家業を手伝っている気遣いのできる女の子だからこその、さりげなく他人にみせる優しさ」のシーンとして重要なのだ。
そして彼女は、ばったりと出会った旅人の漣が自分の宿の客と知るや、案内し、玄関を開けて「おじいちゃん!」と言う。
僕は、泣きメシを食ったシーンのあとに、この場面を思い出して、震えが走った。あ、この子、両親はいないのか?と。
そして、何かの不幸で親を亡くしたからこそ、人の痛みを感じる優しさがあり、布団を敷いたあとのすれ違いざまに、漣に声をかけたのかと。
そして、おじいちゃんに「あの人、大丈夫かな?」とそれとなく話し、だからおじいちゃんは、もしや?と思い、崖まで様子を見に行ったのでは?
そう考えれば、泣きメシのシーンでのおじいちゃんのショットが深く胸に刺さってくる。身内を亡くす悲しさを知る人間だからこその静寂が。(あくまで想像ですが)
さて。この絵に希望を見つけた漣は、ここから生き方が前向きになった。
だから、仕事ぶりを先輩に認められようにもなる。
そして、たまたま見かけたハングライダーをきっかけに、空を飛びたいと思いはじめる。
その思いこそ、高いところが苦手な漣の決意を感じるようだ。下(海)を見つめて絶望を探していたような漣が、空を目指し、希望を捕まえに行こうとする決意を。
つまり漣は、漣なりの走り方(生き方)を見つけて走り出したのだ。
走り出しさえすれば、絶望なんて忘れてしまうもの。その変わりゆく心情に寄り添うような音楽が、また絶妙だった。
最後に漣は、希望の象徴のような朝日に向かって空を飛んだ。
それは、屋上での薫を思い出したかのようでもあるし、もしかしたら、薫のことを乗り越えたということなのかも知れない。
それはなにかわからないけれど、それはそれでいい。
漣だって、薫の自殺の本当の理由はわからないんだし。誰だって、身の回りのことをすべて知っているわけではないんだし。
それは一人一人が解釈すればいいこと。音楽を聴いてそれぞれが幸せや悲しみを感じるように。
ついでにまた想像を。
漣が大学を中退したのは、少なからず父親との確執に起因するだろう。
それほど亀裂が入った二人なのに、生き方を見つけた漣は心変わりをして連絡をとった。その穏やかな声のトーンに泣けた。
漣がそのとき公衆電話を使ったのは、海へ捨てた携帯を新調するのをやめたからだ。
そこにみえる、死を意識して携帯が不要になった薫と、生き方を見つけて携帯に縛られることがなくなった漣との対比が絶妙に思えた。
この映画、苦悶する主人公にありがちな、わぁわぁガナることなどなく、内なる悩みと苦しみをじわじわとにじみ出すような演技は見事。
どこか、宮本輝の小説のような話だった。
いま、チラシに書かれた「tokyo sunrise」の文字を見つけた。まるで、都会に住む若者たちへのエールのようだ。
僕からは、主役二人と、監督にこそエールを。

映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』予告編




第3位
 公式サイト
少し前、上映館で予告を見ただけで泣いてしまった。
伊藤洋三郎の表情、岡田奈々のたたずまい、そして、ピアノの旋律がポロンと流れただけで、だ。
この映画、50代の大人の淡い恋のはなし。もう峠を越してからの恋だからこそ、自分の気持ちよりも相手の気持ちを思いやれる優しさにあふれていた。
それを周りの人たちが、おせっかいの強弱を上手く使いわけいしながら、応援する姿もまた好感を持った。
だけどすべては順調にいかず、突然の不幸、届かぬ思い。
そんな事態に、普通の恋愛映画なら一大決心!といくはずが、この映画はそうしない。いや、分別があるからこそ、そうできないのだ。
身を引く昭男に、こちらの心も同化して苦しくなってきてしかたがなかった。
昭男が思いを寄せる咲子がなぜ独身を通してきたのか、その訳はなるほどと思わせる範囲の過去話。
しかし、あるきっかけのあとの突然の咲子の行動には驚き、驚きつつもそれほどの思いだったのかと、改めて積年の彼女の悲しみがまた胸に迫ってきた。
おまけに、いつもこちらが我慢してるっていうときに、ピアノがバックに流れ、涙がぼろっとこぼれてしまうから堪らない。
そして、ラスト。これがまた変化球を投げてきた。監督、これはズルいですよ。これで余計に評価をあげちゃったじゃないですか。
まあこちらとしては、いろんなラストを想像しながら行く末を案じていたんですよ?
旅先帰りを匂わせる服装の咲子を、そんな風にとらえて終わりにされちゃ、涙が止まらないじゃないですか。
ところで上映後、ご褒美のような舞台挨拶があった。
監督がおっしゃってたように、観光ごり押しの映画ではなく、むしろ、「狐の嫁入り」の奇祭や、新幹線製造工場が、場面場面に必然として登場してきていた。
当時の記憶があやふやになってる出演者もいるが、それももう愛嬌の範囲。
咲子役の岡田奈々は、もう彼女しかいない!と思えるほどのはまり役だったが、生の彼女もその雰囲気を醸していて素敵だった。
伊藤洋三郎ももちろんのこと、役者陣がいい。客を呼ぶために名前で決めたりせずに、その役にあったキャスティングだった。

映画「恋」予告




第4位
レヴェナント 蘇りし者 公式サイト
重厚、荘厳、圧巻。
こんな長い映画、単なる執念深い復讐鬼の話だったらどうしよう?と思いながら見始めたのだが、あっという間に終わってしまった。
とにかく、映像が素晴らしい。美しさにため息が出っぱなしだった。
そこで展開される(されてきた)、自己理論を振りかざし開拓に手を広げる文明人と、ネイティブアメリカンの妥協と衝突。
ネイティブアメリカンを野蛮人とさげすむ文明人こそ、自然や動物に対して野蛮な行動をしている矛盾。
そのいい例が、バッファローの頭骸骨で作られた塚だ。それを見上げ、沈黙しているグラスは何を思うのか?、そう観ているだけで、メッセージ性の強い映画だと思えた。
そんな、双方の狭間にたつグラスの葛藤を、個人をこえて人種や文化の軋轢を表現されていて心に響いてきた。
歴史好きの僕にしてみれば、まるで、奥州藤原三代の祖・藤原経清の葛藤を見ているような気がしてならなかった。
時たまグラスの妻の幻影が現れるのがまた、心揺すぶられる。
「いかに風は吹こうと、木は倒れない」というグラスの妻の言葉に、どれだけグラスは勇気づけられたことだろう。
グラスは、強すぎるほどの執着心で復讐を決意し続けるのだが、けして無謀ではなく、冷静で深慮ある判断力、行動力に、観客はみな、ぐいぐいと引っ張られ続けていく。
ラスト、復讐は神に委ねられた。
アリカラ族の酋長の娘を助けたグラスを、彼らは殺すことはなかった。しかし、すれ違い様に礼を言うでもなく、娘も微笑むでもなく。
はっとした。酋長の態度に「俺は娘を取り戻したが、お前はどうなんだ?」と問いただしているように思えたからだ。
全体に、重厚な音楽が映像美をさらに高尚なものに盛り立てていた。
特にエンドロールでの、息づかいのようなチェロの旋律、心臓の鼓動のようなピアノの調べ、感情の抑揚のようなバイオリンの奏で。
もう、グラスの執念がこっちに乗り移ってきたかのように、息を荒くして真っ暗な画面に見入ってしまった。文句なし。

映画『レヴェナント:蘇えりし者』予告編




第5位
君の名は。公式サイト
感想はレビューで。

「君の名は。」予告

 


第6位
湯を沸かすほどの熱い愛 公式サイト
宮沢りえと杉崎花の役者魂がまっこうからぶつかり合う。それは、衝突ではなくて、抜群の相乗効果だ。
宮沢の気合が杉崎の熱気を呼び、それに応えるように宮沢の迫真の演技が昇華されていくようだった。
はじめ、杉崎演じる安澄が「お母ちゃんは何もわかってない!」って涙で訴えたとき、観ている僕も、そうだ!と加勢した。
しかし、そこにある宮沢演じる双葉の思いが後から知れると、その愛の深さにたまらず涙が止まらなくなる。
双葉の人柄が、他の人々の心を揺さぶっていくのがよくわかる。もしこんな人が身近にいたら、僕だって引き込まれるもの。
安澄と君江が会うシーンなんて、かつて双葉が「あとで役に立つから」って言った言葉のせいで、そこにいないはずの双葉の姿が、涙があふれた僕の瞼に浮かんできてしょうがなかった。
そして、何よりも、病床での宮沢の演技は秀逸だった。目を疑うほどに驚き、唖然としてしまった。
宮沢自身が母を癌で亡くしており、その経験が生きているのであろう。
オダジョーのダメ親父っぷりも、むしろ心地よかった。
ラストに、タイトルの意味がわかる。その演出の評価は、どうやら賛否があるようだが、僕にとっては久しぶりに震えるようなオチだった。
その、とても常識外れの行為に、涙、涙。

宮沢りえ出演!映画『湯を沸かすほどの熱い愛』予告編




第7位
キャロル 公式サイト
1950年代。今よりもまして、LGBTの人たちへの風当たりは強かった。それは罪であり、精神疾患として病人扱いもされた。
少し前に観た「チョコレート・ドーナッツ」の中でさえ、経済的にも社会的にも問題がない人間が、ゲイであるというだけで、司法での立場は弱かった。
ましてや、50年代ならなおさらだったのだ。
たしかに、旦那から見れば、キャロルはなんて身勝手な女なんだと思うのだろう。
だけど、一度、キャロル本人の感情に寄り添うテレーズの気持ちになりかわってしまうと、途端にその燃えるような恋心に捕らわれてしまう。
キャロルと恋に落ちたテレーズ・べリベットというその名前。勝手ながら、そこから連想する名前、言葉は、聖女テレサと柔らかな手触りのベルベット。
キャロルからすれば、テレーズはまさにそんな女性に見えたのじゃないだろうか。キャロルは、天使のようなテレーズを愛したのだ。
薄氷を踏む思いをしながら連れ添う希望を持ち続けていた二人は、結局その願いはかなわなかった。
しかし、ハッピーとも悲劇ともとれそうなラストは、観る者によってとらえ方が変わりそうで、僕のばあい、明らかに心をざわざわと波立たされた。
だからたぶん僕は、この映画を忘れてしまったとしても、しばらくたってどこかでこのノスタルジックな劇中曲をもし耳にしたら、記憶がよみがえったせつなに、昔の恋を思い出した時のように頬を涙が伝うかも知れない。
とにかく、映像も美術も音楽も台詞も主演の二人も美しい。
演出も、例えばベッドシーンの前後で、キャロルの指輪を目立つようにカメラが抜くのだが、指輪をはめているショットと外しているショットで、キャロルの心情を上手く伝えてくれる手法はみごと。
この映画の原作を書いたのは、「太陽がいっぱい」などで有名なパトリシア・ハイスミス。
当時、同性愛が罪であった時代に、名前を隠して書いたものらしい。
この小説の背景でなにより衝撃なのは、この物語のほとんどの部分が、パトリシア自身の体験した事実であったということ。しかも一晩で書き上げたという。
つまり、テレーズは、パトリシア本人なのだ。興味を惹かれて彼女の若かりし日の画像を検索してみると、これがまた綺麗な方だったのに驚いた。
それを知ると、「キャロル」というタイトルに込められた思いが、パトリシア自身のかつての恋人への恋文のように思えてきてたまらなくなった。

映画『キャロル』予告編




第8位
サウルの息子 公式サイト
サウルは、アウシュビッツで同胞ユダヤ人(ここでは「部品」と呼ばれる)をあたかも工場で廃棄処理をするかのごとく、死体処理をこなす作業員(「ゾンダーコマンド」という)。
カメラはサウルの1m以内にずっといて、画面の6、7割はサウルか、サウルの背中しか映らない。はみ出て映される背景のピントは、意図的にボケている。
たまにサウルが画面にいないとしても、画面はほぼサウルの視界が捉えた映像でしかない。
そのせいで、もう、観ている自分までもがゾンダーコマンドになった疑似体験を押し付けられる感覚になってくる。
うず高く積み上げられた肌色の物体に、こっちまで何の感情も消えてしまいそうになる。
サウルは、作業場で「息子」を見つけ、埋葬することにこだわるのだが、自分勝手な行動のおかげで周りを巻き込み、仲間に多大な迷惑をかける。
おいおい、死体の処理になんでそこまでこだわるんだい?
生きている人間はどうでもいいのかい?
と、じれったさばかりが募り、そのくせ、あのラストの笑顔の示す意味がわからず、困ってしまった。
そこで、町山智浩さんのブログをのぞいてみた。(もともと、ラジオ「たまむすび」で町山さんのおすすめだったので観たからだ)
なるほど!と膝を打つ。自分の不勉強が歯がゆい。
そういえば、息子なんていたか?って聞いていたな。
そうか、象徴か。たしかにユダヤ教は、魂の再生を信じているな。
映画の中でも、「お前が記録していることは知ってるぞ。」って言ってることや、土管にカメラを隠すことや、それらはこの映画の資料の存在を暗喩しているわけだ。
なにかを残さなければいけない。そう思うから「埋葬にこだわる」のだ。
だからこそ、流されて絶望の時に、あの少年に出会い、「ああ、これで・・・」と。あの笑顔になるのか。
森の中でありながら、やけに開放感を感じるのはそういう演出もあったのだろう。
サウルの願いは、こうして映画になったことでいくばくかは叶えられたと願ってやまない。
(ネタバレ過ぎるといけないので、抽象的な表現で。)

映画『サウルの息子』予告編



第9位
聲の形 公式サイト
素直に、すごい、と思った。なにがって、このいじめをテーマにした漫画を映画にしようとした意欲がすごいと思ったのだ。
「君の名は」の成功のすぐ後だけにそれに便乗したかのような向きもあるが、むしろ、公開が逆であったとしたら、その風潮は逆であったかもしれない。
それほどに、この映画を観た僕にすごいと思わせた。
アニメならではの表現(バッテンで心理描写を表現するなんて絶妙だ)も駆使するし、風景のひとつひとつ(季節や川や鯉だけでなく、遠近やボカシも含め)が心情表現に一役買っている。
そしてなにより、ストーリーが良くできていて、とうぜん、引き込まれっぱなしだった。
たしかに、そりゃあ初めは石田が悪かった。だけど、子供ってもともと残酷な生き物なのだ。放置すれば、どんどんエスカレートするのだ。だって、それが人生を歩き始めたばかりの経験の少ない子供なのだかから。
だからこそ、周りの大人がよく見てあげていることが肝心なのだ。たとえば、硝子のおばあちゃんのように。
硝子のお母さんは、硝子の障碍を我が罪として背負い、その反動で硝子に厳しくなっていたのはわかる。
その根底にあるものは愛なのだから責める気はもちろんない。島田にしても植野にしても川井も佐原も、まだ幼い子供だったのだから大目に見たい。
僕が責めたいのは、担任の先生だ。校長(か?)が硝子の転校を告げたとき、担任は石田を名指しした。つまり、担任はそれを以前から知っていて放置していたのだ。
コノヤロウと思った。むしろ事態を改善できなかった責任こそあれ、石田をヤリ玉にあげるのは筋違いなのだよ。
転校してきた硝子が、気配りのできないあんな担任のクラスに入ったことが残念でしかたがない。
ともあれ、それは過ぎたこと。
場面場面で、「お前ならどうする?」と突きつけられるようで、ヒリヒリする。
お前がこのときの硝子なら?、お前がこのときの石田なら?、お前がこのときの植野なら?、、そのときそのとき、まるでナイフで脅されているかのように突き付けてくる。
だけど残念ながら、正解なんてでない。せめて、人を傷つけることのないように、と気遣うことしかできないのだ。
あ。だからこ、石田は、そうやって自分を抑え、殻をつくるようになっていたのだろうか?、とふと気づいた。
孤独になってからの石田の優しさに見える行動は、人との接触を避けたいだけの態度だったのか?
だからこそ、それまでの辛い体験を乗り越えて最後にあの晴れ晴れとした表情ができてことで、よかったじゃないか、と声をかけたくなってくるのかもしれない。

映画『聲の形』 本予告



第10位
神のゆらぎ 公式サイト
ふだんの僕は、家にエホバの勧誘が来ると「僕よりも、あなたの一番身近なお子さんをまず幸せにしてあげてください」と、連れだって歩く子供に同情してしまう。
映画の中で妻に浮気をされている男は、「飛行機が墜ちるのは、全能の神がいないからだ」と、エホバの勧誘を追い返す。
それは神の問題ではなく科学の問題ではないかとも思うのだが、まあどっちにしても、どこであれエホバは招かれざる客である。
そんな彼らにとって、ゆるぎなき信仰こそが自らの存在価値である。
それが、この映画の中で彼らは揺れるのだ。現実の難問にぶち当たれば、当然のことなのだ。だって、全能の神なんていないのだから。
で、この映画の深いところは、そのテーマを一本の骨にしていながら、何組もの悩める人間を同時に登場させるカラクリだ。
みな、法律的ないしは道義的に後ろめたい連中ばかり。しかし、根っからの悪人ではない。言わばどこにでもいそうな隣人なのだ。
何の接点もなさそうな彼らが、脈絡もなさそうに行ったり来たり登場してくる。
それが、時間軸が過去と現在を折り重ねて進行しているのだと気付くのにやや時間はかかったものの、気付いた時から先は、まるでサスペンス映画を観ているような感覚で釘付けになってしまった。『サードパーソン』を思い出させるようだった。
最後にすべてのピースがはまるようにラストに向かうのだが、それは悲劇を意味し、そうなってほしくないという感情が涙を誘う。
その感涙のわけは、悲しさとか切なさとかとは違う。あえて言えば、どうしようもない虚しさか。

映画『神のゆらぎ』予告編




そのほかよかったのは、「ちはやふる上の句」「ロブスター」「孤独のススメ」「最愛の子」「ルーム」「百円の恋」「殿、利息でござる」「ロクヨン前編」「団地」「ディストラクション・ベイビーズ」「ヒメアノ~ル」「二重生活」「セトウツミ」「シネマ歌舞伎阿弖流為」「ふきげんな過去」「エクス・マキナ」「ラサへの歩き方」「オマールの壁」「さざなみ」「セルフレス覚醒した記憶」「淵に立つ」「怒り」「続・深夜食堂」「At the terraceテラスにて」「我らが背きし者」「葛城事件」「雨にゆれる女」、あげたらきりがないようだ。
(他のレビューは、映画.comのサイトで、「栗太郎」)



最後に、観て損したワースト3


シェル・コレクター 公式サイト
この映画、カッコつけすぎなんじゃない?
感性でストーリーも映像も作っちゃえば意味わかんなくてもよくね?みたいな?
環境破壊を匂わせればカッコいい?ってな感じ?わかんないけど?
学問一筋の盲目の孤独な初老をリリーフランキーに任せれば何とかなるかな?的な?
そんな風にしか見えず、演出もむくめ、到底受け入れられない。
まず、眼が見えない一人暮らしなのに、髭がやたらときれいに整えられていることに無理がないか?
浜辺も一人で歩けるくらい自分の住環境を熟知しているのなら、持っている杖を、ドアの横の籠にすとんと無造作に納めなくてはいけないだろう?
水以外の食料はどうしてる?どこからリンゴがやってきた?
だいたい、助手のひとりくらいいないとその生活は成り立たないだろ?
なんで、寺島しのぶのキャラはあんなぶっとんでるんだ?
島の奴らも、奇病を直してもらうつもりなら、コレクションをぶっ壊して脅すな。
虐げられて差別されている人々(ここでは沖縄とはっきり言っておこう)は、自分たちが差別されていると声高に訴えるが、じつは、それを逆手にして「反差別」活動をする人たちでもある。
その構図がこの映画からにじみ出ていて不快で堪らなかった。


花芯 公式サイト
レビュー


秋の理由 公式サイト
不細工な強盗に襲われるシーンで、「しまった!」と思った。
寺島しのぶに釣られ、だめでも伊藤洋三郎が良けりゃと観に行ったのだが、劇場に居合わせたことを後悔した。
他の役者の台詞が下手で、間が悪く、恐ろしいほどにつまらない。枯葉が綺麗だった、それだけ。
外見で入った食堂で、注文を聞きに来たばあさんのドン臭さに不安を感じ、食べ出してみて想像通りのマズい味に「やっちまった!」とついつぶやく、そんな気分だった。



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