権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(1)

 甘いものを指して「蜜の味」と言うが、この世で最も甘いのは「権力」という蜜の味だろう。
一度この味を覚えると、よほどの清廉潔白の氏でもない限り、その虜になり、最後は身を滅ぼしてしまう。その好例が前と現東京都知事だ。

人を虜にする権力

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事という椅子に魅せられ、それにしがみ付いているのか。
それほど知事という椅子は魅力的なのか、それとも東京都知事の椅子はほかの知事の椅子より格別に座り心地がいいのか。

 例えは悪いが、道府県知事の椅子が汎用品の中でちょっと高級な椅子だとすれば東京都知事の椅子はオーダーで別誂えした椅子ぐらいの違いだろう。
部課長の椅子と大企業の社長の椅子ぐらいの違いと言った方がいいかもしれない。
機会があれば一度座ってみるといいだろう。
背もたれの高い椅子に腰を下ろした途端、自分が偉くなったような気になるはずだ。

 そう感じるのは椅子の作りがいいからだけではない。社長室の空間的な広さや、そこに設えられてある調度品などからも受けるだろうが、なにより実感するのは部下が自分の指示一つで動いたり、指示を窺いに部屋にやって来るからである。
こうして人は権力を実感し、その力を自分自身の力と勘違いしていく。

 これが権力という力の全てではないし、人が権力に魅せられる全てではない。
権力の魔力は象徴的、感覚的、情緒的な部分よりは、その裏に潜んでいる実利的な部分(甘い蜜)にこそある。あるいは実利的な裏打ちがあってはじめて権力が力を持ちうる。

 人が権力に魅せられ、一度手にすると離したくないとしがみ付くのも権力がその裏で実利的な部分を持っている、実利的な部分とくっ付いているからである。
そのことを白日の下に晒したのが前・現東京都知事だ。

         (中 略)

都知事になりたがる理由

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事になりたがったのか。それほど都知事の職は魅力的なのだろうか。
 まず知名度。


 前都知事の猪瀬氏も欲しかったのは都知事という名誉だったのか、それとも都知事に付きまとう権力という力だったのか。
 彼は以前にも少し触れたが「ミカドの肖像」という労作を著すなどノンフィクション作家としての地位をすでに築いていたし、それなりの稼ぎもあったはずである。
政治の世界にさえ近づかなければ、と思うが、やはり「もっと、もっと」という欲があったのかもしれない。

         (中 略)



 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから

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アベノミクスの効果って?



 参院選の火蓋が切って落とされた。

選挙になると勇ましい言葉が並び、ことさら成果が強調される。

言葉は言霊(ことだま)だってことを彼ら政治家は知っているだろうか。

公約もマニフェストも彼らが使えば一片の真実もない「言の葉」になってしまう。

公明党がかつて「平和の党」を自称していたことを、いま何人が知っているだろうか。

いまでは平和どころか自民党の後に付き従うだけの補完勢力。

戦争反対どころか、戦争に賛成する自民党を止められない党に変質している。

庶民のためと言いながら戦争に突き進んだ、かつての歴史と同じだ。

アベノミクス? アベノミクスの効果って一体何だ。

そんなものは地方のどこを探してもありはしない。

一体どこに行けばお目にかかれるのだ。

どうすれば実感できるのだ。

地方で目にするのはこんな光景ばかり。

駅は無人で、列車は1時間か2時間に1本通るかどうか。

通学時間帯を除けば駅に人影もない。

えっ、アベノミクスって滴り落ちてくるものだって?

そうすれば地方も少しは潤うんだって。

いつになれば、その滴とやらが落ちてくるのだ。

いつまで待てばいいんだ。

いつまで待たせるんだ。

その前に俺達も、町も死んでしまうだろう。

選挙目当ての政治家の言葉なんか信用できない。

いつまでも騙されてばかりはいないから、

「経済が争点」と言いながら虎視眈々と改憲を狙う。

衣の下に鎧を隠し、選挙の時だけきれいごとを並べる。

でも、もう騙されない。



デル株式会社
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田舎の生活を楽しむ(2)

 今回、この便利な条件を1つ変えた。固定電話を解約したのだ。すでに1年前にインターネットのプロバイダー契約は解約していたが、今回、電話回線も解約した。すでに数年前から電話が使われることはなかったし、母も2月に亡くなり、固定電話が使われることはますますなくなったからだ。
 結果、帰省中インターネットに接続する機会が激減した。どうしてもインターネットに接続しなければいけない時は車で近くのセブンイレブンまで出向き、そこの無料WiFiに接続している。
 まあ、そんな面倒なことは極力したくないからどうしてもデジタル離れになる。代わりに増えたのが手紙と電話。メールのような手軽さはないが、相手との距離感がまるで違うことも実感した次第である。

◆嫌いな田舎生活が好きに

 以前、嫌いだった田舎生活が最近気に入っている。1年前、福岡に引き取った母も亡くなり、帰省する理由もなくなったが、それでも以前と同じように数か月に一度帰省し、誰もいない家で1週間程度滞在している。できることなら、このまま田舎の家で生活したいとさえ思いだしている。

 田舎生活のどこが気に入っているのかと自問自答して分かったことが一つ。静かな環境と広い空間だ。家は古いが室内外の空間が広く、そのことが落ち着きを与えてくれる。個人的に最も好きなのは実家の風呂だ。マンションのユニットバスの3倍はある広いスペースはなによりリラックスできる。
 どの部屋に行くにも段差があり、歳を取り足元が覚束なくなると室内を歩くにも注意が必要だが、いまのところはまだ大丈夫。多少の不自由さより開放感の方が勝り、田舎の家にいると生き返ったような気持ちになる。ただし、冬の間は逆の気持ちになるが。

 田舎が嫌いだった理由の一つに濃い人間関係もあった。監視カメラで常に「盗撮」されている都会よりマシかもしれないが、田舎ではプライバシーはあってないようなものだ。何時ごろ起きて何をしているか、いつ誰が訪ねてきたかなどが全て把握されている。都会の「隣は何をするものぞ」の無関心も困るが、関係が濃い過ぎて生活が筒抜けなのも困る。
 だが近年の過疎化で、町内の世帯数も減り、隣家との距離も物理的に開き出し、そのことが濃い過ぎず、薄過ぎないちょうどいい距離感を生み出してきた。過干渉と無干渉のちょうど中間というか、付かず離れずの距離感が保たれるようになり、それが心地いいのだ。

 例えば向かいの家との関係。広縁に腰掛けいつも外を眺めているので、いちいち挨拶しなくても私がいつ出かけたのかを知っているし、留守中誰かが訪ねて来ても、それが不審な人間かどうかまで含めチェックしてくれている。
 いうなら人間セキュリティーシステムみたいなもので、実はそれで随分助けられている。ある時などは大阪の従弟が偶然、何の連絡もなく訪ねて来たが、「先程出かけられましたよ」と教えられたようで、従弟から私のケータイに電話がかかってきて、無事会うことができたし、ある時などは見かけぬ人間がうちの家の方に歩いて行ったので、泥棒だといけないと考え、そっと後ろを付けて様子を見に行ったと後日教えられた。見守ってもらっているわけだが、昔なら「見られている」と不快感を感じたかもしれないが、いまは助けられていると感謝している。

 都会で犯罪が増えているのは人が多すぎることにも原因があるのではないか。ある空間に必要以上に生物(人でも魚でもマウスでも)を入れると、ストレスでそのうちの何10%かが亡くなるということは実験で知られている。同じことは人間社会でも言え、近年の無差別殺人の起因はそのことと無関係ではなさそうだ。



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田舎の生活を楽しむ(1)

 近くで鶯の鳴き声がする。まるで私の帰省を歓迎してくれているかのように「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ」と朝から夕方近くまで鳴いている。
 前回の帰省から2か月程度しか経ってないというのに庭の雑草は伸び放題。雑草に混じってドクダミの花が咲き誇り、花壇は雑草に占拠されて花はほぼ壊滅。新しく花を植え直すかどうか迷いつつ、向かいの家に向かった。
 その家の住人は10年近く前に奥さんを亡くし、以来寡暮らし。時々農作業に出かける以外は広縁に椅子を置いて腰掛け、日がな1日外を眺めている。

豊かさの代償で手に入れたもの

 寺山修司が何かの本で次のようなことを書いていた。「私に話しかけて下さい」と書かれたボードを首から下げて、公園で1日中腰掛けている老人達がいる、と。
 豊かさの一方でコミュニケーションを求める孤独な老人達。寺山が見たのは60年代のアメリカの光景だが、いま同じような光景が日本でも中国でも見られる。首からボードこそ下げてはいないが、誰かに話しかけてもらうのをじっと待ち望んでいる孤独な老人達。

 社会は豊かさの代償に、他人への関心、コミュニケーションを失ったようだ。そしてその傾向は今後弱まるどころか、むしろますます増殖していく傾向にある。コミュニケーションツールが増え、人々を「内」に閉じ込めだしているからだ。
 人々の関心は身近な距離から、はるか遠くの出来事、それは往々にして海を越えた向こうの出来事であることが多いが、それらを掌を見詰めるだけで手に入れるようになり、それが視野の広がり、グローバル社会との繋がりと感じている。
 一方、身近な情報はわずか数10メートルの距離でも行動しないと得られない「煩わしさ」と面倒臭さを伴っており、しかも得られる情報量ははるかに少ない。
 どちらが効率的かと言えば明らかに前者だし、情報の有益さから言っても前者だろう。
 かくして、人は非効率なことを避け、ますます「内」に閉じこもり、そこから「広い」世界を見詰めようとする。こうした傾向は「不便な」地方より、「便利な」都会ほど顕著である。

 「きれいですね。この花、なんという名前ですか」
向かいの庭先に植えられている黄色い花を指して問うより早く、こちらの姿をガラス越しに認めた住人が広縁のサッシを開けて出てきた。
「なんとか言うんじゃけどなんじゃったかいな。これな、どえらい強くてすぐおごるでな。持って帰りんさい。すぐ根付くで」
 すぐ側に社協の建物や中学校があるとはいえ、この家まで立ち寄って話す人はいない。同じ一人暮らしでも寡と寡婦では人の寄り付き方が違う。寡の方にはなぜかあまり人が寄りたがらない。部屋が散らかっている、こぎれいな格好をしていないというような一般的なイメージが邪魔しているからだろうか。実際には男の一人暮らしの方が不自由しているはずなのだが。
 そんな思いもあり、帰省中、私は努めて向かいの住人に話しかけるようにしている。一種の安否確認みたいなものだが、こちらも一人で家にいると今日1日誰とも話さなかったということになり、認知症への不安が過る。そういうわけでは向かいの庭を覗いて会話をするのは相手のためだけでなく、こちらにとっても一石二鳥の効果がある。そして時には今回のように花をもらったり、玉ねぎや白菜をもらったりという実益もある。

不自由な生活を楽しむ

 若い頃(といってもそう昔のことではないが)は田舎の生活は嫌いだった。生活が単調で刺激がなさすぎる。昔ほどではないが、やはり都会に比べれば店にモノが少ない、というか選択肢がないから、結果として物価も若干割高になる。交通の便が悪い代わりに、人間関係が濃く、プライバシーがあるようでない。
 こうしたことが嫌いな理由だったが、いまや田舎といえども電話は光ファイバー回線が市内全域に敷かれている。当然、ネット環境は快適だ。
 車で10分余り走れば食品スーパーや家電専門店、ホームセンターがそれぞれ複数店舗あるし、高速道路を使えばイオン大型店まで15分余りで行ける。
 家から高速道路ICまでが近いこともあり、姫路、鳥取、岡山市まで1時間余りで行けるという足回りは福岡に居る時よりいい。ただし、こうした便利さは「車があれば」という前提で成り立つことであり、車がなければ何をするにも不自由、不便な場所に一変するが。


デル株式会社

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三菱自動車が消える日

 三菱自動車が存続の危機に直面しているーー。

同社は過去何度か経営の危機に陥ったことがあるが、その度にダイヤモンドマークを冠した三菱グループに助けられてきた。
だが、今回はどうか。柳の下にドジョウはまだいるかどうか。
答えはノーだ。市場から三菱自動車の名前が消える日はそう遠くないだろう。

三菱自動車の問題体質


ユーザー視点がない三菱自


今後、一気に進むか業界再編成


    全文はHPにアップしています。

    HP:http://www.liaison-q.com/



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欲で変わる「二度目の仕事」~作品に垣間見える作家の人生(2)

書き手の人生が垣間見える

 言葉は思考である--かねがねそう考えている。
同じ言葉でも喋っている言葉より書いている言葉(文章)の方が相手のことがよく分かる。
それは時に人格や性格さえも窺わせる。
これが小説等になると登場人物に対する書き手の感情までが見えてくる(ことがある)。
それ故に引き込まれるように読み進んで行ったり、逆に途中で投げ出したくなるものもある。

 瀬戸内晴美の「美は乱調にあり」は後者に近い本だった。最初に断っておくが、ここで言っているのは瀬戸内寂聴氏のことではない。まだ寂聴になる前の瀬戸内晴美が書いた文章である。
 彼女が「美は乱調にあり」で大杉栄と関わる伊藤野枝の半生を書いたのは44歳の時。
当時、彼女は伝記小説と言われる分野ではすでに「田村俊子」「かの子繚乱」を書いていたが、「美は乱調にあり」は書き出しからして少し変わっていた。少し変わっていたというのは、一般的な伝記小説には見られない、執筆時の現代の取材過程に触れる所から入っているからだ。

 それはさておき、作者は小説の主人公にあまり好意的な印象を持っていないように感じ取れた。
中にはそうした小説もあるが、途中から主人公への愛が感じられるようになるものが多い。
だが、この作品に限って言えば、一貫して伊藤野枝への軽蔑、嫌悪感が作者に巣くっているようで、それが読者である私の心を苛立たせた。
 こういう場合は大概、途中で読むのをやめ放り出すのだが、それもなく読み終えたのは伊藤野枝への関心の方が勝ったからかもしれない。

 例えば書き出しに近い部分で伊藤野枝について次のように書いている。
「彼女の幼稚な詩や、固い文書で綴られた主観的な感想文や、小説以前の『小説らしきもの』に、何の魅力を感じることもなかった」
 「どうひいき目に見ても(略)野枝の文学的才能は大成したとはいえない。後には小説も翻訳も評論も一応ものしているし、文筆で結構稼いでいるけれども、彼女を一人前の作家と呼ぶには最後まであまりにお粗末な作品しか残していない」

 こうした手厳しい表現は最後まで緩むことがないが、手厳しいのは伊藤野枝の才能に対してだけではない。
むしろ、その生き方、大杉栄をめぐる三角四角関係を嫌悪している作者を感じる。
それは潔癖症から来る嫌悪感というものではない。むしろ自分と同じものを見る嫌悪感である。

 小説には作者の主観が入り込み、それが登場人物に反映される。時には色濃く、時にはさり気なく。
そういう意味では「美は乱調にあり」の伊藤野枝は瀬戸内晴美そのものである。
彼女がこれを執筆している当時、彼女自身が野枝と同じような生活を送っていた。
激しい不倫関係、三角関係の中に身を置きながら、執筆していたのである。
その思いが、自分に似た野枝の文学的才能や男との関係に厳しい目を向けさせていたのではないか。
その後、作家、瀬戸内晴美が出した結論は出家して男断ちをすることだった。

 両著ともに30~40年前に書かれた作品である。だからこそ、その後の作者の人生と照らし合わせて面白い(失礼)。
猪瀬直樹、瀬戸内晴美両氏の「二度目の仕事」はかなり対極に位置したように感じられる。

 前者は「二度目の仕事」をしなければ文壇でさらに高い評価を得ていたに違いない。
たしかに物書きで得られる収入は「二度目の仕事」で得られた収入に比べるとはるかに少なかったかもしれない。
 杉田女史は「欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ」と忠告したが、彼にあったのは物欲というより名誉欲ではなかったか。それとも両方だろうか。
物欲、名誉欲を持つこと自体は悪いことではない。
問題は「分を知る」かどうかで、そのことを彼はかつてヒーローだった人たちのその後の人生をインタビューすることで明らかにしてきたはずだが、人間やはり自分のことは見えなくなるものらしい。それだけに「足るを知る」ことが大事だろう。

 後者は仏門に帰依することでそれまでの愛欲の生活に別れを告げ、物質的には質素でも精神の充足を感じる生活を送り、より人々に知られる存在になっている。

 人間は欲深いもので、一つ手に入れればもう一つ欲しがり、それが手に入ればさらに欲しくなる。かくして欲は際限なく膨らみ続ける。
強欲資本主義と言われる所以だ。バブル経済が崩壊しても、ブラックマンデーに襲われても、喉元過ぎれば何とやらで、しばらくすればまた欲しがる。

 我々は一体どこへ行くのか、どこへ行こうとしているのかーー。






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欲で変わる「二度目の仕事」~作品に垣間見える作家の人生(1)

 このところPCから距離を置いている。理由は前回触れたが、代わりに増えたのが手紙とタブレット。お陰でタブレットの長所、短所も分かってきた。
 前回触れたようにPCに比べればまだ入力に時間はかかるがフリック入力で文章も結構書けるようにもなったのは大きな収穫だった。

電子書籍をタブレット、スマホで読む

 もう一つの変化は電子ブックを読み出したこと。
いままでタブレット、いわんやスマホで本など読めるものかと考えていたが、これまた食わず嫌いだったようで試しに読んでみると結構読みやすく、遅読の私にしてみれば珍しく短期間で1冊読み上げた。

 読んだのは「下町ロケット」。きっかけはソニークラブから届いたポイント案内。それにはポイントの失効期限と、電子書籍で使えるポイント数が表示されていた。せっかくのポイントをムダにするのもと思い、取り敢えずポイント内で購読できる本を2冊購入。その1冊が「下町ロケット」で、もう1冊は浅田次郎の「柘榴坂の仇討」。

 言うまでもないが、いずれも小説。線を引きながら読んだり付箋を貼る必要がないから電子ブックでもいいだろう、どうせ無料だしと軽い気持ちで購入した。

 結果は当初予想した以上に読みやすく、「はまった」。
とはいえ10.1インチタブレットでは単行本を読む感覚に近く、どこでも気軽に読むというわけにはいかないから私の読み方には不向きだった。

 ピッタリなのは7インチサイズのタブレットだが、こちらは手放したので5インチサイズのスマホで読んだ。サイズ的にもちょうど文庫本を読む感覚で、就寝前の一時、スマホで読み進めた。続いて「柘榴坂の仇討」。こちらは短編なのですぐ読み終えた。

多才が故に落ちる罠

 で、さらに次に、は行かない。
ここで紙の本に戻ってしまった。
理由はない。ただ手持ちの文庫本も読んでおかなければと思っただけで、何冊か書棚から取り出した中で、猪瀬直樹の「日本凡人伝 二度目の仕事」を読むことにした。

 猪瀬直樹氏についてはいまさら説明の必要はないだろうが、先の東京都知事である。だが、それは彼の「二度目の仕事」で本来は作家。それもノンフィクションを中心とする作家である。なまじ政治に色気を示したばかりに晩節(?)を汚したが。

 こういう経歴を知りながら「二度目の仕事」を読むと実に面白い。
内容はインタビューで構成されており、最初の仕事で注目を浴びた人の、その後(現在の仕事)についてインタビューしているわけだが、なかなか突っ込みが鋭い。
よくそういうことを聞くよな、という質問もあるが、彼のインタビュアーとしての才能は素晴らしく、なまじ政治の世界に近付きさえしなければと、他人事ながら思ってしまう。

 好事、魔多しとはよく言ったものだ。足るを知っていればと思うが、他人のことは見えても自分のことは見えないものだ。人の欲望は際限ない。

 文中でそれらしきことにも触れている(指摘されている)のに、いざ自分のこととなるとやはり先人と同じ失敗をしてしまうようだ。

 ちょっと引用してみよう。その項のタイトルは「占い師--婦人国会議員第一号 杉田馨子(けいこ)女史の戦後民主主義の方角」

 杉田 あなた、財運はあるわね。
 猪瀬 そうお! おカネ貯まる、ハハハ。
 杉田 貯まるっていうよりもね、ウフフッ、遺産をもらう可能性のある星なのね。
 猪瀬 ハッハッハッ。あんまりカンケイないけどな。
 杉田 わかんないわよ。だってねえ、遺産たって親の遺産とは限らないのよ。
 (中略)
 杉田 欲もあるわね。物欲、案外深いでしょ。
 猪瀬 ない、ない。
 杉田 でも出てんのよ。ま、とりあえず注意するってことは、あまり手を広げないことね。現状を充実させるようにつとめることね。それから、そうですね、東南とか東北ね、あなたが寝泊まりしてるところからの。そこからのいろいろなうまい話を持ってくる人があるでしょ。初めての対人関係は注意すること。

 上記インタビューが行われたのは1983年11月だから、いまから32年余り前。当たるも八卦当たらぬも八卦の世界だからと一笑に付すこともできるが、果たして杉田女史は見抜いていたのだろうか。とりわけ「あまり手を広げないことね」という女史の指摘は、その後の彼の人生を見ていると諫言だったように思えるが・・・。

 このインタビュー中、彼は二度に渡って自分に女難の相があるか尋ねているから、当時から色気はあったのだろう。
 もし、女史の諫めを聞き、政治の世界などに色気を示さなければと思うが、それは後の祭りというか、他人の要らぬお節介かもしれない。

 もう1点気になるのは彼の多少横柄とも思えるような質問の仕方だ。年長者には敬語とまではいわなくても、普通はもう少し丁寧な言葉遣いをするだろうと思うが、それがない。この本を彼が上梓したのはまだ40歳前である。そんなところに引っかかる私がおかしいのかもしれないが。







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WiFiタブレットを使い倒す(3)

ネット非接続でもPCとの同期

 本稿はタブレットとPCの両方で書いているが、こういう場合に問題になるのが文書データの同期を図れるかどうか。

 タブレットの弱点は端末内部の記録容量(ストレージ)が少ないこと。
モバイルPCなら容量300~500GBのハードディスク(HDD)を内蔵しているが、タブレットだとストレージが16GBか32GBというところだ。
 外付けのmicroSDカードにデータを保存できるようになっているものも多いが、それでも32GB。多くても64GB。大容量SDカードがまだないということもあるが、PCに比べると記録容量は圧倒的に少ない。

 もともとタブレットは単体(スタンドアローン)ではなく、ネット接続下で使うことを前提に作られているから、それでいいのかも知れないが困ることもある。特にWiFiタブレットはネットに接続できなければ「ただの板」にほかならない。

 とはいえ、日常使いで困ることはなかった。私の場合は持ち歩いて使うことがなかったからである。
 ところが、2月下旬に母がグループホームから病院に移って以降、毎午後、病室に行き母の側で過ごすのが日課になった。そうなると空き時間(母が眠っている時間)を考えタブレットを病室に持ち込むようになった。
 以前ならモバイルPCなのだが、母が眠っている時間といっても、眠ることもあるし、ずっと起きたままのこともあり、目を覚ました時に即座に対応できるという面でもタブレットの方がよかった。
 すでに医師からは「もうできることはありません。後は看取りだけです」と言われていたので、容態が急変した時、PCを開いているとモタモタしてしまうが、タブレットなら放り投げるだけでよかったということもある。

 しかし、ネット非接続環境でタブレットを使おうとした突端、データを保存して持ち歩けないというタブレットの弱点が大きく立ちはだかった。

 いままではデータをDropboxやOneDriveといったクラウド上に置き、PCやタブレットでアクセスしていたから、WindowsとAndroidでも問題なくデータの同期が図れていた。

 だが、LAN環境がなくなるとWiFiタブレットは使えない。
もちろんコンビニに行けば無料WiFiが使えるが、そこで原稿を書くわけにはいかない。
またスマホでネット接続して、テザリングでタブレットを使うという方法もあるが、そんなことでSIMのデータ容量をムダにはしたくなかった。

 結局、ネットに接続していなければタブレットは「ただの板」である。スタンドアローンでは使えない。
 一度はそう諦めたが、その後、調べているうちにネット接続環境になくてもやりかけの仕事を継続できることが分かった。

 その方法とはこうだ。私の場合は文章を書くのにWindowsでは「秀丸(ひでまる)」、Androidでは「Jota Text Editor」というエディターを使っている。
これらを使ってクラウド上にある文書を引き続き作成・編集・保存できればいい。

 試したところクラウド上の文書が読み込めたものとそうでないものがあり、すべてのデータが読み込めるわけではないことが分かった。
 その差は一度データをタブレットで読み込んでいるかどうかで別れた。要は一度読み込んだデータはクラウド上だけでなく本体にも保存されるから、それを読み込んでいるわけだ。

 次に読み込み編集もできたが、保存できないことが分かった。
これでは結局使えない。

 さらに色々試していると、DropboxにもOneDriveにもオフラインで使えるようにする設定があることが分かった。

 例えばDropboxの場合、Dropboxを開く→ファイル一覧が表示→編集したいファイルの右端にあるマークをタップする。



 するとファイル名が表示され、その下に「このアプリで開く」「名前を変更」「コピー」などが縦に表示される。
一部下の方に隠れて見えないものもあるが、その場合は上にスライドしてすべてを表示させると、下から2番目の所に「オフラインアクセス可」というのが見える。

 表示された時はグレー(オフ)になっているが、そこをタップしてオンにする。
これでオフラインでも編集・保存ができるようになる。

 OneDriveも同じように行えばOK。言葉が「オフラインを維持」に替わるだけで、ここをタップしてオンにするだけだ。

 以来、PCで文書を書く場合、常に作成中のファイルを「オフラインアクセス可」にしている。
 かくして、いとも簡単にデータの同期が図れるようになり、タブレットの出番が増えてきた。






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WiFiタブレットを使い倒す。(2)

フリック入力が結構使える

 そんなわけで結局アンドロイドの方を買ったわけだが、買い替えた理由はキーボード。
 実は10数年前から左手小指が腱鞘炎で伸びなくなり、いまでは左手でまともに使えるのは人差し指だけ。
他の指は曲がったままで伸びない。そのためQWERTYキーボードを打つのが苦痛で、他の入力方法、例えば紙に手書きしたものをデジタル変換する方法や、音声入力、かな入力方式等々を色々試してみたが、どれも一長一短。

 入力の速さでいえば、やはりキーボードに敵わないが、指への負担を考えるとQWERTY入力より打鍵数が少ない、かな入力方式の方がいい。
ただ新たにキー配列を覚えなければならないのが多少のネック。
でも、それはなんとかなりそうだった。

 ところが未だかな入力方式はものになってない。
というのも、文章を書く時は思考を妨げないスムーズな入力が必要で、この点でどうしても長年使い慣れたQWERTY入力には敵わず、かな入力でたどたどしく入力しているうちに、ついイライラしてQWERTY入力に戻してしまう。
そのため、いつまでたってもかな入力のキー配列が覚えられないのだ。

 ところが、指が伸びなくて日常生活に支障が出はじめたのと、それに伴う入力ミスの頻発で、キーボードによるQWERTY入力を他の方法に変え、これ以上指への負担をかけないようにする必要に迫られてきた。

 そこで物理的キーボードがないタブレットをPC代わりに使えないかと考えたが、問題は相変わらず入力方法。
ソフトキーボードも左指を使うことに変わりはないが、スマートフォン(以下スマホ)などでよく使われているフリック入力なら右手人差し指だけでよさそうだったので、この方式を試してみることにした。

 フリック入力はタッチパネルでの文字入力操作の一つであり、入力文字画面をタッチすると、その文字の四方に別の文字が表示されるので、指を滑らせて入力したい文字を選ぶ方式である。
 文章でこう書くとなにかややこしい方法のようだが、ケータイの文字入力画面を思い浮かべてもらえばいい。
ケータイの場合は数字と一緒に「あかさたなはまやわ」という50音の頭文字が表示されているが、その画面から数字を消した形になっている。



 ケータイの場合は「え」を入力するためには「あ」のボタンを4回押す必要があるが、フリック入力では「あ」のボタンをタッチすると、その四方に「い」「う」「え」「お」の文字が表示される。「え」は「あ」の右横に表示されるから「あ」をタッチした指を右に滑らすだけで「え」が入力できる。

 この入力方式を使いはじめてまだ間がないので、入力スピードはキーボードに敵わないが、多少のスピードダウンさえ我慢すればそこそこ使える。

 この入力方式の利点は特別なキー配列を覚えなくても済むことだ。またケータイやスマホと同じで1文字、2文字入力すると、その文字で始まる単語がいくつか連想表示され、その中から選ぶだけで文字入力できる。
 そういう意味ではキーボード入力より楽で速いともいえる。これならいままでPCが苦手だった中高年でも簡単に文章が書け、まさに中高年にこそピッタリの端末といえるだろう。



NEC Direct(NECダイレクト)
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WiFiタブレットを使い倒す。(1)

 いままでタブレットを多少バカにしていた。パソコン(PC)に比べると、あんなものはインターネットの閲覧とメールの送受信程度にしか使えないだろうと考えていたからだ。実際、私自身の使い方がそれにほかならなかった。
 ところが最近、案外使えると認識を新たにした。とりわけ中高年にとってはPCよりタブレットの方が便利だと。

タブレットは中高年向き

 タブレットの利点は

1.スイッチオンですぐ使えること

2.キーボード、マウスが不要なこと

3.軽量コンパクトなため利用場所を選ばないこと

4.比較的安価なことだ。

 しかし、これらはメリットであるとともにデメリットでもある。
特に2と3の項目は。キーボードやマウスが不要だと本体も設置スペースもコンパクトで済み、それがタブレットの大きな魅力でもあるが、こと操作性という点では著しく不便だ。

 文書等の閲覧には便利だが、文書を書くという点ではPCにはるかに及ばない。
コピーや貼り付けという作業一つとってもPCのようにはいかない。その操作だけでPCの何倍かの時間がかかる。
 それなら外付けキーボードを利用すればいいようなものだが、それではタブレットの魅力が半減する。また外付けキーボードを付けるぐらいなら11インチサイズのモバイルPCの方がいいということにもなる。

 3の軽量コンパクトを実現するために犠牲にされた部分も多い。
タブレットは基本的にインターネットに接続した状態で使うことを前提に作られているから、ネット未接続状態ではまず使えない(役に立たない)。データ等の記憶容量も少ない。

 早い話ネットに接続してなけれぱ「ただの板」で、PCと同じようには使えないし、PCの代わりと考えてはいけない。
 にもかかわらず、なぜ中高年にはタブレットがいいのか。

 私自身がタブレットを使って分かったことだが、この端末は閲覧向きだということ。
インターネットの画面を見たり新聞や電子ブックを読んだりするには便利なことこの上ない。

 軽くてコンパクトだから、どこにでも持ち運べるし、スイッチを入れればすぐ画面が出てくる。PCのようにスイッチを入れてから画面が出てくるまでしばらく待たされるということがない。

 私が最初に使ったタブレットはNexsus7。これは名前から分かるように7インチサイズ。片手で持つのにちょうどいい大きさで、持ち運びが苦にならない。
 言い換えればモバイルにピッタリということだが、生憎私の場合は外に持ち出して使うことはないから、もっぱら自宅専用。

 主な使い方はメールのチェックとインターネットの閲覧。
そしてこれが中心だが、新聞の閲覧である。

 新聞は紙をやめて、もっぱらタブレットを使い、ネットで読んでいる。各紙の専用アプリを使えば紙の新聞と同じ形で読めるので、パソコンよりはよほど読みやすい。かくして毎朝、タブレットのお世話になっている。まあ言ってしまえば、新聞を読むためにタブレットを使っているようなものだ。

 その程度の使い方しかしないならわざわざタブレットを買う必要はなかったのではないかと言われれば、その通りだろう。ちょいと興味本位で買ってしまったというのが正直なところ。これが2万円も3万円もしたなら買ってないが、1万6000円台になっていたから、この価格なら買って損はないだろうと、安物買いの錢失いになる危険性を承知しつつ買ってしまった。

 新聞専用程度にしか使ってなかったタブレットなのに数か月前、なぜか10.1インチサイズのタブレットをまた買ってしまった。それもアンドロイドのを。
 実はこの時Windowsタブレットを考えていた。同じアンドロイド系を2つ持っても仕方ないし、Windowsタブレットならパソコンとの親和性がいいからだ。ただ色々調べると操作性等でアンドロイドの方に分があった。外付けキーボードを使わなければ特に。






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