ストリートビューで考えること

 人は様々で、デジタルを喜ぶ人がいれば感心する人もいる。
その一方でデジタル社会を警戒する人もいる。
私は後者のタイプだが、デジタル嫌いのアナログ派ではない。
デジタルに接したのは決して遅い方ではない。
 
 初めてパソコンを買ったのはNECの98シリーズで、OSがMS-DOSの時代だった。
それまでもワープロ専用機(当時30万円近かった)で原稿を書いていたが、パソコンを買ったのは商業データベースに接続するためだった。
 当時、フロッピーディスクといえば8インチサイズで3.5インチはまだ出始め。
当然、パソコンも8インチのフロッピーディスクが主流だったから、私が3.5インチに対応したパソコンを買うと言った時、当時パソコンに詳しい人間からは半ばバカにされたものだ。
それでも絶対小さい方がいい。小さい方がやがて主流になるはずと考え3.5インチ用パソコンを買った。
 この選択は後に正しかったと分かり、私がパソコンを買って数年もたつとフロッピーディスクの主流は8インチから3.5インチに移って行った。

 ガジェット好きで、以来色々なデジモノを買ってきたが、この頃はむしろデジモノにある種の警戒感を抱くようになってきた。
デジタル社会はある意味丸裸と同じで、プライバシーはない社会と考えた方がいい。
街を歩けば防犯に名を借りた街頭セキュリティーカメラその他で撮影されているし、家の庭や、どうかすると室内で寛いでいる様子までgoogleによって撮影されている。
 それなのにこうした状況(プライバシーがない状態)を喜んでいる人たちもいる。
「アマゾンって偉いよね。こちらの趣味が分かっていて、読みたい本を自動的に提示してくれるんだよ」
「Facebookってスゴイですね。もう10数年会ってなかった友人を教えてくれたんですよ。この人は友人ではないですかって」
 彼らが喜々として話すのを聞き、私は逆に恐怖を覚えた。
ネットに接続している限り情報は常に筒抜けになり、誰かによって私の交友関係も、読書の趣味も、何を買っているか、休日にはどこに行っているかまで全て把握されている。
 こうした情報を「アマゾンやFacebookは親切」と喜ぶ趣味を私は持ち合わせていない。
逆に不気味さを覚えてしまう。

 スノーデン氏によるまでもなくgoogleは常に人々の行動を監視する役の一端を担っているが、googleの車が1日中通りの表と言わず裏と言わず、車が走行可能ならどんな細い道でも走り回り、360度周囲を撮影しまくっている。
しかも断りもなく自動撮影しているものだから、たまたまgoogleの車と擦れ違っただけで、ストリートビューに写り込んでしまい、全世界の人間に見られることになる。
歩行姿だけでなく、庭で花いじりをしている姿も、ステテコ1枚で水撒きしている姿も、時には大あくびをしている姿さえ写されてしまうのだ。

 たまたまスーパーに駐車した時、前からgoogleの車が入ってきた。
見るとランプが点灯しているし、エンジンはかかったままだ。
こんな所で写されたんではたまらんと、ドライバーに「いま撮影しているか」と尋ねると、「いや、いまは撮影していません」との返事。
どうやら昼食弁当を買いに寄ったみたいだが、ドライバーがいなくなってもエンジンはかかったままだ。
これで「撮影していません」と言われても、その言葉を100%信じる訳にはいかない。

 現段階では車が走り回って撮影するというアナログ部分が残っているが、やがて近い内にドローンを使って空中撮影に変わるだろう。
そうなるともう塀も囲いも何の役にも立たない。
家の中まで覗き見られることになる。




NEC Direct(NECダイレクト)LAVIE Direct HZ

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流通小売りの現場が変だ(3)~内向きの姿勢を正せ

内向きの姿勢を正せ

それにしても最近目に付くのは基本の「き」の字ができてないというか、疎かにしたが故に発生するミス。
ちょっとひと言添えさえすれば防げるのに、それを怠たったが故にミスになり、それがクレームにつながる。
あるいは問題を自分達のセクションだけで隠し全社的な問題として対処しなかったが故に後に大問題になり取り返しがつかなくなる。

 要はミスやトラブルに対する捉え方、それを後ろ向きの非生産的な問題と捉えるのか、早い段階で対処した方が逆にコストダウンにつながる生産的な問題と捉えるのかの違いだが、全社的な問題にはしたくない、できれば自分あるいは自分達のセクションだけの問題として密かに処理したいと考えるから隠す。
隠して事なかれとするから発覚した時は大問題になる。

 結局そこにあるのは内向きの姿勢。
いま、この瞬間さえ逃れればいいと考える刹那的な姿勢が、この世を覆っている。

 三菱自動車の燃費不正問題も2005年に新人社員が不正行為をやめるよう提言していたにもかかわらず、当時の上司、幹部達が処理せず頬かむりを決めたから、いま屋台骨を揺るがすほどの大問題になった。
もし、あの段階で不正をやめ、全社的な見直しをしていれば日産自動車の傘下に入らずに済んだかもしれない。

 ミスや事故の大半は基本を怠ることから発生する。
先頃、長崎バスで乗務前の呼気検査で基準値を超えるアルコール分が検出されたが、この運転手、あろうことか家族を呼び、その家族に再検査の際、身代わりで検査を受けさせパスしてバスを運転していたという。

 乗客を乗せた飲酒運転バスが走っていたわけで、聞くだけでも恐ろしいが、問題は同社の体質である。
二度目の呼気検査の際、立ち会いの検査官が身代わりを知りながら、そのことを黙認していたのだ。

 さらに同社は前7月にも別の運転手が呼気検査の際、後輩を身代わりにして検査を受けさせ、酒気帯びのまま乗務していた問題が発覚したばかり。
ここまでくると身代わり検査は日常的に行われていたとしか言いようがない。

 しかも、この種の問題は全国の公共交通機関で起きているから恐ろしい。
「見つかる奴は運が悪い」「見つからなければそれでいい」という考えが横行している。
ここまでくればルールも倫理もなきに等しい。

 代わりの運転手がいない、人員に余裕がないから多少問題がある人間でも乗務させざるを得ないでは、乗客はたまらない。
大型バスは経験不足で乗務できないと言ったにもかかわらず運転させられ、死傷者を出したスキーバスもあった。
いずれも基本をきちんと守りさえすれば防げた事故だ。

 コストダウンしなければ受注競争に生き残れないと言うなら、それを逆手にとって情報発信してみてはどうだろうか。
 事故率ゼロとか、運転手の乗務履歴、メンテナンス履歴の公開で安全性をアピールするとか。
 コスト以外の競争をすることで、コスト競争による負のスパイラルから抜け出す方法を探ることも重要ではないか。

コスト削減で人も企業も余裕がなくなる

 「お・も・て・な・し」は外国向けのPRだとしても、一体いつ頃から日本のサービスは消えたのか。
なんでもコスト優先になり、メカニカルサービス部門の人員削減、メンテナンス部門は地方都市から軒並み撤退している。

 例えば福岡市を見るだけでもパナソニック、シャープ、キャノンなどはかつて置いていたメンテナンス・サービス部門を廃止している。
カメラメーカーでは最後までニコンがショールーム兼サービスを駅前に置いていたが、それも廃止。
当然、シワ寄せはユーザーに来るわけで、カメラ本体の内部クリーニングのようなことでさえ本社のメンテナンス部門まで送らなければならず、本来なら1時間もあれば余裕で終わるメンテナンスが数日間を要するようになった。

 さらに深刻なのが人員削減の影響で、どの部門も余裕がなくなり自分の仕事、目先の仕事しかできなくなっていることだ。
目が外に向かない上に、社内教育、サービス教育は削られるか、形だけのものになっている。
事故が起きると必ず「教育を徹底」と言うが、そこにコストをかけるよう体制を見直さないと、単なる教育だけで直るものではない。

 その点、小売業の方はまだ教育効果が出やすい。
実は先の明太子販売店の前に車を止めた時、雨が降っていた。
小降りならそのまま店内に駆け込むのだが、さすがに傘なしでは濡れてしまう。
店内から手持ち無沙汰にこちらが車を止めるのを見ている販売員がいた。

「ああ、これが帝国ホテルなら傘を持ってすぐ来るのだろうが、ここではそこまでのサービスはしないだろうな。すれば感動するのだけど」

 そんな会話を2人でしながら傘を取り出し車から降りて店に入った。
店の前に車を止めれば自店に来る客だと思わないのだろうか。
結局、店内の誰もが客とは店という境界に一歩足を踏み入れた人という概念を持っているからだろう。

 イオンも似たり寄ったりというか、客に対する警戒心は同店の方が強いかもしれない。
上記の件について店長宛に優しくお手紙を出しておいたところ、店長から私の指摘通りで「すべては弊社のミス」で「これを機会に、従業員一同お客様に接するマナーを再教育いたして参ります」という手紙が届いた。

 まあ昨今、客からの苦情に一々対応して顧客サービス担当課長が出向いていると、相手がとんでもないクレーマーで何を要求されるか分からない、だからこれで良し、一件落着としようという気持ちはよく分かるし、それが正しい対応かもしれない。

 ただ、私が逆の立場なら、せめて割引券の1枚でも同封しただろうと思う。
割引券というのは店で買ってもらわなければ使えないのだから、店にとっては損失にならず、客は喜ぶ両得の手ではないか。

 苦情や注意をしてくれる客を店のフアンと考えるのか、厄介なクレーマーと見るかで対応にこれほどの違いが出るか、昨今小売業は客を「顧客」ではなく「固客」と呼び、客の囲い込みに熱心だが、結局それらは文字の上だけのことのようだ。
ほんの少し視点を外に向けさえするだけでいいのに、内側にしか向いていないから見えるものも見えなくなる。







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流通小売りの現場が変だ(2)~画竜点睛を欠いたイオンの対応

画竜点睛を欠いたイオンの対応

 明太子専門店を出た足で今度はイオンに向かった。
両店とも玉串料返しの贈答品選びである。
イオンはギフトコーナーがあったのでそちらで色々選び、カウンター前に腰掛けるとアルバイトと思しき若者から次のように言われた。

「以前に当店をご利用いただいていますと記録が残っていますから、お電話番号を知らせいただけるとすぐ記録が出せますが」
「いや今回初めてだから」
「かしこまりました。では、こちらの用紙にご記入をお願いいたします」

 そうそう、これだよ。なぜ、この程度のことが先の店では言えなかったのか。
マニュアルは最低限の基本だから、まずマニュアル通りの応対を身に付け、そこから臨機応変な対応をさせるように教育すべきなのに、マニュアル否定だけでは教育放棄と同じことだなどと思う一方、さすがはイオンと感心していた。

 最初の対応がスムーズだと後も順調にことが進む。
ただ一箇所、滞ったのは熨斗の表書きに話が及んだ時だった。
「表書きはいかが致しましょうか」
「『偲び草』にしてくれる」
 と、ここでそれまでのスムーズな流れが一時中断し、なにやらしきりにタブレットやPCを操作している。

 やがてそのコーナーの責任者と思しき男性が「申し訳ありません。以前(ダイエー時代)は偲び草の文字もあったのですが、イオンになってからなくなっているようなのです。なにか他の言葉でもよろしければ・・・」
「えっ、『偲び草』がない。そんなに特殊な言葉ではないよ。神式では普通に使う言葉だけどないなら仕方ない。『志』でいいよ」
「申し訳ありません。今度作るようにと提案しておきます。こういうお客様からの要望が大事ですから」

 うちは神道だから仏式のやり方には詳しくないが、仏式では「満中陰志」と書くことが多いらしい。「偲び草」は神式、キリスト教でよく使われるが、そのこととは別に、私はこの言葉が気に入っている。故人を偲んで贈ります、偲んでいただきありがとうございましたという思いがこの言葉に込められていると感じるからだ。

 とまあ、イオンの対応に満足しながら店を後にしたのだが、実は後日談がある。
その月の25日過ぎからお礼の電話がかかってきだしたのだ。
最初の電話は意味が分からなかった。
「結構な物を頂きありがとうございました」と言われても、それが玉串料返しの品が届いた礼だとは分からず、思わず「何の話ですか」と聞き返したほどだ。

 こちらが送ったのは月の初めだから、とっくに届いていると思っているし、なにかその他に送っただろうかと首を傾げたが、やはり玉串料返しの礼だと分かり、今度はビックリ。
なぜ、今頃? 配送に20日以上もかかるだろうか。
なんらかの理由でこの1軒だけ遅れたのだろうと思っていると、その翌日から同じような電話が数件あった。
どうやらイオンで発注した商品のみ20日以上遅れて発送されたようだ。

 なぜ、こんなことが起きたのか。考えられる理由は次のような点だろう。
1.店頭、配送センター共に在庫がなかった。
 これは考えられないことではないが、注文時に店頭に商品があるのを確認していた。送り先は複数でそれぞれ違う商品を贈っているから、一律に配送が遅れたことは考えられない。

2.ギフトコーナーの配送自体が同月下旬からだった。
 これが最も考えられる理由で、そう考えると整合性がとれる。ただ、これは同店に確かめてみないと分からないことだが。

 仮に2の理由で配送が遅れたとしよう。それでも疑問が残る。
カウンターでのやり取りで「偲び草」だということは伝えてあるし、その時の会話から担当責任者も「偲び草」の内容を理解している。

 であれば配送が下旬からなら、その場で「○○日からの配送になりますが、それで構いませんか。ギフトコーナーではなくサービスカウンターでの受け付けなら通常通り2、3日で先方にお届けすることができますが、いかがいたしましょうか」とひと言告げさえすれば大幅な配送遅れというミスは防げたはずだ。
 せっかく対応のよかったイオンだが画竜点睛を欠く対応になったのは残念だ。




マカフィー・ストア

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流通小売りの現場が変だ(1)~老舗明太子店の接客に驚く

 このところ流通小売りの現場が変だ。
変なのは小売りに限ることではなく、人が関わる、あらゆる現場が変だ。
人より機械の方がよほどマシな接客をしてくれると思うことがしばしばある。

 例えばATM(現金自動預け払い機)は操作を自動音声で丁寧に案内してくれるし、「いらっしゃいませ」と挨拶してくれる、飲み物の自動販売機まである。
 一方、人間の接客はどうだ。
まるで口を開くとコストがかかるかのように無口で無愛想。
客と目を合わせることさえない、と言うのはさすがに言い過ぎで、最近では機械に負けない程度に喋りはするが。

 しかし、人と機械が接客対応、処理能力が同じなら、なにも人である必要はない、と言いたくもなる例に最近遭遇した。

マニュアルがない弊害も

 「お電話番号は何番でしょうか」。
某明太子販売店のカウンター前に腰掛けると、モタモタとした動作でPCを開きながら、いきなりそう言われた。
「えっ、誰の番号を聞いている? 俺の? なぜ」

 とにかく、物を買いに行っていきなり電話番号を、何の前振りもなく聞かれたのは初めてだ。
 これがもし、うら若き女性からなら多少鼻の下を伸ばしたかも分からないが、年齢からすれば経験を積んだと思われる女性販売員から、いきなり電話番号を聞かれれば誰しも訝るに違いない。

 その後、2、3やり取りして、やっと相手の意図を理解した。
要は過去に当店を利用したことがあるお客様ならデータがあるので、今回改めて紙に住所その他を書いてもらう手間が省けますから、登録している電話番号を教えて下さい、ということなのだ。
それならそのように言えばいいのに、いきなり「電話番号は何番ですか」と来るものだからおかしくなる。

 一体この会社の社員教育はどうなっているのか。
社員教育以前に、最低限の接客対応はどこの会社でもマニュアル化してあるはず。それもしてないのか。

 そういえばマニュアルによる一律の接客ではなく、心のこもった対応ができるように、マニュアル教育は導入していないというようなことをトップが語っていたような記憶があるが、それは記憶違いかなどと考えながら、小さな声で「新人か?」と尋ねた。
もちろん嫌味である。
するとどうだ。「はい」という返事。
この時ばかりは「マジかよ」と今時の若者風に言いたくなった。

 で、その後は挽回すべきテキパキとやるのかと思えば相変わらずダラダラとPCを操作している。
どうやら思った画面が出ないようなのだが、次の瞬間、思わぬ行動に出た。

 さっと立ち上がり「替わって下さい」と言ったのだ。
こういう場合、普通は周囲の同僚か上司を見て「済みません。どうも操作がうまく行かなくて。替わってもらえますか」と言うものだ。
 ところがこの販売員、そんな素振りも見せず、いきなり立ち上がり、誰に言うともなく「替わって下さい」と言ったのだから、こちらは呆気にとられた。
目の前の客を無視した無礼極まる態度に「なんだ君は!」と怒ることさえ忘れ、口ポカーン状態だ。

 ところが、その直後、側に居た別の販売員が何事もなかったかのようにスッと座り、実にテキパキとした動作でやり取りをするものだから、こちらは席を立って帰るのも忘れ、そのまま注文を終えたものの、いまどき珍しく接客態度の悪い販売員だった。

 それにしてもなぜ、このような販売員がいるのか。
採用時の面接で見抜けなかったのか、それとも面接自体がいい加減なのか。あるいは採用後の教育が全くなされていないのか、人手不足でとにかく応募してきた人間を採用せざるを得なかったのか。

 この会社、老舗の明太子専門店として有名な会社で福岡市とその周辺に直営店を何店舗も展開しており、先頃、創業者の一代記がTVドラマ仕立てになり放映もされた。
常日頃メディアで女性の活用や社員教育にも熱心とトップは語っていたが、現場の実態はあまりにも差があり過ぎた。

 蟻の一穴という言葉もある。看過して堤が崩れないようにしたいものだと、他人事ながら思った次第。



 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
  http://archives.mag2.com/0000138716/20160808104900000.html


 「栗野的視点」はリエゾン九州のHPにも収録しています。




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福岡銀行をかたる偽メールに注意!!

緊急の注意情報!!

福岡銀行(?)名で下記のようなメールが届きました。

福岡県内の方はほとんど福岡銀行と取引があるのではないかと思いますから、ご注意ください。
フィッシングメールですから、福岡銀行を名乗るメールが届いてもクリックをしないように!!

 偽メールの文面は以下のようなものです。

************************************************************************
         福岡銀行Eメール配信サービス
************************************************************************

2016年「福岡銀行」のシステムセキュリティのアップグレードのため、貴様のアカウントの利用中止を避けるために、検証する必要があります。

以下のページより登録を続けてください。
https://direct.fukuokabank.co.jp/0177/B/B/B/C100/KBC11BN000B000.do

            ☆

 上記メールが先程、私のアドレスに届きました。
タイトルは「福岡銀行メールアドレスの確認」となっていました。

 思わずクリックしそうになりましたが、止めました。
いままでのフィッシングメールは都市銀行名をかたるものがほとんどで、地方銀行名のものは少なくとも福岡ではなかったと思います。
それだけに騙されそうになりました。

 こういう場合の方法はまず福岡銀行のHPを別途検索して、トップページ、あるいはトップページから「お知らせ」を見ることです。

案の定、トップページに「緊急のお知らせ」として載っていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日、福岡銀行をかたる偽メール(フィッシングメール)が不特定多数のお客様あてに送信されています。
偽サイトへ誘導し、お客様情報を盗み取る等の不正を行うものと推測されるため、偽メールを受信された方はメールを削除し、偽サイトへアクセスしないようにしてください。
ふくぎんインターネットバンキング会員のお客様で、万が一、偽サイトへアクセスしてしまった方は、下記あてにお電話ください。
  0120-788-321
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 福岡銀行をかたる詐欺メールは本日(8/19)から配信され始めたようですから、皆さんの所にもすでに届いているか、今後届くと思いますから注意して下さい。
 私の所には12時10分頃届きました。

 再度、繰り返します。
くれぐれも書かれているHPアドレスをクリックしないように!!

 以上、緊急のお知らせでした。



ノートンモバイルセキュリティバナー

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買って失敗したタブレット

 タブレットは薄くて軽く、使う場所を選ばないのが利点。PCのようにデスクトップやラップトップ以外でも、寝転んでいても、片手持ちでも、とにかく使う場所を選ばない、フリースタイルで使えるのがいい。
 またPCに比べれば安価でもある。もちろん10万円を超えるようなものもあるが、PCでしていたこと全てをタブレットに置き換えるのではなく、ネット閲覧、メールの送受信、ちょっとした文書の作成程度ならタブレットで十分というか、結構役に立つ。
 よって、この程度の使い方をするなら3万円前後のタブレットで十分ということになる。画面が7インチサイズのものなら2万円を切る価格で買えるし、約10インチサイズでも4万円前後だろう。

 だが、デジタルもの(デジモノ)が怖いのはモノによって当たりハズレがあることだ。あまり安いものも不安があるし、かといって高ければ安心というわけでもない。安ければ多少の不具合でも諦めがつくが、高ければそれ相応の品質を求めるから、不調、不具合なものを掴まされると腹も立つだろう。
 また一概に海外製(例えば中国製)のものが低品質というわけではないし、国産だから安心というわけでもない。
 中国産のタブレット、スマホの品質は日進月歩で向上しているし、国産でも内部の部品はほとんど海外製だし、なかには製品化まで海外で行い、国産というのはブランドだけというものも多いからだ。これはベンチャー系に限らず、日本を代表する大手メーカーでも同じことだ。

 少々前振りが長くなったが、以下、最近買って失敗したタブレットの話を。
今年の初めに約10インチサイズのタブレットをヨドバシドットコムで買った。注文したのは1か月前。ところが在庫切れで届くのに1か月かかった。別にヨドバシでなくてもよかったから他もあたったが、店頭・ネットを含めどこも入荷待ち状態。
 理由は不明だが、NECブランドの10インチタブレットが売価3万円少々。しかも発売後1年未満だったから、私と同じくお買い得と考えた人が多かったのかどうか・・・。
 実はタブレットは2台目。WiFi専用のNexsus7を使っていたから、すぐ新しいのが欲しいというわけでもなく、またとりわけ何かで不自由しているわけでもなかったから、キャンセルもせずに待った。

WiFiが頻繁に切れる

 Nexsus7はGoogleブランドだけあり、Androidのバージョンは自動的にアップされていたし、片手持ちができるなどとても使い勝手がよかった。それなのになぜ同じAndroidタブレットをということだが、長年、キーボードを打ち過ぎで左手小指が腱鞘炎で伸びなくなり、いまでは左手は人差し指だけの1本打ち。
 そこでキーボードを使わずにフリック入力で文章を書くように方向転換を考えたというわけ。そのためには当然画面が大きい方がいい。そう考えている時にたまたまNECタブレット(PC-TE510BAL)が3万円台前半になっていたから、この価格ならと購入した。

 購入後、数か月はなにも問題なかった。価格ドットコムなどでWiFiがよく切れるという書き込みを見てはいたが、それも起こらなかったので個体差があるのだろうぐらいにしか考えていなかった。
 ところがである。今年6月頃から頻繁にWiFiが切れるようになりだした。タブレットの電源を入れ直すまでもなく、WiFiを接続し直せば問題ないのだが、WiFi接続が切れたのか、接続に時間がかかっているだけなのかが分からないから困る。

 上記タブレットは5GHzと2.4GHzの両方に対応しているが、5GHz接続の方がすぐ切れるので、その度に2.4GHzの方に繋ぎ直している。ルーターも5GHzと2.4GHzの両方に対応しているタイプだが、もしかするとルーターの問題かもと思い、ルーターを別のものに替えてみたが結果は同じ。ということはやはりタブレットの方に問題があるということだ。

OneNoteも頻繁に落ちる

 まあ、多少のことなら我慢するが、WiFiの切れ方があまりにも頻繁過ぎる。これだけならまだ我慢できないことはないが、最近「OneNote」がうまく起ち上がらなくなった。あるいは「OneNote」の「ノートブック」を切り替える度に落ちる。
 「OneNote」の問題かと思い、同じ「OneNote」をスマホで開いてみるが全くそんな現象は起きない。やはりNECタブレット(PC-TE510BAL)の問題だ。
 こうなると少々価格がお買い得と言っても、「買ってはいけない残念なタブレット」と言わざるを得ない。
 で、いまは何を考えているかといえば、8インチサイズタブレットか、Windowsタブレットに買い替えること。AndroidならNexsusがベスト。ただNexsusブランドは価格が高いので型落ちを狙うか、ASUSかLG製(ともにNexsusブランドで出した経験がある)。またはWindowsタブレット。ただタブレットの操作性はAndroidの方がWindowsよりは数段(?)なので、Windowsタブレットがもう少し使いやすくなるまで待つか…。












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社会の内向き化がもたらす危険性(3)~社会の内向き化で増える犯罪

社会の内向き化で増える犯罪

 社会の内向き化は内界の拡大(外在化)により内と外との境界の消滅を招いているが、その結果、人々の欲望と我が儘も拡大し、それが犯罪を生む一つの要因にもなっている。
 昨今の犯罪の特徴は短絡的、衝動的、無差別的、自暴自棄的、殺人目的的といえる。
一昔前なら考えられないような理由、例えば「急いでいたから邪魔だった」とホームに突き落としたり、「死刑になりたくて」「人を殺せば死刑になると思ってやった」「誰でもいいから人を道連れにしたかった」「人を殺してみたかった」「いらいらしていた。誰でもいいから、はねてやろうと思った」という自暴自棄型・殺人目的的な犯罪が目に付く。
 性犯罪に至ってはもっと短絡的で、前を歩いている女性をいきなり押さえ付けて乱暴した(しようとした)という、自分の欲求を満たすためなら時間も場所も相手も構わない犯罪が増えている。

 欲しいものはすぐ手に入れたい。
内・マイスペースでは望めばすぐ手に入ったし、我慢する必要もない。
だから即自的に行動する。
自分がいまいる場所=マイスペース(内)だから、なにも我慢する必要はない、という思考だ。

 彼らが内と認識した場所は実は境界の消滅による内の拡大認識スペースであり、本来の内ではないのは言うまでもないが、彼らにはその区別がついてない(曖昧だ)。

 いま世界中で「ポケモンGO」というゲームが流行っているが、このゲームほど境界の消滅を端的に示したものはない。もはやどちらの世界が現実かバーチャルか分からないし、どちらの世界が現実でも構わないという風潮は今後ますます広がっていくに違いない。
 そして「ポケモンGO」がらみの事故は間違いなく増えていく。
いくら事前に広報したり、注意を促しても決して減りはしないどころか加速度的に増えていくだろう。
そして「ポケモンGO」がらみの犯罪も。

世界が内向きになっている

 問題はこうした傾向が世界規模でほぼ同時に起きていることだ。
70年代初頭までの世界の潮流はインターナショナル(国際的という意味で使用)だった。
民族、国家を超えて世界中が手を取り合おうという、それこそグローバル(地球規模での連帯)を志向していた。
だが、それ以降、世界は民族主義が支配するようになり、その傾向は年々強くなっている。

 最初にそれが現れたのは共産圏諸国であり、民族を超えた国家、連邦制の崩壊が起きた。
続いて発展途上国でも民族主義がさらに強くなり、それまでの枠組みを超えた新たな結束を求める動きと
なって現れている。

 いずれにしろ世界は団結、連帯といった外向きから、ひたすら自国内の利害のみ考える内向きに変わりつつあるが、すでにアメリカとヨーロッパの、いわゆる先進国の最大関心事は内向きになっている。
それを象徴しているのがイギリスのEUからの離脱であり、アメリカのトランプ旋風だ。
イギリスのEU離脱はない、というのが当のイギリス国民を始め世界の大方の見方だったが、それは現実になったし、トランプ氏が大統領候補になることはないという大方の見方も覆され、トランプ大統領誕生が1/2の確率で現実になってきている。

 いわゆる先進国が保護主義的な動きを強めているのに対し、発展途上国の方はより強く内向きベクトルが働き、従来の国家の枠組みを壊し、民族という枠で再構築しようとしている。
 ここで働いているのは内向きベクトルだが、現象的にはベクトルは外向きに働いているように見えるだろう。
内への求心力が強大になると、円の周辺部では膨張、拡大が起き、外向(攻)的な力が働いてくるからである。
象徴的な動きは習近平の中国であり、南シナ海での「九段線」主張に現れている。

 このところ同じ言葉が繰り返し浮かんできては頭を占めている。そして今回もまた。
 我々はどこへ行こうとしているのか--。



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なぜ、鳥越候補は都知事選に敗れたのか

 いよいよ東京都の新しい顔が31日に決まる。誰が都知事になるのかはまだ分からないが、事前予想に反し、野党統一候補の鳥越俊太郎氏が都知事になることはまずなさそうだ。
 ちょっと気が早いが、鳥越氏の敗因分析をしてみよう。

1.準備不足の立候補

 「究極の後出しジャンケン」と小池候補から言われたように、ギリギリになっての立候補宣言はプラスではなくマイナスに働いた。
 マイナスの最大要因は準備不足で、そのことが選挙戦を通じて最後まで響いたようだ。
 「準備のない戦いはしない」というのは戦いの基本である。仮に立候補の意志を固めていても、周囲にそのことを覚られず密かに準備をし、立ち上がったら一気呵成に攻めるのが戦いの極意と孫子は説いている。
 そういう観点ではギリギリの立候補宣言は奇襲にも似て、相手陣営に打撃を与えるに充分なものだが、それも準備あってのことだ。
 ところが鳥越氏の場合、その後の会見を見聞きしても、以前から準備していたとはとても思えず、なんの準備、志しもなく突然立候補を「思い立った」ようにしか見えない。実際、本人も参院選の結果を見て、このままではいけないと立候補を決意したと言っていた。
 問題は彼の危機感に都民が共感できるかどうかであり、それは立候補に至る動機を都民が理解・納得し、共感できるどうかだ。残念ながら鳥越氏の動機を共有できる都民はそれほど多くはなかったようだ。

2.都政と国政を混同した動機

 最も重要なのは立候補の動機だが、鳥越氏の場合「安倍政治にノー」という反アベ。たしかに現在の政治情勢に対し危機感を抱く人は少なくない。ひたすら戦争への道を突き進んでいるという見方はあながち間違いではない。大きな変化は常に小さな変化から起こるし、それを見過ごすか、そこで警鐘を鳴らすかは国の将来を左右する重大な問題である。
 としても、それは国政の問題である。もちろん都政も無関係ではないというのもよく分かる。ただ、その危機感を都民が共有してくれるかとなるとかなり疑問だ。
 多くの都民はもう少し目先の、都政をどうするかを語って欲しいと思っている。ところが、その点が鳥越氏には欠落している。選挙戦の後半、追い込みになってやっと都政の具体論を語り始めたが、すでに時遅しだ。
 もし彼が都知事選でなく、先の参院選に現在のスローガンを掲げ立候補していたならほぼ間違いなく当選していただろうが、都知事選という地方行政のリーダーを選ぶ選挙ではあまりにも抽象的に聞こえる。
 抽象的に聞こえるということは政策の中身がない、具体的な政策を考えていないということであり、それは弱点になる。

3.選挙戦術のミス

 鳥越氏は事前準備なく選挙戦に入ったから、本来なら選挙戦前にやるべきことを選挙戦突入後も続け、そのことで他候補と違った戦い方、鳥越氏の個性を際立たせようとしたが時間がない中での戦い方としては他の戦術的戦いの方を優先すべきだったと思われる。
 個別施設訪問を優先し、街頭立会演説が他候補より極端に少なかったのは知名度アップと、具体的な政策の中身を聞きたいと思っていた有権者の期待に充分応えられたとは言い難いだろう。

4.真剣さで他候補に負けていた

 上記選挙戦術のミスと関係し、鳥越氏の演説、動きをTVで観ても、他候補、とりわけ小池氏、益田氏に比べ真剣さに欠ける嫌いがあった。野党連合という組織戦の力を過大評価したのかどうか分からないが、浮動票は案外候補者の熱意、真剣さで動くものでもある。
 とにかく熱意・真剣さでは他の2候補に圧倒的な差を付けられたのは間違いない。

5.知名度を優先した野党共闘のミス

 野党共闘ができたのは選挙戦ではプラス要因だったが、民進党の一致団結、真剣さが欠けているように映ったのはマイナス面だ。
 短期決戦ということから知名度優先で候補者選びをしたのだろうが、その過程でも二転三転フラフラしている印象を都民に与えた。
 また都民が今回の都知事選で求めた新リーダーに対する期待を読み間違えたようだ。いままでのように知名度が高い人より、しっかりと都政を担ってくれる人を今回は選びたいと考えていたにもかかわらず、知名度にこだわったのは野党の失敗だ。
 具体的な政策、真面目そうな人柄という点では宇都宮健児氏を野党連合候補として応援した方がよほどよかったのではと思うが、後の祭りか。

 さて、接戦と伝えられ、開票も行われず、結果も明らかになってない中で、結果予想をし、敗因分析を勝手にしてみたが、結果はどうなっているだろうか。大外れか、それとも予想通りに鳥越氏敗北で終わったか--。
         (この原稿は31日10:30メルマガで配信したもの。ブログへのアップは投票が締め切られた直後にした)







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社会の内向き化がもたらす危険性(2)~想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

内界の拡大による境界の消滅

 社会の内向き化は最初は内のもの・ことを外に持ち出すことから始まった。
つまり内の外への拡大であり、どこでも自分がいる場所・空間を内と認識する内界の外在化である。
そしてそれは内と外との境界の消滅を意味し、このことが我々が住んでいる社会のみならず世界に大きな変化をもたらしつつあることは注意を要するし危険でもある。
しかし、それにどれほど多くの人が気付いているだろうか。

 大きな変化は常に小さな変化、取るに足らないような変化として最初現れる--。
社会の内向き化も最初は自分の好きなことを外に持ち出す、屋内でしていたことを屋外でもするというような現象として現れた。
例えばウォークマンで歩きながら音楽を聞いたり、携帯電話でどこでも大声で電話したり、自家用車内で化粧をする等の行為として。
 こうした行為に違和感を感じていたのは大人達(古い世代の人達と言い換えてもいい)だが、次第に彼ら自身も波に呑まれていき、内の世界を外に拡大していき、車内で化粧をする程度のことにはほとんど違和感がなくなりつつあり、なんの臆面もなく行い出している。
さすがにまだ公共交通機関内でそういうことをする大人は数少ないが、近い将来それもなくなるかもしれない。

かくして内界の拡大はどんどん進み、内と外との境界が消滅しつつある。
あらゆるものは一度消滅しかけると加速度的に進んでいくが、境界も例外ではない。
例えば壁が壊れたことで、善きにつけ悪しきにつけ、それまでの社会の秩序、道徳といったものまでもが一緒に壊れていくように、音を立てて、いや音もなく境界が消えていき、内界の外在化が加速度的に進んでいる。
そう、それはあらゆるものを呑み込み、さらに拡大しているのだ。
 このことは他者と自者(己)の区別をも消滅していき、他を自の境界内部に取り込んでいくことで、自つまり内の境界が外に拡大している。

 内と外の境界の消滅は内界の外在化だが、あらゆるベクトルは逆に内に向かう。
内界の拡大だからベクトルは外に向かっていると考えるかもしれないが、その逆だ。
本来、外にあるものを内に取り込むことで、内側が膨れ、自然に拡大しているわけで、積極的に外界を侵略しているわけではない。
 例えばいつも自分がいる空間、マイスペースを外に持ち出しているだけで、そこが車内だったり、バスや電車だったりするだけだから、それを外とする認識がない。
外界ではなくマイスペースとの認識だから、車内やバス、電車の中で化粧をするのは自分の部屋で化粧をしているのと同じであり、そこには何ら違和感がない(と彼らは感じている)。
かくして内はどんどん広がっている。

想像力の欠如と犯罪抑止力の低下

 内界の拡大は我が儘と不寛容の拡大を生む。
人はマイスペース内では我が儘を通すことができる。
例えば食事をしてもしなくても、何を食べようと、何時に寝ようと自分の意のままだ。
 インターネットに接続しさえすれば、自室に籠っていても外界の情報は入手できるし、ピザでも丼ものでも食べられる。
生身の異性と付き合うのは金も時間もかかるし、会話するために相手と話を合わせなければならないが、ネットの中の世界には幼顔で体だけはグラマラスな女性(少女と言ってもいいような)がビキニ姿やミニスカート姿で微笑みかけてくるし、ヌードやSex写真は溢れ、果ては人妻の浮気話、不倫話がこれでもかというほど載っている。

 早い話、ネットの中の社会はなんでもあり状態で、日常的にそうした社会に接していれば、それが現実、女性とはそうしたものだ、と思い込んでくるだろう。
ましてや生身の異性と交際した経験が少なければ。
かくして歪な女性観を持つことになる。

 彼らにとってはネットの中の社会こそが「ホンモノ」で、現実世界は「リアル」という「仮装」社会である。
ここではバーチャルとリアリティの逆転現象が起きていると同時に、「現実」世界と「仮装」世界という構図が出来上がっている。
 つまり彼らは「現実(実際はバーチャル)」世界の住人であり、この世では仮装して生きているという意識構造の中にある。
 これは現実と仮想現実の逆転認識というより、境界の消滅からくる「現実」認識である。
2つの世界の境界が消滅したことによる不連続の連続認識と言ってもいいだろう。

 犯罪を考えることと、それを実行することとの間には大きな壁がある。
一度や二度ぐらい、伴侶や親の首を絞めたいと思った人はいるに違いない。
だが、そう思うことと、実際の行動に移すこととの間には大きな壁があり、ほとんどの人はそれを行動に移すことはない。
そこに抑止力が働くからだ。

 では、何が抑止力となるのか。
想像力である。
その行為を行った後のこと、後に起きる様々なことを想像することで人は思いとどまれるのである。
私にしても、怒りに任せて相手を殴ってやろうかと考えたことは一度や二度ならずある。
そんな時、決まって頭に浮かぶのは翌日の新聞紙面だ。
こんなこと(ちょっとした暴力沙汰とかセクハラ)で新聞に名前が載るのは嫌だ、と思う。
だから思いとどまる。
しかし、想像力が欠如していると、この抑止力が働かない。

 最近、両親、家族を惨殺する犯罪が目に付くが、両親がいなくなれば嫌な小言を言われたり怒られたりしなくて済むから、せいせいする、これで嫌なことがなくなったと感じるのかもしれないが、その後に待っていることを想像すれば冷静にならざるをえないだろう。
 家族がいなくなれば、その後の長い人生を自分一人で過ごさなければならなくなる。
その時、生活(費)はどうするのか、どこに住むのか、周りからどんな視線を注がれるのか、今後一人で本当に生きていけるのか・・・。
ちょっと思いを巡らすだけで抑止力になるはず。

 想像力は人間が持っている素晴らしい能力の一つで、ほかの生物と異なる点である。
想像力を駆使することで我々人間は数々の技術、製品を生み出してもきた。
それなのにいつから想像力をなくし始めたのだろうか。

 想像力の欠如と社会のデジタ化は無関係ではない。
コンピューターの普及が情報の汎用化を進め、携帯端末の普及で消滅スピードは加速度的に増していった。
いまや想像とか思考は検索という言葉に変わり、人々は考えるより手っ取り早く検索するようになっている。
掌の中にある小さなツールが万能の神であり、「これさえあれば、なにもいらない」だ。


 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
  http://archives.mag2.com/0000138716/20160724230919000.html


 「栗野的視点」はリエゾン九州のHPにも収録しています。








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社会の内向き化がもたらす危険性(1)

 社会が内向きになりだした--。
そう感じ出したのはもう随分前、40年も前のことだ。
その当時は内向き社会がもたらす危険性をまだ十分に認識していなかった。
ただ、なんとなく社会や他者への関心が薄らぎ、自分の手が届く範囲のことが最大関心事になってきているようだという認識程度しかなかった。
 その後、内向き化現象は加速度的に進み、いま、人々の関心は自分自身と、掌の中の世界にしかないように見える。
この先に待ち受けているのは一体何なのか。
我々はどこへ行こうとしているのか--。

「反体制」から「マイン」に

 40年前にはスマホはもちろん携帯電話も温水洗浄便座も、ウォークマンもなかった。
車は「ケンとメリーのスカイライン」の時代だ。
当時、生まれた子供はいま40歳。
本来なら不惑の年齢だが、いまは8掛けか7掛け(精神年齢的には7掛けだろう)年齢としても身を立てる年齢である。
 ところが現実はどうだ。
50歳でも不惑どころか迷いの真っ最中。
70歳でも80歳前でも枯れるどころか元気一杯。
それはいいことだが、「生き仏」と言われながらセクハラで訴えられるようでは呆れ果てる。
週刊誌が「死ぬまでSex」という特集を組むくらいだから、近頃使うのは頭ではなく下半身ばかりのようだ。

 それはさておき、社会が内向きになってきたと初めて感じたのは井上陽水と荒井由実の歌だった。
「世は歌につれ、歌は世につれ」と言われるように、歌は当時の世相を色濃く反映している。
だから両者の思考が、というより時代が内向きになりだしたことを敏感に感じ取った彼らが、それを歌詞にしたわけで、彼らの感性の鋭さには敬服するばかりである。
 それにしても荒井由実氏の一連の歌詞には大いに驚いた。
なかでも「ルージュの伝言」の「ママに叱ってもらうわ」という下りには仰け反った。
「おいおい、結婚した、いい大人がママに叱ってもらうだって。自分で直接、旦那に言えばいいだろう」と思ったものだ。
いまでもこの歌を聞く度にそう思う。
よくもまあ、こんな歌を歌えたものだ。
松任谷由実氏はいまでもこの歌を歌えるのだろうか、それとも荒井由実だから歌えたのだろうか、と。

 同じような変化はファッションの世界でも起きていた。
ファッションの主題が「マイン」になっていった。
「マイン」つまり「自分」である。
それまで(60年代後半70年代)のファッションは「反体制、反秩序」だった。
既成の秩序に対する「アンチテーゼ」として主張していたのだ。
 だが「マイン」には「アンチ」がない。
牙が抜かれたというか、自ら牙を抜いたというか、既成秩序に対し賛成でも反発でもなく「そっぽを向き」、ひたすら関心を自分自身に向け始めたのである。
それはとりもなおさず社会に対する無関心を意味した。
「あっしには関わりのねぇことでござんす」とニヒルに呟く木枯し紋次郎が流行ったのもほぼ同時代ではなかったか。
 それから少ししてウォークマンが流行り、若者は外界への交通を遮断し、ひたすら自分の世界に閉じこもるようになった。

 外界と関わることはたしかに煩わしさを伴う。
一方、その煩わしと関わることで人との接し方を学んでいく。
エチケットやマナー、言葉遣いを覚え、忍耐や妥協、協力関係を身に着けることで人として成長していくのだ。
 ところが、外界との接触を煩わしさととらえ、内に籠もるから歳だけは取っても内面は子供のまま。早い話が幼稚化である。
 こういう大人が増えているからやりにくくて仕方がない。
ちょっと注意すれば、すぐ不貞腐れ、やる気をなくしたと反抗する。
挙句の果てには「褒められて伸びるタイプですから」などとほざく。
 私などは学生の頃から反発心でやってきた方だから、逆に褒められるとそこで慢心してしまうから逆効果だった。
比較的早い時期に組織人を辞めたからよかったが、そうでなければパワハラで訴えられるか、こちらの方がストレスで病気になっていたかもしれない。

 実は10年近く前まで、「時代」には修正作用があると考えていた。
しかし、そうした考えは、あまりにも楽観的過ぎたと、ここ数年、考えを改めだした。
「時代」の修正作用が一向に働かないどころか、「時代」は傍観者の役目を決め込んでいるようにさえ見える。
まるで、この社会はどこまで行くのか見極めてやろうと思っているかのように。



イオンスタイルファッション

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