後継者不足より深刻な後継者選びの問題(2)

後継者選びの難しさ

 とはいえバトンタッチは、組織が小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに問題があり、本当に難しい。
いま中小企業が抱えている真剣な問題は後継者不足だろうが、仮に後継者候補がいても選び方を間違えて失敗というパターンも多い。
今回のソフトバンクの問題はその一例といえる。

 後継者の選び方は大別すると次の3つになる。
1.社内の優秀な人材の中から選ぶ
2.直系を据える
3.ヘッドハンティングで外部から人材を招聘する

 望ましいのは「1.社内の優秀な人材から選ぶ」だろう。
これが公平感もあり、社内の不満も比較的少ない。
ここで敢えて「比較的」としたのは全くの公平感というのは難しい(ありえないと言ってもいいか)からだ。
「なぜ、あいつの方が俺より優秀なのだ」という不公平感を持つ人間は必ずいる。
それでも大多数の社員が認める人事に近いものを行うことはできるだろう。

 中小企業に最も多いのが息子などの直系を後継者にするパターンだ。
娘しかいない場合、娘婿を社長に据えるケースもあるが、それは孫に譲るまでのショートリリーフで、なぜか直系にこだわる。
 中小企業といっても経営実態は個人商店の延長といったところが多く、社員の方も「どうせ息子が跡を継ぐんだから」と端から諦めている。
それ故、後継者が多少能力不足、実力不足でも社内がそれで揉めることはない。
 ただ、そんな後継者人事が決まった時、能力も実力もある社員は会社の将来を見限り去るだけだ。
それを「新体制」と喜んでいるようでは先が知れている。
ある程度の規模の企業なら、いずれどこかに吸収合併されるか、会社を乗っ取られるか、それとも待っているのは破産か。
「3代目が潰す」というのはいまでも真実だ。

 3の社外から後継者人材をヘッドハンティング

(中 略)

 アローラ氏の退社は、こうした社内のギクシャクした関係を解消する意図もあったのかもしれない。
まあ、その辺のところは分からないが、結局、宮内氏が再び代表取締役副社長に復帰。
ソフトバンクグループの後継者選びは再び振り出しに戻ったのだけは間違いない。
 これでは「後5年、10年、社長を続けて行く」と言わざるを得ないのかも。
というのも宮内氏の年齢は1949年11月生まれの66歳。
後継者になるには年齢が行き過ぎている。

老害だろう、代表取締役相談役

 直系を後継者に据えても、外部から引っ張ってきてもそれぞれに問題があり、どれもこれも最善とは言い難い。
とはいえ3つの中では1の社内の優秀な人材の中から選ぶというのがベターだろう。
資本と経営が分離されている方が社内に優秀な人材が集まりやすいのは事実だから。
 しかし、中には代表権を握った途端になんでもできると勘違いをして、いつまでもトップの座に居座り続ける者も出てくるからよけいに難しい。
いや、どこぞのコンビニエンスストアの会長だった人のことを言っているのではない。
それは大企業だけの話ではなく、中小企業でも、地方自治体の首長でも起こる話だ。

 「権不10年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で熊本県知事を退任した細川護熙氏は、途中で県政を投げ出した等の批判もあったが、トップの座に居座り続ける首長ばかりが多い昨今、この潔さを見習って欲しい

 それはさておき、以下に2つの例を紹介する。
 1つは「うどん県」に倣って、温泉をテーマに「○○県」と称し、ユニークな自治体CMを流している九州の某県。そこのデパート

(以下 略)



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(1)

 中小企業で後継者不足から廃業する企業が増えているというニュースが昨今、メディアを賑わせているが、それ以上に問題なのは後継者の選び方ではないだろうか。むしろ、後継者選びに失敗した結果、事業継承に失敗したと言えるのではないか。
 先代がいつまでも現役で居続けることからくる弊害、バカ息子を後継者に据えたが故の失敗、外部(から招いた)人材に会社を乗っ取られた(牛耳られた)等々。中でも最悪なのは資本と経営の分離を口実に、気が付いたら会社を乗っ取られていたというケースだ。実は最近このケースで揉める例が増えているだけに要注意だ。

ソフトバンク、お前もか

 6月21日、ソフトバンクグループが代表取締役副社長ニケシュ・アローラ氏の退任を突然発表した。表向きの理由は、60歳で後継者にバトンタッチするつもりだった孫正義氏が、60歳を目前にした途端「急に寂しくなった」、「もう少しやっていたいという欲望が出た」から、今後も5年、10年、社長を続けていくと言う。そこで話し合いアローラ氏の退任が決まったというが、これを言葉通りに信ずる者はいないだろう。

 創業者のわがままを演出し、アローラ氏もそれを受け入れての円満退社と両者でアピールしていたが、アローラ氏の退社が株主総会の前日だったこと、それも唐突に決まったこと、さらにその前に投資家グループによりアローラ氏の副社長としての資質に問題があるとの書簡が寄せられていたことなどから、なんらかのマズイ問題があったのは想像に難くない。
 アローラ氏もここで揉めるよりはすんなり退社した方が得策と踏んだのだろう。なんといってもビックリするほどの報酬を得ていたのだから。かくして両者は互いを認め、褒めたたえ合いながら分かれるという「大人の対応」をしたというところだ。

 まあ、ソフトバンク内部の問題は別にして、この1年近くの間にカリスマ経営者とその周辺で同様というか、内部権力闘争とでもいうべき問題がいくつも繰り広げられたのは記憶に新しい。
 ひと言で言えばバトンタッチの難しさということに尽きるが、その一方で「老害」問題も見え隠れする。
 いくら長寿社会とはいえ80歳前後でまだ代表権を持つのは異常だろう。そういう人に限って自ら恥じることがない。その歳まで後継者を育てられなかったことをこそ恥じるべきだと思うが、その部分はすっぽり抜け落ちて、権力を手放さないことのみ考えている。孫氏もマイクロソフトのビル・ゲイツ氏を見習ったらどうだと思うが、それはなかったようだ。

 思わず失笑したのは株主総会で社外取締役の2人が揃っていつまでも孫氏に社長を続けるようにと発言したことだ。「孫社長はまだ60にもなっていない。なのに引退? 冗談じゃないぞ」(ファーストリテイリング・柳井正氏)だって。
 そういえば柳井氏も自身が進めた多角化が失敗し、業績が悪化した時期に社長職を譲り、自らは会長職に就いた。といっても責任を取って社長を譲ったわけではなく、「逃げた」というイメージを持ったのは私一人だけだろうか。だが「普通の会社」になるのが我慢できず、結局、社長に復帰して代表取締役会長兼社長だ。

 自らの失敗の責任は取らないが、他人のわずかなミスも許せないのがワンマン経営者の常。どこぞの都知事と似ているが、それを地で行くワンマン創業者だけに「孫さんみたいな人はいない。だから次の後継者は、孫さんのような方ではなくて、事務経営をされる方にしなさい」とアドバイスしたと言う。
 「事務経営をされる方」とはどういうことを意味しているのだろうか。路線は全部自分が敷いておくから、後継者はその路線通りに進むだけでいいということなのか。とすれば、それが可能なのは自身がまだ元気な間で、それでは真の意味で企業の後継者ではないだろう。
 まあ、それはともかく古今東西、「帝国」と呼ばれる組織は必ず没落しているし、「カリスマ」と呼ばれたトップも例外なく最後は身を亡ぼしている。「帝国」だ「カリスマ」だと言われて喜んでいると「ブルータス、お前もか」と叫ぶはめになる。そうなる前に後継者にバトンタッチしておくべきだろう。その前に後継者足り得る人材を育てておかなければならないが。






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食虫花? いや、黄色い睡蓮の花



 近寄る虫を大きな口を開けてパクリと食べてしまいそうに見えるこの花は

食虫花、ではなく睡蓮の花。

水面に浮かんだきれいな睡蓮の花も真上から見るとちょっと不気味。

極楽浄土というより地獄に咲く花に見えるから不思議だ。

きれいなものには棘がある。

上辺のきれいさ、耳あたりのよい言葉に騙されるな、ということか。

 さて、今度の東京都知事は誰に決まるのだろうか。

個人的には告示日前日に立候補を取り下げた宇都宮さんのような人にこそ

都知事になってもらいたいと思ったが。

私利私欲がなく大局観があり、顔つきは穏やかだし、政策だって鳥越氏よりは

内容的にもよほどしっかりしている。

鳥越氏は急に立候補を思い立ったというだけに政策の具体的な中身に欠ける嫌いがある。








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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(3)~日本にもいる「ホセ・ムヒカ」

舛添前都知事と「号泣議員」の共通点

 「号泣議員」と舛添氏には共通点がある。
まず「号泣議員」の記者会見の様子を思い出してみよう。彼は号泣しながら、自分が議員になった理由、議員になり何をやりたかったのかを次のように訴えた。

 舛添氏も同じようなことを言っている。
「東京を世界一の街にするために知事になった」。
      ・
      ・
この辺りにも彼の理念のいい加減さが窺えるが、舛添氏自身は気付いていない。

 辞任するにあたり「最も懸念いたしましたのは、オリンピック・パラリンピック大会への影響」というから何とも情けない。都民の生活など端から頭になかったようだ。
 結局、彼が目指したものは「世界一」とかオリンピック等の華々しい舞台で自身が注目を集めることだったようで、その認識のズレが都民との間にあったことに最後まで彼自身は気付いていなかった。

         (中 略)


権力は最も甘い蜜の味

 それにしても人はなぜ権力に執着するのか。
それは甘い蜜の味がするからで、その味は直接、間接を問わずカネと結び付いている。
都知事に限らず国会議員でさえ無料交通パスが利用できるし、様々な名目の下、視察という名の海外旅行が公費でできる。
 舛添氏の公私混同が議会で問題になった後でさえ都議会議員はリオへ大挙して視察に行くことに何の問題意識も持たなかった(辞退したのは共産党議員達だけ)のだから、彼らの頭の中は甘い蜜を吸うことしかないと言われても仕方ない。

 例えば富山市議会。
舛添問題のさなかの6月15日、本会議で議員報酬を10万円引き上げ、月額70万円にする条例改正案を賛成多数で可決

 福岡県北九州市議(自民党)に至っては2年半、市議会を欠席しながら3,340万円の議員報酬を満額受け取

         (中 略)

 まるで蜂が蜜に群がるように、恵まれた給与+特権を求めて議員、知事になる輩がいれば、その周囲にこれまた蜜を求めて群がる連中もいる。
 では、選挙でそういう関係を断ち切るのかと思えば、この国の民もいい加減だから、選挙の時はまた別の物差しを持って来て投票行動をする。
だからいつまでたっても変わりはしない。結局、この国の民自身の中に甘さがあるのかもしれない。

日本にもいる「ホセ・ムヒカ」

 だが、悲観材料ばかりではない。議員、地方首長の中にも数は少ないが清廉の士はいる。
 例えば栃木県那須塩原市の前市長、阿久津憲二氏(72歳)

 和歌山県北山村をご存じだろうか。
奈良県、三重県、和歌山県境にある人口450人程度の小さな村だが、和歌山県といっても和歌山県のほかの市町村と接してない飛び地村だ。
最近では「じゃばら」という柑橘類で有名だから、花粉症で悩んでいる人はご存知かもしれない。

 北山村の奥田貢村長(74歳)が「日本のホセ・ムヒカ」として

         (以下 略)



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   北山村産すっぱくないじゃばらジュース

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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(2)~他人に厳しく自分に甘い性格

都知事の権力の源泉

 どのような権力であれ、その力の源泉は人数とカネである。
実はこの2つは表裏一体といってよく、人数が多いからカネが多く集まるわけで、人数が少なければ集まるカネもそれだけ少ない。
要は数がものを言うわけだ。
権力とは数であるといっても、あながち間違いではないだろう。

 東京都の人口は約1300万人。もちろんほかの道府県よりは多い。
それだけでも都知事の権力は他の知事を上回るといえるが、それだけではなく東京には国内の主要企業の本社が集中しているばかりでなく、海外企業が日本に進出する場合も大半が東京に拠点を構えている。
このことが都知事の権力を間接的に大きくしている側面もある。


         (中 略)

他人に厳しく自分に甘い性格

 舛添氏の行動は一見、矛盾しているようにも思える。
例えば国立競技場建設費削減や、厚生労働大臣当時に見せた厳しい姿勢と、都知事就任後のあまりにも酷い公私混同振り、それも大きな金額をごまかす、着服するような犯罪ではなく、まるで家庭生活で必要なものを公金で賄う、いわば小さな公私混同振りは「セコイ」という言い方がまさしくピッタリで、とても志を持った政治家の行為とは考えられない。

 「号泣議員と同じ」と評した女性がいたが、まさにその通り。
本人は不本意だろうが、次元は一緒だ。
「号泣議員」同様、額は大きくないとはいえ、公私混同振りの常態化が見られただけに見過ごせる問題ではない。

 着服、使い込み等は最初は小さな額から始まることがほとんどで、それが見過ごされ、少しずつ大胆になっていくパターンが多い。

 彼は上昇志向、権力志向が強い人間だったようだが、公私混同振りはそれらと密接に関係しているというよりは、むしろ「他人に厳しく自分に甘い」性格故だった


         (中 略)


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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(1)~人を虜にする権力という蜜

 甘いものを指して「蜜の味」と言うが、この世で最も甘いのは「権力」という蜜の味だろう。
一度この味を覚えると、よほどの清廉潔白の氏でもない限り、その虜になり、最後は身を滅ぼしてしまう。その好例が前と現東京都知事だ。

人を虜にする権力

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事という椅子に魅せられ、それにしがみ付いているのか。
それほど知事という椅子は魅力的なのか、それとも東京都知事の椅子はほかの知事の椅子より格別に座り心地がいいのか。

 例えは悪いが、道府県知事の椅子が汎用品の中でちょっと高級な椅子だとすれば東京都知事の椅子はオーダーで別誂えした椅子ぐらいの違いだろう。
部課長の椅子と大企業の社長の椅子ぐらいの違いと言った方がいいかもしれない。
機会があれば一度座ってみるといいだろう。
背もたれの高い椅子に腰を下ろした途端、自分が偉くなったような気になるはずだ。

 そう感じるのは椅子の作りがいいからだけではない。社長室の空間的な広さや、そこに設えられてある調度品などからも受けるだろうが、なにより実感するのは部下が自分の指示一つで動いたり、指示を窺いに部屋にやって来るからである。
こうして人は権力を実感し、その力を自分自身の力と勘違いしていく。

 これが権力という力の全てではないし、人が権力に魅せられる全てではない。
権力の魔力は象徴的、感覚的、情緒的な部分よりは、その裏に潜んでいる実利的な部分(甘い蜜)にこそある。あるいは実利的な裏打ちがあってはじめて権力が力を持ちうる。

 人が権力に魅せられ、一度手にすると離したくないとしがみ付くのも権力がその裏で実利的な部分を持っている、実利的な部分とくっ付いているからである。
そのことを白日の下に晒したのが前・現東京都知事だ。

         (中 略)

都知事になりたがる理由

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事になりたがったのか。それほど都知事の職は魅力的なのだろうか。
 まず知名度。


 前都知事の猪瀬氏も欲しかったのは都知事という名誉だったのか、それとも都知事に付きまとう権力という力だったのか。
 彼は以前にも少し触れたが「ミカドの肖像」という労作を著すなどノンフィクション作家としての地位をすでに築いていたし、それなりの稼ぎもあったはずである。
政治の世界にさえ近づかなければ、と思うが、やはり「もっと、もっと」という欲があったのかもしれない。

         (中 略)



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アベノミクスの効果って?



 参院選の火蓋が切って落とされた。

選挙になると勇ましい言葉が並び、ことさら成果が強調される。

言葉は言霊(ことだま)だってことを彼ら政治家は知っているだろうか。

公約もマニフェストも彼らが使えば一片の真実もない「言の葉」になってしまう。

公明党がかつて「平和の党」を自称していたことを、いま何人が知っているだろうか。

いまでは平和どころか自民党の後に付き従うだけの補完勢力。

戦争反対どころか、戦争に賛成する自民党を止められない党に変質している。

庶民のためと言いながら戦争に突き進んだ、かつての歴史と同じだ。

アベノミクス? アベノミクスの効果って一体何だ。

そんなものは地方のどこを探してもありはしない。

一体どこに行けばお目にかかれるのだ。

どうすれば実感できるのだ。

地方で目にするのはこんな光景ばかり。

駅は無人で、列車は1時間か2時間に1本通るかどうか。

通学時間帯を除けば駅に人影もない。

えっ、アベノミクスって滴り落ちてくるものだって?

そうすれば地方も少しは潤うんだって。

いつになれば、その滴とやらが落ちてくるのだ。

いつまで待てばいいんだ。

いつまで待たせるんだ。

その前に俺達も、町も死んでしまうだろう。

選挙目当ての政治家の言葉なんか信用できない。

いつまでも騙されてばかりはいないから、

「経済が争点」と言いながら虎視眈々と改憲を狙う。

衣の下に鎧を隠し、選挙の時だけきれいごとを並べる。

でも、もう騙されない。



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田舎の生活を楽しむ(2)

 今回、この便利な条件を1つ変えた。固定電話を解約したのだ。すでに1年前にインターネットのプロバイダー契約は解約していたが、今回、電話回線も解約した。すでに数年前から電話が使われることはなかったし、母も2月に亡くなり、固定電話が使われることはますますなくなったからだ。
 結果、帰省中インターネットに接続する機会が激減した。どうしてもインターネットに接続しなければいけない時は車で近くのセブンイレブンまで出向き、そこの無料WiFiに接続している。
 まあ、そんな面倒なことは極力したくないからどうしてもデジタル離れになる。代わりに増えたのが手紙と電話。メールのような手軽さはないが、相手との距離感がまるで違うことも実感した次第である。

◆嫌いな田舎生活が好きに

 以前、嫌いだった田舎生活が最近気に入っている。1年前、福岡に引き取った母も亡くなり、帰省する理由もなくなったが、それでも以前と同じように数か月に一度帰省し、誰もいない家で1週間程度滞在している。できることなら、このまま田舎の家で生活したいとさえ思いだしている。

 田舎生活のどこが気に入っているのかと自問自答して分かったことが一つ。静かな環境と広い空間だ。家は古いが室内外の空間が広く、そのことが落ち着きを与えてくれる。個人的に最も好きなのは実家の風呂だ。マンションのユニットバスの3倍はある広いスペースはなによりリラックスできる。
 どの部屋に行くにも段差があり、歳を取り足元が覚束なくなると室内を歩くにも注意が必要だが、いまのところはまだ大丈夫。多少の不自由さより開放感の方が勝り、田舎の家にいると生き返ったような気持ちになる。ただし、冬の間は逆の気持ちになるが。

 田舎が嫌いだった理由の一つに濃い人間関係もあった。監視カメラで常に「盗撮」されている都会よりマシかもしれないが、田舎ではプライバシーはあってないようなものだ。何時ごろ起きて何をしているか、いつ誰が訪ねてきたかなどが全て把握されている。都会の「隣は何をするものぞ」の無関心も困るが、関係が濃い過ぎて生活が筒抜けなのも困る。
 だが近年の過疎化で、町内の世帯数も減り、隣家との距離も物理的に開き出し、そのことが濃い過ぎず、薄過ぎないちょうどいい距離感を生み出してきた。過干渉と無干渉のちょうど中間というか、付かず離れずの距離感が保たれるようになり、それが心地いいのだ。

 例えば向かいの家との関係。広縁に腰掛けいつも外を眺めているので、いちいち挨拶しなくても私がいつ出かけたのかを知っているし、留守中誰かが訪ねて来ても、それが不審な人間かどうかまで含めチェックしてくれている。
 いうなら人間セキュリティーシステムみたいなもので、実はそれで随分助けられている。ある時などは大阪の従弟が偶然、何の連絡もなく訪ねて来たが、「先程出かけられましたよ」と教えられたようで、従弟から私のケータイに電話がかかってきて、無事会うことができたし、ある時などは見かけぬ人間がうちの家の方に歩いて行ったので、泥棒だといけないと考え、そっと後ろを付けて様子を見に行ったと後日教えられた。見守ってもらっているわけだが、昔なら「見られている」と不快感を感じたかもしれないが、いまは助けられていると感謝している。

 都会で犯罪が増えているのは人が多すぎることにも原因があるのではないか。ある空間に必要以上に生物(人でも魚でもマウスでも)を入れると、ストレスでそのうちの何10%かが亡くなるということは実験で知られている。同じことは人間社会でも言え、近年の無差別殺人の起因はそのことと無関係ではなさそうだ。



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田舎の生活を楽しむ(1)

 近くで鶯の鳴き声がする。まるで私の帰省を歓迎してくれているかのように「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ」と朝から夕方近くまで鳴いている。
 前回の帰省から2か月程度しか経ってないというのに庭の雑草は伸び放題。雑草に混じってドクダミの花が咲き誇り、花壇は雑草に占拠されて花はほぼ壊滅。新しく花を植え直すかどうか迷いつつ、向かいの家に向かった。
 その家の住人は10年近く前に奥さんを亡くし、以来寡暮らし。時々農作業に出かける以外は広縁に椅子を置いて腰掛け、日がな1日外を眺めている。

豊かさの代償で手に入れたもの

 寺山修司が何かの本で次のようなことを書いていた。「私に話しかけて下さい」と書かれたボードを首から下げて、公園で1日中腰掛けている老人達がいる、と。
 豊かさの一方でコミュニケーションを求める孤独な老人達。寺山が見たのは60年代のアメリカの光景だが、いま同じような光景が日本でも中国でも見られる。首からボードこそ下げてはいないが、誰かに話しかけてもらうのをじっと待ち望んでいる孤独な老人達。

 社会は豊かさの代償に、他人への関心、コミュニケーションを失ったようだ。そしてその傾向は今後弱まるどころか、むしろますます増殖していく傾向にある。コミュニケーションツールが増え、人々を「内」に閉じ込めだしているからだ。
 人々の関心は身近な距離から、はるか遠くの出来事、それは往々にして海を越えた向こうの出来事であることが多いが、それらを掌を見詰めるだけで手に入れるようになり、それが視野の広がり、グローバル社会との繋がりと感じている。
 一方、身近な情報はわずか数10メートルの距離でも行動しないと得られない「煩わしさ」と面倒臭さを伴っており、しかも得られる情報量ははるかに少ない。
 どちらが効率的かと言えば明らかに前者だし、情報の有益さから言っても前者だろう。
 かくして、人は非効率なことを避け、ますます「内」に閉じこもり、そこから「広い」世界を見詰めようとする。こうした傾向は「不便な」地方より、「便利な」都会ほど顕著である。

 「きれいですね。この花、なんという名前ですか」
向かいの庭先に植えられている黄色い花を指して問うより早く、こちらの姿をガラス越しに認めた住人が広縁のサッシを開けて出てきた。
「なんとか言うんじゃけどなんじゃったかいな。これな、どえらい強くてすぐおごるでな。持って帰りんさい。すぐ根付くで」
 すぐ側に社協の建物や中学校があるとはいえ、この家まで立ち寄って話す人はいない。同じ一人暮らしでも寡と寡婦では人の寄り付き方が違う。寡の方にはなぜかあまり人が寄りたがらない。部屋が散らかっている、こぎれいな格好をしていないというような一般的なイメージが邪魔しているからだろうか。実際には男の一人暮らしの方が不自由しているはずなのだが。
 そんな思いもあり、帰省中、私は努めて向かいの住人に話しかけるようにしている。一種の安否確認みたいなものだが、こちらも一人で家にいると今日1日誰とも話さなかったということになり、認知症への不安が過る。そういうわけでは向かいの庭を覗いて会話をするのは相手のためだけでなく、こちらにとっても一石二鳥の効果がある。そして時には今回のように花をもらったり、玉ねぎや白菜をもらったりという実益もある。

不自由な生活を楽しむ

 若い頃(といってもそう昔のことではないが)は田舎の生活は嫌いだった。生活が単調で刺激がなさすぎる。昔ほどではないが、やはり都会に比べれば店にモノが少ない、というか選択肢がないから、結果として物価も若干割高になる。交通の便が悪い代わりに、人間関係が濃く、プライバシーがあるようでない。
 こうしたことが嫌いな理由だったが、いまや田舎といえども電話は光ファイバー回線が市内全域に敷かれている。当然、ネット環境は快適だ。
 車で10分余り走れば食品スーパーや家電専門店、ホームセンターがそれぞれ複数店舗あるし、高速道路を使えばイオン大型店まで15分余りで行ける。
 家から高速道路ICまでが近いこともあり、姫路、鳥取、岡山市まで1時間余りで行けるという足回りは福岡に居る時よりいい。ただし、こうした便利さは「車があれば」という前提で成り立つことであり、車がなければ何をするにも不自由、不便な場所に一変するが。


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三菱自動車が消える日

 三菱自動車が存続の危機に直面しているーー。

同社は過去何度か経営の危機に陥ったことがあるが、その度にダイヤモンドマークを冠した三菱グループに助けられてきた。
だが、今回はどうか。柳の下にドジョウはまだいるかどうか。
答えはノーだ。市場から三菱自動車の名前が消える日はそう遠くないだろう。

三菱自動車の問題体質


ユーザー視点がない三菱自


今後、一気に進むか業界再編成


    全文はHPにアップしています。

    HP:http://www.liaison-q.com/



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