社会の内向き化がもたらす危険性(1)

 社会が内向きになりだした--。
そう感じ出したのはもう随分前、40年も前のことだ。
その当時は内向き社会がもたらす危険性をまだ十分に認識していなかった。
ただ、なんとなく社会や他者への関心が薄らぎ、自分の手が届く範囲のことが最大関心事になってきているようだという認識程度しかなかった。
 その後、内向き化現象は加速度的に進み、いま、人々の関心は自分自身と、掌の中の世界にしかないように見える。
この先に待ち受けているのは一体何なのか。
我々はどこへ行こうとしているのか--。

「反体制」から「マイン」に

 40年前にはスマホはもちろん携帯電話も温水洗浄便座も、ウォークマンもなかった。
車は「ケンとメリーのスカイライン」の時代だ。
当時、生まれた子供はいま40歳。
本来なら不惑の年齢だが、いまは8掛けか7掛け(精神年齢的には7掛けだろう)年齢としても身を立てる年齢である。
 ところが現実はどうだ。
50歳でも不惑どころか迷いの真っ最中。
70歳でも80歳前でも枯れるどころか元気一杯。
それはいいことだが、「生き仏」と言われながらセクハラで訴えられるようでは呆れ果てる。
週刊誌が「死ぬまでSex」という特集を組むくらいだから、近頃使うのは頭ではなく下半身ばかりのようだ。

 それはさておき、社会が内向きになってきたと初めて感じたのは井上陽水と荒井由実の歌だった。
「世は歌につれ、歌は世につれ」と言われるように、歌は当時の世相を色濃く反映している。
だから両者の思考が、というより時代が内向きになりだしたことを敏感に感じ取った彼らが、それを歌詞にしたわけで、彼らの感性の鋭さには敬服するばかりである。
 それにしても荒井由実氏の一連の歌詞には大いに驚いた。
なかでも「ルージュの伝言」の「ママに叱ってもらうわ」という下りには仰け反った。
「おいおい、結婚した、いい大人がママに叱ってもらうだって。自分で直接、旦那に言えばいいだろう」と思ったものだ。
いまでもこの歌を聞く度にそう思う。
よくもまあ、こんな歌を歌えたものだ。
松任谷由実氏はいまでもこの歌を歌えるのだろうか、それとも荒井由実だから歌えたのだろうか、と。

 同じような変化はファッションの世界でも起きていた。
ファッションの主題が「マイン」になっていった。
「マイン」つまり「自分」である。
それまで(60年代後半70年代)のファッションは「反体制、反秩序」だった。
既成の秩序に対する「アンチテーゼ」として主張していたのだ。
 だが「マイン」には「アンチ」がない。
牙が抜かれたというか、自ら牙を抜いたというか、既成秩序に対し賛成でも反発でもなく「そっぽを向き」、ひたすら関心を自分自身に向け始めたのである。
それはとりもなおさず社会に対する無関心を意味した。
「あっしには関わりのねぇことでござんす」とニヒルに呟く木枯し紋次郎が流行ったのもほぼ同時代ではなかったか。
 それから少ししてウォークマンが流行り、若者は外界への交通を遮断し、ひたすら自分の世界に閉じこもるようになった。

 外界と関わることはたしかに煩わしさを伴う。
一方、その煩わしと関わることで人との接し方を学んでいく。
エチケットやマナー、言葉遣いを覚え、忍耐や妥協、協力関係を身に着けることで人として成長していくのだ。
 ところが、外界との接触を煩わしさととらえ、内に籠もるから歳だけは取っても内面は子供のまま。早い話が幼稚化である。
 こういう大人が増えているからやりにくくて仕方がない。
ちょっと注意すれば、すぐ不貞腐れ、やる気をなくしたと反抗する。
挙句の果てには「褒められて伸びるタイプですから」などとほざく。
 私などは学生の頃から反発心でやってきた方だから、逆に褒められるとそこで慢心してしまうから逆効果だった。
比較的早い時期に組織人を辞めたからよかったが、そうでなければパワハラで訴えられるか、こちらの方がストレスで病気になっていたかもしれない。

 実は10年近く前まで、「時代」には修正作用があると考えていた。
しかし、そうした考えは、あまりにも楽観的過ぎたと、ここ数年、考えを改めだした。
「時代」の修正作用が一向に働かないどころか、「時代」は傍観者の役目を決め込んでいるようにさえ見える。
まるで、この社会はどこまで行くのか見極めてやろうと思っているかのように。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(4)

生え抜きを指名、トップに抜擢した例

 少し古い話で恐縮だが、いまから20年程前に九州の某地方銀行で行われた人事の話を。
 当時、地方銀行の頭取は大蔵省からの天下りポストというのが当たり前だった。金融の自由化が進み、それまでの護送船団方式で金融業界が保護されることは表向きなくなっていたが、横並び意識はいまでも日本企業から抜け切ることがないように、他と違うことをやるのはかなりのリスクを伴う。
 ところが、その地銀トップは自らの出身母体、大蔵省から次期頭取を招きことを拒否し、自らが頭取に就任した直後から「次は生え抜きから」と公言していた。もちろん、就任時にそう表明する人はいる。しかし、バトンタッチが現実のものになってくると、そんな言葉はサラリと忘れ、大蔵省人事に従うのが常だ。早い話が保身だ。天下り人事を受け入れることで、自分の大蔵省外郭団体への再天下りも保証される。
 つまり次期頭取を生え抜きから選ぶということは、ある部分で自分の退路を断つことを意味するだけでなく、地方銀行にとっても大蔵省の保護を得られないというリスクを伴う。

 誰だってリスクは冒したくない。だが、部下に夢も見せたい。幻想かもしれないと思っていても、「もしかすると」という夢を。鳩山元首相だって最初から騙そうと思っていたわけではないだろう。純粋にそうしたいと思っていたはずだ。だが、彼にはそこまでの信念と行動力がなかった。結果、沖縄県人を騙したことになり、彼らの激しい落胆と反感を買う羽目になってしまった。
 これが企業なら社員は見限って辞めるだけだ。しかし、彼らは日本人であることを捨てる選択をすることはできなかった。少なくともいままでは。しかしスコットランドがイギリスからの独立を現実的な選択肢として考えるだけでなく行動する時代である。沖縄の人達が琉球人に戻る行動を起こすことは非現実的なことではないだろう。

 さて、銀行頭取の話である。私は当時の頭取T氏が頭取職を生え抜き行員に譲り、自らは会長になった後、数回取材したことがある。
 その時の取材内容は直接、銀行に関係することではなくT氏が兼ねている他の公職に関することだったが、ついでに後任頭取人事のことも尋ねた。実はメーンテーマ以外のことをさりげなく雑談的に尋ねるというのは結構本音が聞かれるものなのだ。メーンテーマと外れるから相手の警戒心も緩むのだろう。

 聞きたかったのは自らの出身母体の大蔵省OBではなく、なぜ生え抜きから現頭取を選んだのかという点だった。
 答えは簡単明瞭だった。「彼が優秀だったからですよ」。いやいや、そう言われても、いざその段になるとやはり大蔵省出身者を迎える銀行がほとんどだし、第一、優秀だという判断の根拠はと、さらに尋ねる。
 T会長曰く。優秀な男だったので、さらに確かめるべく、いろんな部署を経験させてみた。すると、どの部署でもきちんと結果を出してきた。別に何が何でも次は生え抜きと決めていたわけではない。たまたま行内に優秀な人材がいたからで、そうでなければ生き残るためには大蔵省にお願いしてでも優秀な人材を派遣してもらっていた。

 もう1点どうしても聞きたかったのは実権のことだった。というのも当時、都市銀行では頭取より会長の方が実権を握っている例があったからだ。
 それに対しては「それは相談を受けることはありますよ。だが、会長就任とともに銀行のことには基本的にノータッチ」とのこと。とはいえ、それは表向きということはよくある。しかし、T氏の肩書は「会長」で代表取締役の文字はなかったし、ご本人も「代表権は返上しています」。

 もう一度まとめてみよう。
1.まず自らが頭取就任間もなく「次期頭取は生え抜きから」と行員に公言
  行員に希望とやる気が芽生える
2.後継者を育成するため、後継者候補に幾つもの部署を経験させている
3.早期にバトンタッチ
4.会長就任とともに代表権は放棄

 ポイントは後継者の育成をするかどうか、という点だろう。そのプロセスがなく、直系だから、成果を上げたからという点だけで後継者に任命すると、3代目が会社を潰したり、庇を貸して母屋を取られたりということになりかねないので、くれぐれもご用心を。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(3)

トップに居座り続ける都合のいい理由

 もう1つは福岡市のシステム会社。地元放送局と電機メーカーの共同出資で設立された会社で、トップは放送局からの天下り。同社のT氏は転職組だが、ほとんどプロパー社員と変わらなかった。私が同氏を知った時は専務取締役だったが、それから間もなく代表取締役専務になり、さらに代表取締役社長へと登り詰めた。
 能力があり人当たりもよく人望もあったので社長になるのは当然と思っていたが、本人もその気満々なのは専務時代に「早く代表権を寄こせと言っているんですよ」と半ば冗談めいて言っていたことからも分かる。
 私自身も彼は早く代表権を持つべきだと思っていたし、多少そうけしかけもしていたが、程なく希望通りに代表取締役専務になった。代表権を握り裁量権も大きくなったのだろう、それから同社の業績は拡大していった。やがて代表取締役社長に就任。親会社の天下りポストは代表取締役社長から代表取締役会長に替わった。

 同氏が代表権を持つようになって19年がたった頃、会社設立40周年記念パーティーの案内に呼ばれた。即座に考えたのは40周年を花道に引退するのだろうということだ。
 たしかにT氏の功績は大きいが代表権を握って19年。オーナー経営者でもないサラリーマン社長にしては長すぎる。ここらが引き際。次にバトンタッチすべき時期だろう。
 「権不10年」ではないが、どんなに優れた経営者でもトップの座に20年近くもいれば、裸の王様状態で周りはイエスマンだらけになる。おまけに功績大となれば、社内外から聞こえてくるのは賛美の声だけ。かくして「カリスマ」「名経営者」と呼ばれる人達が道を踏み外していく。そうなる前に後進に道を譲るべきだと思うが、悲しいかな足るを知る人間は少なく、もっと、もっとと欲が出る。

 T氏の場合も例外ではなく、辞めることなどサラサラ考えてないようで、まだまだやる気十分。そんな彼にちょっと辛口を叩いてみた。
「Tさんの後継者は決まっているんですか」
「決まってますよ」
「誰ですか」
「紹介しましょうか。Iですよ」
「えっ、Iさん。Iさんなら知っていますよ。以前、次は彼だと言われていたI部長でしょ」
「ええ、そうです。いまは常務ですけどね」
「彼はいくつですか。もう50は過ぎてますよね。50半ば。そうですか。では、もうバトンタッチですね。今日はその発表もあるのかと思ってましたけど」
「いやあ、取引先がまだお前がやれって言うもんですから」
「でも、代表権を握ってもう19年はたつでしょ。ご自分が代表取締役になったのは40代なんだから」
「私に辞めろというんですか」
 そう言うと近くに居た人を引っ張ってきて、私に押し付けながら
「この人は私に辞めろ辞めろと言うんですよ」と笑いながら、その場を離れて行った。

 いや、私は「辞めろ」と言っているわけではない。優秀な経営者だと認めているし、早くから次の後継者候補も決めていたようだから、後継者の年齢を考えても、もうバトンタッチする時期ではないかと考えただけだ。このままトップの座に居座り続けると自身が以前言っていたこととの整合性も取れなくなるし。

 結局、T氏はその後も辞めることなく代表取締役会長まで務めて引退したようだが、会長就任も引退挨拶も彼から来ることはなかった。
 後日談だが「いま辞めたら親会社から天下りで会長が来る。それは阻止しなければならない」と言っていたから、会長までトップとして君臨するのは本人にしてみれば既定路線だったのだろう。

 人は変わるものである。いい方にも悪い方にも。願わくばいい方に変わりたいと思うが、自分では真っ直ぐ進んでいるつもりでも少しずつ歪んでいくというのはままある。
 「君子は豹変し、小人は面(おもて)を革(あらた)む」。先代存命中は言葉巧みに近づき、表面だけは従う態度をとっているが、先代が亡くなり息子が跡を継いだ途端、本性を表し庇と母屋を取り替える者がいないとも限らない。後継者を見る目を養うのは難しいとつくづく感じる。



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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(2)

後継者選びの難しさ

 とはいえバトンタッチは、組織が小さければ小さいなりに、大きければ大きいなりに問題があり、本当に難しい。
いま中小企業が抱えている真剣な問題は後継者不足だろうが、仮に後継者候補がいても選び方を間違えて失敗というパターンも多い。
今回のソフトバンクの問題はその一例といえる。

 後継者の選び方は大別すると次の3つになる。
1.社内の優秀な人材の中から選ぶ
2.直系を据える
3.ヘッドハンティングで外部から人材を招聘する

 望ましいのは「1.社内の優秀な人材から選ぶ」だろう。
これが公平感もあり、社内の不満も比較的少ない。
ここで敢えて「比較的」としたのは全くの公平感というのは難しい(ありえないと言ってもいいか)からだ。
「なぜ、あいつの方が俺より優秀なのだ」という不公平感を持つ人間は必ずいる。
それでも大多数の社員が認める人事に近いものを行うことはできるだろう。

 中小企業に最も多いのが息子などの直系を後継者にするパターンだ。
娘しかいない場合、娘婿を社長に据えるケースもあるが、それは孫に譲るまでのショートリリーフで、なぜか直系にこだわる。
 中小企業といっても経営実態は個人商店の延長といったところが多く、社員の方も「どうせ息子が跡を継ぐんだから」と端から諦めている。
それ故、後継者が多少能力不足、実力不足でも社内がそれで揉めることはない。
 ただ、そんな後継者人事が決まった時、能力も実力もある社員は会社の将来を見限り去るだけだ。
それを「新体制」と喜んでいるようでは先が知れている。
ある程度の規模の企業なら、いずれどこかに吸収合併されるか、会社を乗っ取られるか、それとも待っているのは破産か。
「3代目が潰す」というのはいまでも真実だ。

 3の社外から後継者人材をヘッドハンティング

(中 略)

 アローラ氏の退社は、こうした社内のギクシャクした関係を解消する意図もあったのかもしれない。
まあ、その辺のところは分からないが、結局、宮内氏が再び代表取締役副社長に復帰。
ソフトバンクグループの後継者選びは再び振り出しに戻ったのだけは間違いない。
 これでは「後5年、10年、社長を続けて行く」と言わざるを得ないのかも。
というのも宮内氏の年齢は1949年11月生まれの66歳。
後継者になるには年齢が行き過ぎている。

老害だろう、代表取締役相談役

 直系を後継者に据えても、外部から引っ張ってきてもそれぞれに問題があり、どれもこれも最善とは言い難い。
とはいえ3つの中では1の社内の優秀な人材の中から選ぶというのがベターだろう。
資本と経営が分離されている方が社内に優秀な人材が集まりやすいのは事実だから。
 しかし、中には代表権を握った途端になんでもできると勘違いをして、いつまでもトップの座に居座り続ける者も出てくるからよけいに難しい。
いや、どこぞのコンビニエンスストアの会長だった人のことを言っているのではない。
それは大企業だけの話ではなく、中小企業でも、地方自治体の首長でも起こる話だ。

 「権不10年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え、2期8年で熊本県知事を退任した細川護熙氏は、途中で県政を投げ出した等の批判もあったが、トップの座に居座り続ける首長ばかりが多い昨今、この潔さを見習って欲しい

 それはさておき、以下に2つの例を紹介する。
 1つは「うどん県」に倣って、温泉をテーマに「○○県」と称し、ユニークな自治体CMを流している九州の某県。そこのデパート

(以下 略)



 ☆全文は「まぐまぐ」内の下記「栗野的視点」ページから
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後継者不足より深刻な後継者選びの問題(1)

 中小企業で後継者不足から廃業する企業が増えているというニュースが昨今、メディアを賑わせているが、それ以上に問題なのは後継者の選び方ではないだろうか。むしろ、後継者選びに失敗した結果、事業継承に失敗したと言えるのではないか。
 先代がいつまでも現役で居続けることからくる弊害、バカ息子を後継者に据えたが故の失敗、外部(から招いた)人材に会社を乗っ取られた(牛耳られた)等々。中でも最悪なのは資本と経営の分離を口実に、気が付いたら会社を乗っ取られていたというケースだ。実は最近このケースで揉める例が増えているだけに要注意だ。

ソフトバンク、お前もか

 6月21日、ソフトバンクグループが代表取締役副社長ニケシュ・アローラ氏の退任を突然発表した。表向きの理由は、60歳で後継者にバトンタッチするつもりだった孫正義氏が、60歳を目前にした途端「急に寂しくなった」、「もう少しやっていたいという欲望が出た」から、今後も5年、10年、社長を続けていくと言う。そこで話し合いアローラ氏の退任が決まったというが、これを言葉通りに信ずる者はいないだろう。

 創業者のわがままを演出し、アローラ氏もそれを受け入れての円満退社と両者でアピールしていたが、アローラ氏の退社が株主総会の前日だったこと、それも唐突に決まったこと、さらにその前に投資家グループによりアローラ氏の副社長としての資質に問題があるとの書簡が寄せられていたことなどから、なんらかのマズイ問題があったのは想像に難くない。
 アローラ氏もここで揉めるよりはすんなり退社した方が得策と踏んだのだろう。なんといってもビックリするほどの報酬を得ていたのだから。かくして両者は互いを認め、褒めたたえ合いながら分かれるという「大人の対応」をしたというところだ。

 まあ、ソフトバンク内部の問題は別にして、この1年近くの間にカリスマ経営者とその周辺で同様というか、内部権力闘争とでもいうべき問題がいくつも繰り広げられたのは記憶に新しい。
 ひと言で言えばバトンタッチの難しさということに尽きるが、その一方で「老害」問題も見え隠れする。
 いくら長寿社会とはいえ80歳前後でまだ代表権を持つのは異常だろう。そういう人に限って自ら恥じることがない。その歳まで後継者を育てられなかったことをこそ恥じるべきだと思うが、その部分はすっぽり抜け落ちて、権力を手放さないことのみ考えている。孫氏もマイクロソフトのビル・ゲイツ氏を見習ったらどうだと思うが、それはなかったようだ。

 思わず失笑したのは株主総会で社外取締役の2人が揃っていつまでも孫氏に社長を続けるようにと発言したことだ。「孫社長はまだ60にもなっていない。なのに引退? 冗談じゃないぞ」(ファーストリテイリング・柳井正氏)だって。
 そういえば柳井氏も自身が進めた多角化が失敗し、業績が悪化した時期に社長職を譲り、自らは会長職に就いた。といっても責任を取って社長を譲ったわけではなく、「逃げた」というイメージを持ったのは私一人だけだろうか。だが「普通の会社」になるのが我慢できず、結局、社長に復帰して代表取締役会長兼社長だ。

 自らの失敗の責任は取らないが、他人のわずかなミスも許せないのがワンマン経営者の常。どこぞの都知事と似ているが、それを地で行くワンマン創業者だけに「孫さんみたいな人はいない。だから次の後継者は、孫さんのような方ではなくて、事務経営をされる方にしなさい」とアドバイスしたと言う。
 「事務経営をされる方」とはどういうことを意味しているのだろうか。路線は全部自分が敷いておくから、後継者はその路線通りに進むだけでいいということなのか。とすれば、それが可能なのは自身がまだ元気な間で、それでは真の意味で企業の後継者ではないだろう。
 まあ、それはともかく古今東西、「帝国」と呼ばれる組織は必ず没落しているし、「カリスマ」と呼ばれたトップも例外なく最後は身を亡ぼしている。「帝国」だ「カリスマ」だと言われて喜んでいると「ブルータス、お前もか」と叫ぶはめになる。そうなる前に後継者にバトンタッチしておくべきだろう。その前に後継者足り得る人材を育てておかなければならないが。






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食虫花? いや、黄色い睡蓮の花



 近寄る虫を大きな口を開けてパクリと食べてしまいそうに見えるこの花は

食虫花、ではなく睡蓮の花。

水面に浮かんだきれいな睡蓮の花も真上から見るとちょっと不気味。

極楽浄土というより地獄に咲く花に見えるから不思議だ。

きれいなものには棘がある。

上辺のきれいさ、耳あたりのよい言葉に騙されるな、ということか。

 さて、今度の東京都知事は誰に決まるのだろうか。

個人的には告示日前日に立候補を取り下げた宇都宮さんのような人にこそ

都知事になってもらいたいと思ったが。

私利私欲がなく大局観があり、顔つきは穏やかだし、政策だって鳥越氏よりは

内容的にもよほどしっかりしている。

鳥越氏は急に立候補を思い立ったというだけに政策の具体的な中身に欠ける嫌いがある。








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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(3)~日本にもいる「ホセ・ムヒカ」

舛添前都知事と「号泣議員」の共通点

 「号泣議員」と舛添氏には共通点がある。
まず「号泣議員」の記者会見の様子を思い出してみよう。彼は号泣しながら、自分が議員になった理由、議員になり何をやりたかったのかを次のように訴えた。

 舛添氏も同じようなことを言っている。
「東京を世界一の街にするために知事になった」。
      ・
      ・
この辺りにも彼の理念のいい加減さが窺えるが、舛添氏自身は気付いていない。

 辞任するにあたり「最も懸念いたしましたのは、オリンピック・パラリンピック大会への影響」というから何とも情けない。都民の生活など端から頭になかったようだ。
 結局、彼が目指したものは「世界一」とかオリンピック等の華々しい舞台で自身が注目を集めることだったようで、その認識のズレが都民との間にあったことに最後まで彼自身は気付いていなかった。

         (中 略)


権力は最も甘い蜜の味

 それにしても人はなぜ権力に執着するのか。
それは甘い蜜の味がするからで、その味は直接、間接を問わずカネと結び付いている。
都知事に限らず国会議員でさえ無料交通パスが利用できるし、様々な名目の下、視察という名の海外旅行が公費でできる。
 舛添氏の公私混同が議会で問題になった後でさえ都議会議員はリオへ大挙して視察に行くことに何の問題意識も持たなかった(辞退したのは共産党議員達だけ)のだから、彼らの頭の中は甘い蜜を吸うことしかないと言われても仕方ない。

 例えば富山市議会。
舛添問題のさなかの6月15日、本会議で議員報酬を10万円引き上げ、月額70万円にする条例改正案を賛成多数で可決

 福岡県北九州市議(自民党)に至っては2年半、市議会を欠席しながら3,340万円の議員報酬を満額受け取

         (中 略)

 まるで蜂が蜜に群がるように、恵まれた給与+特権を求めて議員、知事になる輩がいれば、その周囲にこれまた蜜を求めて群がる連中もいる。
 では、選挙でそういう関係を断ち切るのかと思えば、この国の民もいい加減だから、選挙の時はまた別の物差しを持って来て投票行動をする。
だからいつまでたっても変わりはしない。結局、この国の民自身の中に甘さがあるのかもしれない。

日本にもいる「ホセ・ムヒカ」

 だが、悲観材料ばかりではない。議員、地方首長の中にも数は少ないが清廉の士はいる。
 例えば栃木県那須塩原市の前市長、阿久津憲二氏(72歳)

 和歌山県北山村をご存じだろうか。
奈良県、三重県、和歌山県境にある人口450人程度の小さな村だが、和歌山県といっても和歌山県のほかの市町村と接してない飛び地村だ。
最近では「じゃばら」という柑橘類で有名だから、花粉症で悩んでいる人はご存知かもしれない。

 北山村の奥田貢村長(74歳)が「日本のホセ・ムヒカ」として

         (以下 略)



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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(2)~他人に厳しく自分に甘い性格

都知事の権力の源泉

 どのような権力であれ、その力の源泉は人数とカネである。
実はこの2つは表裏一体といってよく、人数が多いからカネが多く集まるわけで、人数が少なければ集まるカネもそれだけ少ない。
要は数がものを言うわけだ。
権力とは数であるといっても、あながち間違いではないだろう。

 東京都の人口は約1300万人。もちろんほかの道府県よりは多い。
それだけでも都知事の権力は他の知事を上回るといえるが、それだけではなく東京には国内の主要企業の本社が集中しているばかりでなく、海外企業が日本に進出する場合も大半が東京に拠点を構えている。
このことが都知事の権力を間接的に大きくしている側面もある。


         (中 略)

他人に厳しく自分に甘い性格

 舛添氏の行動は一見、矛盾しているようにも思える。
例えば国立競技場建設費削減や、厚生労働大臣当時に見せた厳しい姿勢と、都知事就任後のあまりにも酷い公私混同振り、それも大きな金額をごまかす、着服するような犯罪ではなく、まるで家庭生活で必要なものを公金で賄う、いわば小さな公私混同振りは「セコイ」という言い方がまさしくピッタリで、とても志を持った政治家の行為とは考えられない。

 「号泣議員と同じ」と評した女性がいたが、まさにその通り。
本人は不本意だろうが、次元は一緒だ。
「号泣議員」同様、額は大きくないとはいえ、公私混同振りの常態化が見られただけに見過ごせる問題ではない。

 着服、使い込み等は最初は小さな額から始まることがほとんどで、それが見過ごされ、少しずつ大胆になっていくパターンが多い。

 彼は上昇志向、権力志向が強い人間だったようだが、公私混同振りはそれらと密接に関係しているというよりは、むしろ「他人に厳しく自分に甘い」性格故だった


         (中 略)


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権力の甘い蜜の罠に堕ちた男達(1)~人を虜にする権力という蜜

 甘いものを指して「蜜の味」と言うが、この世で最も甘いのは「権力」という蜜の味だろう。
一度この味を覚えると、よほどの清廉潔白の氏でもない限り、その虜になり、最後は身を滅ぼしてしまう。その好例が前と現東京都知事だ。

人を虜にする権力

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事という椅子に魅せられ、それにしがみ付いているのか。
それほど知事という椅子は魅力的なのか、それとも東京都知事の椅子はほかの知事の椅子より格別に座り心地がいいのか。

 例えは悪いが、道府県知事の椅子が汎用品の中でちょっと高級な椅子だとすれば東京都知事の椅子はオーダーで別誂えした椅子ぐらいの違いだろう。
部課長の椅子と大企業の社長の椅子ぐらいの違いと言った方がいいかもしれない。
機会があれば一度座ってみるといいだろう。
背もたれの高い椅子に腰を下ろした途端、自分が偉くなったような気になるはずだ。

 そう感じるのは椅子の作りがいいからだけではない。社長室の空間的な広さや、そこに設えられてある調度品などからも受けるだろうが、なにより実感するのは部下が自分の指示一つで動いたり、指示を窺いに部屋にやって来るからである。
こうして人は権力を実感し、その力を自分自身の力と勘違いしていく。

 これが権力という力の全てではないし、人が権力に魅せられる全てではない。
権力の魔力は象徴的、感覚的、情緒的な部分よりは、その裏に潜んでいる実利的な部分(甘い蜜)にこそある。あるいは実利的な裏打ちがあってはじめて権力が力を持ちうる。

 人が権力に魅せられ、一度手にすると離したくないとしがみ付くのも権力がその裏で実利的な部分を持っている、実利的な部分とくっ付いているからである。
そのことを白日の下に晒したのが前・現東京都知事だ。

         (中 略)

都知事になりたがる理由

 それにしてもなぜ、彼らは東京都知事になりたがったのか。それほど都知事の職は魅力的なのだろうか。
 まず知名度。


 前都知事の猪瀬氏も欲しかったのは都知事という名誉だったのか、それとも都知事に付きまとう権力という力だったのか。
 彼は以前にも少し触れたが「ミカドの肖像」という労作を著すなどノンフィクション作家としての地位をすでに築いていたし、それなりの稼ぎもあったはずである。
政治の世界にさえ近づかなければ、と思うが、やはり「もっと、もっと」という欲があったのかもしれない。

         (中 略)



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アベノミクスの効果って?



 参院選の火蓋が切って落とされた。

選挙になると勇ましい言葉が並び、ことさら成果が強調される。

言葉は言霊(ことだま)だってことを彼ら政治家は知っているだろうか。

公約もマニフェストも彼らが使えば一片の真実もない「言の葉」になってしまう。

公明党がかつて「平和の党」を自称していたことを、いま何人が知っているだろうか。

いまでは平和どころか自民党の後に付き従うだけの補完勢力。

戦争反対どころか、戦争に賛成する自民党を止められない党に変質している。

庶民のためと言いながら戦争に突き進んだ、かつての歴史と同じだ。

アベノミクス? アベノミクスの効果って一体何だ。

そんなものは地方のどこを探してもありはしない。

一体どこに行けばお目にかかれるのだ。

どうすれば実感できるのだ。

地方で目にするのはこんな光景ばかり。

駅は無人で、列車は1時間か2時間に1本通るかどうか。

通学時間帯を除けば駅に人影もない。

えっ、アベノミクスって滴り落ちてくるものだって?

そうすれば地方も少しは潤うんだって。

いつになれば、その滴とやらが落ちてくるのだ。

いつまで待てばいいんだ。

いつまで待たせるんだ。

その前に俺達も、町も死んでしまうだろう。

選挙目当ての政治家の言葉なんか信用できない。

いつまでも騙されてばかりはいないから、

「経済が争点」と言いながら虎視眈々と改憲を狙う。

衣の下に鎧を隠し、選挙の時だけきれいごとを並べる。

でも、もう騙されない。



デル株式会社
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