言の葉ひらひら - Wordy Leaves Dancing

「はじめに言葉があった」
"In the beginning was the Word."

「私小説 from Left to Right」から読み解く私生活 from East to West

2011-11-11 | 本の葉
最近、バイリンガルやクロスカルチャーに関する児童書や文学にハマっておりまして、そこで日本初の横書き日英バイリンガル小説「私小説 from Left to Right」(水村美苗著)に出会いました。冒頭の頁から、いきなり英語ONLYの横文字世界。でも、あとはこちらにはらり、あちらにはらり、と軽いぼた雪くらいにしか英語は現れませんので大丈夫、中学生程度の英語でも読めるそうですよ。(結構、日本の中学英語って、読解の役には立つんです。)大学院時代、コードスイッチング(二言語以上の言葉を混ぜ合わせて使うこと、いわゆる「ちゃんぽん語」)のリサーチをしていたこともあり、(このブログでも取り上げてましたね)「こんなちゃんぽん小説があるなんて!」と軽くノボせてしまいました。(お風呂で読んでいたせいもある?)対訳付きのバイリンガル本なら結構ありますが、一つの思考の流れが日本語になったり英語になったりしている本ってのは珍しいです。(日本の歌謡曲にはありがちだけど)私の思考言語もちゃんぽん気味なので、こういう文章は自然に脳に染みる感あり。と言うわけで、ページをめくるごとに、いやおうなしに期待が高まっちゃいました!

さて、「言語と文化は切り離せない」とよく言われるように、この小説世界でも、ちゃんぽんなのは言葉だけではなく、文化もまた然り、でした。アメリカで十代から三十代までを過ごした日本人女性の半生記、私が共感できる部分が非常に多かったです。どんな内容かといいますと・・・「私小説」をleft to rightに綴る主人公・水村美苗(著者と同姓同名)は、十二歳の時に家族と渡米し、二十年間アメリカに住みながらもアメリカ人になりきれず、さりとて「モロジャパ」にもなれない大学院生。旧き良き日本に憧れ続け、日米どちらの現実社会にも踏み出せずに、モラトリアムに甘んじている。具体的に言えば、口答試験を先延ばしにし続け、大学町に住みながらキャンパスをも避け、アパートで引きこもり生活を送っている。加えて同棲していたモロジャパな「殿」にも去られたばかりで、篭る一人暮らしのアパートの空気の重いこと、重いこと。でも、この感じ、少しわかります。空気って、体や心を動かしていないと固まって、どんどん身動きが取れなくなるんですよね・・・。孤独ってある意味、自己責任なのかも。

そんな美苗よりも、もっと危なっかしいのは、二歳年上の姉・奈苗。見た目と振る舞いは、基本アメリカナイズされた上、インターナショナルな男性暦を経て、国籍不明の体を晒しています。彫刻家なれど彫刻だけでは食えず、バイトで食い繋ぐ生活。マンハッタンのSoHoのロフトに猫二匹と住んでいる、と言えばオシャレな感じもしますが、呑んだくれ無職DV男と同棲し、妹・美苗に電話でグチる毎日。面の皮厚いようで、泣き虫。自由奔放なようで、繊細。気さくそうで、ソノビッシュ。ミーハーなようで、保守的。日本人らしくないのに、日本に拘る。とまぁ、面白い人です。この姉妹、かなり両極端なんですが、どちらも私と似ているところがあるなぁ・・・

この小説の殆どは、姉妹にとって「渡米二十周年記念日」となった或る一日の間に交わされた、二人の“only you know what I mean”的日英ちゃんぽん長電話会話で占められています。数回の通話の合間に美苗の一人称の語りが挟まれて、二人の現状や過去が浮かび上がっていく、という構成。渡米記念日ということも手伝ってか、二人は感慨深げに日本での幼少時代の思い出や、互いのアメリカ順応(もしくは非順応)の歴史を語り合います。終盤に重い空気が入れ替わるようなカタルシスがあるといえばありますが、筋らしい筋はあらず、話を区切る章もない、不思議な本です。でも、私は筋で引っ張るプロット先行型の小説より、キャラやテーマ、または描写や表現で読ませる小説の方が好みなので、問題なし。キャラ的にも背景的にも共感度は高かったし、テーマはド真ん中に好みだったし、随所に「上手いな〜」と思わせる文章があったし、字ズラに拘っているところも、詩的で素敵。ってなわけでワタシ的には、かなりハマりました。湯船のお湯が冷めても、読みふけっちゃったほど。

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長〜い前置きになってしまいましたが、いよいよ「私小説 from left to right」、略して「しレラ」(←略し過ぎ)に、様々な角度から切り込んでみたいと思います!(ネタバレを避けたい方は、ここまでにした方がいいかもしれません)(というより、ここまで読んでくださった奇特なあなた、ありがとうございます。覚悟あらば、ここからもご一緒しませう。)


I.渡米の動機と順応力の関連性

共感したと言いながら、相違点の「違」から語るのもなんですが、同じように十代で渡米して約二十年近くアメリカ暮らしをしてきた美苗と私には、多くの違いがありました。まずは、美苗の「受動的な渡米」 と私の「能動的な渡米」、そして、美苗の「日本への回帰傾向」 と私の「アメリカへの順応傾向」ですね。そして渡米の動機と順応力の間には関連性があるようで。「上昇志向がそのまま西洋指向につながったような」両親に連れられ渡米した中学生の美苗は、最初のハネムーン期こそは「アメリカの豊かさを自分の豊かさのように」誇っていましたが、すぐに夢に見るまでにも日本を恋い偲ぶようになり、アメリカに連れてこられた自分の運命を疎うようになります。それなのに、二十歳になるまで再び祖国の地を踏むこともできず、「日本人であることの証を日本語に求めて」、日本近代文学を読みふけるようになるのです。しかも「いつか日本に帰るのだから」と英語を学ぶ必要性は、全く感じていない。その結果、彼女の性格には釣り合わないような変人(?)にしか相手にされないソーシャルライフを送り、彼女の知能に釣り合わないようなアカデミック評価を受けるという不毛な小・中学生生活を送ります。(歯痒いわぁ)

私の場合はと言えば、自ら好んで単身留学をし、いずれ日本に帰ろうとも思わず、バカにされてなるものかとサバイバル英語を身に着け(サバイバル英語で満足してしまった感はあるが)、早く現地人の親友やBFを持とうと躍起になっていたのでありました。かといって、日本文化を疎んじていたというわけでもなく、日本人留学生仲間と、トレンディドラマ(既に死語)の一気観をしていましたし(今もしてるか)、一年に一度は日本に里帰りしていましたから、それほど望郷の念に胸焦がれることもなく、アメリカ生活を送れたのかもしれません。アメリカと日本両方の若者文化を吸収しようとした所は、奈苗に似ているかも。それに、自分の決断で来たせいか、美苗のような「連れて来られた」的被害者意識や、「アメリカに来てなけりゃ、今頃私だって・・・」的たられば思考も、なかったですね〜。これは過去に受け持った、駐在員の子どもと単身留学生の間にも見られた違いです。でも駐在員の子どもでも、「どーせアメリカに住むなら、楽しんで、頑張って、得られるもん得たる!」と開き直った生徒は、強くなっていきましたね。被害者意識のあった子どもは伸び悩んでいたし。やっぱり、「変えられないものを受け入れる力」は、大事です!

II.言葉を通じての祖国とのつながり

最近、私の教える補習校の卒業生達が、ノートいっぱいに漢字を書いたりして、アメリカにいても自分は「日本人だ」という意識を保っていると聞いて、「へえ、そんなことするんだ」と感心していたのですが、いましたよ・・・ここにも似たようなことしてる人が。現地校の授業中に、写経のごとく日本の住所をノートに書いたり(しかもコダワリの縦書き)、ひらがなの美しさにウットリしてみたり、果てには高校の授業をサボって、日本の小説を読みふけったり。(良い子はマネしないよーに!)そんな美苗の言い訳(?)は、「私は日本人であることの証しは血にはないことを知るようになった。以来私は寝ても覚めてもそれを日本語に求めたのである。」こうして健気な古文オタクが出来上がっていったのでした。チャンチャン♪

渡米後、日本語に日本とのつながりを求めた所は美苗も私も同じなんですが、彼女はそれを日本近代文学に求め、私はそれを現代の音楽・ドラマ・小説・ネット等に求めたという違いもひしひしと感じました。片や美苗は「企業」は読めなくても「美人局」(「つつもたせ」と読むそうで)を何と読むかは早々と学び、対する私は「ぶっちゃけ」や「〜っすか」といった表現を覚えていったというわけです。初の日英バイリンガル小説と謳われる本書ですが、実際は英語より古文の占める割合の方が高いかも。「No, no.もっと古風に。――われ叫びいでん、懷かしきわが國よ、わがふるさとよ、われ今おんもとに歸りきぬ…」ってな具合に。ある意味トライリンガル小説かもしれないわ、これ。日本の高校で国語を学ばなかった私には、古文のほうがまるで外国語のようでしたよ、正直言って。私にとって一番身近な古文らしきものは、椎名林檎の擬似古文調歌詞かもしれん・・・こんな「なんちゃって日本人」で大丈夫なのか?私。

III.アメリカ社会との共通語

ところで、この小説にはアメリカ文化を語るには欠かせないはずの宗教の要素が不思議なほど皆無なのですが、私がクリスチャンであることも、宗教を持たない(と思われる)美苗との大きな違いでしょう。言語は変われども、同じ讃美歌や聖書物語という「共通語」があり、同じ信仰という共通の宗教的かつ文化的価値観があったことは、ラッキーだったと思います。これまで、カナダ、アメリカ、そしてアフリカに移り住んできましたが、同じ宗教ベースのコミュニティーだったためか、国境は越えても遠い親戚と付き合っているような、どこか地続きみたいな感覚がありました。(もちろん他にも信仰を持つ利点はありますが、それはいずれまたゆっくりと。。。)

ですから、アメリカ人と宗教という共通語を分ち合わなかった奈苗と美苗が、「万国共通語」とも呼ばれる音楽や芸術、また第三外国語の分野で、アメリカ人と同じ土俵に立とうとしたのかもしれない、というのは私の深読みのしすぎでしょうか?英語の勉強よりも、絵を描くことやフランス語の勉強に熱心な美苗。ピアノや彫刻や自らの性を通して、自己表示を試みる奈苗。言葉以外にも、使える武器はたくさんありますものね。ある人にとって、それはスポーツだったり、歌だったり、料理だったりする。世界との共通語とは、すでに自分の中に培っているものなのかもしれない。・・・もし、言葉を剥ぎ取られたら、あなたは何で勝負に出ますか?

IV.在米アジア人の溶け込み度、ところ変われば

同じアメリカに暮らすと云えど、アメリカは広し、です。水村一家は渡米直後にニューヨークに家を構えており、NYで育った娘達は東海岸の大学を卒業してからNYに戻ってそれぞれ一人暮らしをしている。そんな美苗が奈苗に、こう言う場面があります。「Californiaに育ったらもっとアメリカにとけこめたじゃない。・・・今ごろアメリカ人になってたかもしれない。」二十年間東海岸でしか暮らしたことのない姉妹の想像の中では、カリフォルニアのアジア人達は「私ダッテアメリカ人ヨ!」的顔で歩いているのでしょう。確かにここカリフォルニアにはアジア人が多い。でも、顔つきは様々です。「アジアの遺産」としてナショナル・ジオグラフィックスの表紙を飾れそうな誇り高い顔、「受け入れてもらえますかね」的心もとない顔、「私ダッテアメリカ人ヨ!」と気張っている顔、もはや自分が溶け込んでいるかどうかさえ意識することもない地元顔、などなど。私はどんな顔をしているんだろう・・・カリフォルニアに移って三年目、最近では日本の店の店員に日本語で話しかけられることも増えてます。(笑)

この十八年の間に、カリフォルニア、ミシガン、バージニア、そして再びカリフォルニア、と移り住んできた私も、アメリカのどこに住むかで外国人に対しての視線が違うのは、肌で感じてきました。州によって、雰囲気もまるで違いますしね。確かにカリフォルニアでは、アジア人を見慣れているせいか、妙な視線を感じることはあまりありません。(田舎では違うらしいですが)ただ白人にとってアジア人はみな同じように見えるらしく、どこの国から来ていようと、何年アメリカに暮らしていようと、いつまでも総まとめにone of themとして見られている感はありますよ。でも、私の目から見れば、FOB(fresh off the boat=渡米ほやほや)から代を重ねた移民まで、こんなに歴史の厚みを感じるアジア人生存地帯は、アメリカ広しと言えどもそうありませんって。顔つきも服も立ち振る舞いも違う。もう、在米アジア人図鑑ができちゃいそうな面揃えかも?

中西部のミシガン州には一番長く住みましたが、留学生の多い大学のキャンパス近辺や日本人の多い街に住んでいたせいか、そう物珍しげな目では見られませんでした。(これも、田舎では違うらしい)でも、私の元ルームメイトのフィリピン系アメリカ人の友人は、よく「どこの国出身?」と聞かれ、「シカゴよ」と答えると、「え、外国じゃないの?」的ケゲンな顔をされていました。(訛りも全くないのに)これは、アジア系移民の歴史がカリフォルニアより短いせいかもしれないし、留学生の多い地域だったからかもしれません。(でも、カリフォルニアでは、こんな反応をするアメリカ人はあまりいないと思う。)それから、学生から社会人になってから、外国人扱いを受けることが増えた気もします。大学における留学生の割合より、社会における外国人雇用者の割合が圧倒的に低いから、当たり前か。でも、かなり違和感あったな〜、当時は。

しかし、バージニア州の学校に面接に行った時には、おったまげましたね。「アメリカの別の顔を見た!」って感じでした。レストランに入ったら、客はみんな白人で、半分くらいはカーボーイハットやらカーボーイブーツやら履いたおっちゃんで、バリバリ南部訛りで、「よそもんが来たぞ!」的目で見られて。(まだdeep southじゃないのに)そして学校創設以来、初めての非白人教師となった私は、「英語は変だけど、先生愛してるよ」と言われたり(苦笑)、村上春樹氏の「卵と壁」スピーチを授業で紹介したら、「自分が日本人だからって、日本人作家を紹介するなんて、先生はレイシストだ。」と生徒に言われたり、(そもそもレイシストの意味わかってるのか?)同じ年度に雇われた韓国系アメリカ人の先生に間違われ続けたりしましたっけ。この先生についても、「○○先生は、英語うまいよね」と生徒が話しているのを聞いたけど、その人アメリカ人だから!(まぁ、日本人なのに、タレント・ショーでアフリカ踊りを披露した私は、かなり異色であったと思われる・・・)それから、バージニアには植民地時代や建国時代や南北戦争の名残があちこちに残っていて、記念碑やら南軍の旗やらよく見かけたな〜。毎年、近くで南北戦争の再現劇をやってたし。まぁ、一言にバージニアと言っても、DC寄りだとメトロポリタン・カルチャーで、ウエストバージニア州寄りだとレッドネック・カルチャー。私がいたのは、もちろん後者。男子は狩で鹿を射止めれば一人前と認められるらしく、狩について書かれた作文が幾つも提出されたのが印象的でした。そういう世界がまだ残っているんだ、と感慨深かったっけな。開拓者精神よ、永遠なれ。

なんだか私のアメリカ体験談になりつつあるので、「しレラ」に戻りますが、美苗も奈苗もアジア民族ひとっ括り扱いには、大いに違和感があったようで、泣いたり赤くなったりと激しい反応を起こしてましたね〜。確かにアメリカに来てから、他のアジアの国々との関係について考えさせられることが、増えました。日本は、アメリカにとってもアジアの諸国にとっても敵国だったことがあり、他のアジア諸国とはひとくくりにはできない微妙な立ち位置ですし。その辺を、成長するにつれちゃんとわかってきた美苗には、好感もてました。それから、奈苗の「みっともない人だって思われるの、みっともない人種だって思われるより気楽じゃない」というセリフにも、妙に腹オチ。アメリカにいたらね、やっぱり頭のどっかでそういうこと意識してるわけですよ。ちょっぴり国を背負ってる感が、ある。でも、日本だったら、会社や家を背負っている意識がもっと強いでしょうから、どっちもどっちなのかな。何にも背負ってない個なんて、ないのかもしれません。

V.教師像に学ぶ

この本には魅力的な教師が多く登場します。未だ社会に出ていない美苗にとって、教師の存在は大きいものだったのでしょうね。アメリカで理不尽な想いをしてきた美苗ですが、教師との出会いには恵まれていたようです。いえ、実際には酷い先生もいたかもしれませんが、彼女が記しているのは、美苗の才能と本質を見抜き引き上げてくれた先生や、自分の教える分野に誇りを持っている教師ばかり。教師たるもの、かくあるべし!だな。

まずは、中学のESL(英語が母国語でない生徒のための英語のクラス)の先生、Mr.Keith。美苗の拙い英作文に文才を認め、ESLクラスから優等生クラスに、引き上げてくれた先生です。(正確には、ESLとHonorsの両方をとるようにアドバイス)高校時代、いつESLを抜け出せるかとアクセクしていた私、そしてその十年後には高校でESLを教えていた私としては、身につまされました・・・私の高校時代には、これでESL終了!という明確な判断基準はなかったため、かなり不満がありましたっけ。そして私が教えていた高校ではTOEFLが基準でしたが、それが最善の判断材料だったかというと、疑問もありましたね。・・・ま、話をMr.Keithに戻しましょう。彼がESLクラスを教える時と、優等生クラスを教える時では、全く違う顔を見せるくだりは、興味深かったです。でも、どちらのクラスにも入ってみたい、と思わせるところが、さすが。そして、美苗が高校に進学する前のアドバイス、"Don't forget your Japanese." にも、愛を感じましたね。("your"が入っているところに、グッとくる!)

お次は、高校の美術の先生、Mr.Shermanです。当時は珍しかった黒人の教師で、白人社会に迎合せず、黒人として、そして一人の芸術家としての誇りを持って、高校生の「アートはeasy A」的認識をビシバシと張り倒していく先生でした。(カッコええ)それと比べて、私の教えたアートクラスは、かなりお気楽なものでしたがね。Mr.Shermanと比較すると、アーチストとしても私は未熟なもんで・・・方向性も表現法も、まだ確立されていない。(ションボリ)それから、非白人同士の連帯感についてのエピソードにも、「あるある!」って感じでした。この先生に出会い、美苗はアート系の大学に進むことになるのでした。

その後、大学院では仏文学を専攻した美苗。ここでも強烈キャラ達が現われます。まずは、イスラエル系の仏文科のアドバイザー、Madama Ellman。大学院を卒業した後に日本に帰るという美苗に、「故郷は戻るべき場所にに非ず。」(イスラエル人が言うと、なおさら重い)と、キビシ〜い一言:「確かに日本に帰っても、孤独かもしれません。」と答えた美苗に、さらに研ぎ澄まされたご返答:「孤独こそ、ものを書く人間の条件なり。」ひえ〜、まるで禅問答のようだわ。でも、そのとおり!これまでにもここで、谷川俊太郎氏の「集合的無意識」や、長谷川櫂氏の「孤心とうたげ」について語ってきましたが、昇華させるまでに私が孤独と向き合えるようになるのは、いつになることやら・・・

そして大トリは、「ヨーロッパの知性そのもの」と形容される(どんだけ凄い人なん!?)大教授"Big Mac"(マクドの商品ではない)。日本語で小説を書きたいが、「カリフォルニアの日系人のようにアメリカに根をおろし、英語で物書きになろうとしていた人生の方がよかったのではないか?」(カズオ・イシグロの加州版?)と迷う美苗を、「ナンセンス!」と跳ね除ける。(あっぱれ!)「そうしたら君が君でなくなってしまう。」ふ〜む、私が私である表現方法って何だろう。この本を読んで、また少し明確になってきたかも。さらに、Big Macは翻訳者でもあり、「言語の本質にある、他の言語に還元できない固有性を慈しんで」おられたそうです。そうそう、「こっちの言葉じゃなきゃ、しっくりこない!」ってのがあるから、ちゃんぽんしちゃうんですよね。「英語と日本語、どちらが話し易い?」と訊かれても、「場合によりけり」としか言えませんもん。「本妻も愛人も、それぞれ良さがあって、捨て難いんだよな〜」みたいな?いや、たとえが悪くてすんません。でも、あくまで日本語が妻ですからっ!

とにかく、良い教師の素質というのは万国共通ですよね。そりゃあ、教えるスタイルや教育哲学にはお国柄が表れるけど、人柄や熱意や誠意はそれらの違いをも超える。これは、どの職業についても言えるのでしょうけれど。

VI.家族の妙

もう一つ万国共通なのは、家族との確執。こちらも、たっぷりと見せてくれますよ〜。奈苗と美苗の関係は離れたくても離れられない「腐れ縁」って感じなんですけど、腐っている部分だけではなく、新たな気づきや発展もある。二人が同じ○○を見ていたことが初めて分かったくだりでは、なんかホロリときちゃいましたよ。そして終盤では、互いを思いやり、二人で大泣きし、これまでの人生を肯定して終わる―その先は描かれていないけれど、この姉妹それぞれ何とかやっていけるだろう、と思えました。(ごめんなさい、ネタバレて。)まぁ、兄弟姉妹がいるって、やっぱり悪くないですよねえ。

そして古今現在、どこでも見られる母VS娘のバトル!性格的に奈苗は母親はガチンコ対決しちゃうタチで、対照的なオリコーさん・美苗は冷静に分析。子どもの頃は芸術的才のある奈苗の影となり放っとかれた感のある美苗は、大人になると母親に頼られるようになり、反対に大人になっても頼りない奈苗は放っとかれるようになっちゃうんです。ああ、無情。この母親が美・苗・だ・けに宛てて書いた手紙を読んで、「何て勝手な母親なんだ!」って、私は腹立ちましたよ。(ここも私は奈苗寄りだな)美苗は「血のつながるものへの嫌悪と愛情と罪の意識」が入り混じったものを感じたようですが、それでも冷静に対処しています。それにしても、このお母様も自由奔放な方でね〜。手紙の中でも「いつか生い立ちの記を書きたい」と記しているのですが、実際に「高台にある家」という本を出されています。親子二代で自伝を出しているなんて、やっぱり血は争えんわ。彼女の自由奔放さは奈苗に受け継がれ、記述欲求は美苗に受け継がれていったように見えますし。(でも、私の記述欲求は、いったいどこから来たんでしょうかね?)

また、日本の駐在員の息子と娘の育て方の違いにも、「そうだったのか!」と思わずポンと膝打ちしそうでした。「滞在がのびれば、息子は適当なところで日本に帰し、日本の大学にやる。男は日本の社会の成員になる必要があったからである。その代わり娘は手元に置いて外国の大学にやる。いづれ日本の男と結婚させればよかったからである。帰国子女と呼ばれるのに女の多い所以であった。」とな。まぁ、時代の違いもあるでしょうけどね。さらに帰国子女育て論は続きます―「娘はいくら外国で育てられるといっても、日本の男―日本の社会に受け入れられるよう育てなければならなかった。娘がペラペラ英語を喋ると言っては犬が芸当でもしたように相好をくずす親でも、その程度のことは心得ていたのである。」いやぁ、犬が芸当って、奈苗さん(笑)。しかし、「その程度」のことを心得ていなかったのか水村夫妻、「娘の未来の夫には当然のように日本の男を想定していたくせに、娘がいつとはなしに日本の規範から逸脱していくのに、良くいえば寛容、悪くいえば鈍感だった」らしく、三十代の娘二人は売れ残ってしまってる。(人のこと言えませんけどね(苦笑))私もその辺りに鈍感だったらしく、今じゃどこの国の人で何色の人と結婚するのか、皆目検討つきませ〜ん。アメリカ人でも日本人でも、しっくりこないのでは?と悩みます。最近、私のクラスの日系人やハーフの子どもたちにアンケートをしたんですが、「将来は何人(なにじん)と、結婚すると思いますか?」との問いに「いい人」と答えていた子がいましたっけ。うん、いいぞ!私もシンプルに行こうっと♪

VII.美苗のその後

[この本を読んでから、一ヶ月以上「しレラ」について書き溜めて参りましたが、書く程に書きたいことが出てきてしまう。他にも、「持つべきものは友」「しレラちゃんぽん分析」「使われなかった人生を想って」「芸術家が陽の目を浴びるまで」など、「しレラ」関連ネタを書き続けたい私ではありますが、それでは今年中にブログに載せることができそうにないため、「美苗のその後」で一旦打ち切りたいと思います。(ここまで読んできた方、ホッとしました?)まぁ、気が向いたら、続きも書きますよ。(「アンダーグラウンド」の感想の続きさえ書いてませんが・・・)]

この「私小説」の中で「日本語で小説を書きたい」との想いを姉と親友に打ち明けた美苗でしたが、実際に帰国後に「続 明暗」「私小説 from left to right」「本格小説」と水島美苗の名で本を出版し、高い評価を得、様々な賞を獲っています。奈苗に「漱石みたいにだって書ける」と言い放って呆れられた美苗でしたが、本当に漱石の「明暗」の続編「続 明暗」を書いた水村氏、ただもんじゃない!処女作に大文豪による小説の続編を書くなんて、すんごい度胸&才能ですよね。しかも、その執筆目的が漱石のように書くこと以上に、漱石より面白く書くことだったというから、驚くじゃありませんか。NYのアパートでグズグズしていた大学院生と同一人物とは思えません!(まぁ、小説的脚色はあったでしょうけれど。)

と、すっかり水村美苗氏その人にもハマった私、興味深いインタビューを見つけました!その彼女の言葉の中に、悶々としていたモラトリアム大学院時代の美苗と作家・水村美苗氏を繋ぐ軌跡が見えたのです。「私は作家になったのが遅く、だらだらと無駄な人生を歩んできた、小説の執筆に役立たない捨て札ばかりの人生を歩んできた、とずっとそう思っていたんです。それが『本格小説』を書いているうちに、捨て札があれよあれよとすべて生き札となったの。大変な歓びがありました。」捨て札が生き札となる瞬間って、あるんですね〜。人生、無駄なことってないのかも。そう思えただけで、この本を読んで水村氏に出会えた価値がありました。あなたが捨て札だと思っていた札だって、いつか生きる日が来るかも!?

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おわりに

書評というより、水村姉妹のアメリカ体験談と私のアメリカ体験談の比較みたいになってしまいましたね。しかも、私の話の方が長かったりして。(なんで、タイトルも後でこっそり変えました。)そうか、私もこの姉妹の会話に入れて欲しかったのかもしれない。こんな話を、誰かととことん、したかったのかもしれない。その代わりに、延々と独り言をブログに垂れ流してしまい、すみませんでした。でも、この本のおかげで、固まっていたこのブログの空気も流れ出した。窓、開けられました。・・・美苗さん、ありがとう。待っていてくれたあなたにも、ありがとう。そして、私にしかない人生と札を与えてくれた神様、ありがとう。


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日本へ II

2011-03-21 | 詩の葉
日本へ II


傷つくあなたを見て、
やっと
あなたを愛しているということを
思い知らされた

苦しむあなたを感じて、
やっぱり
あなたが私の一部だということを
突きつけられた

どんなに遠く離れても
どんなに長く留守にしても
あなたは私の国には変わりない
私の土台には変わりない

(他の国が苦しんでいる時にも
同じ痛みを感じなければ
真の国際人とは言えないのかもしれないが、
私の胸の内にも国境は存在するようだ・・・)

こうして
あなたの体は2.4メートル、私に近づいた
こうして
私の心は太平洋超え、あなたに近づいた


あなたが感じる痛みに
寄り添いたい

これから
立ち上がるあなたを
助けたい

これまで
私を育んでくれたあなたに
お返しをするためにも

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「日本へ」というタイトルで書き出したのですが、「前にも『日本へ』って詩を書いたような・・・」と思って探したら、ありました、ありました。(コレ) ってことで、これは第二弾です。あれ、私って、結構ジャパン・ラブなんですね。日本ネタの詩は幾つか書いてますが、アメリカネタは一つしか書いたことがありません。擬人化もしてません。(ここには載せてませんが。)いやぁ、「失わないとその大切さに気がつかない」ってよく言いますけど、「有事になって初めて気付く」っていうのも、それに近いものがありますね。まぁ、それだけ甘えがあった、ってことなんですけど。でも今回は、甘えてられないわ。逆に私にちょっと甘えてくださいな、日本さん。


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(後日談)
ブログでこの詩を公表してしまってから、日本は西に2.4メートル動いたのではなく、東に2.4メートル動いたのだと知りました。方向音痴ぶりを晒してしまい、すみません。

元はこうでした。

「あなたが2.4メートル
 私から遠くなったとしても
 私の心は はるかに
 あなたに近くなった」

さすがに、そのままだと事実に反するので、五連目だけ書き直させて頂きました。(11月12日付け)

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Dear Japan II

2011-03-21 | a leaf on POETRY
Dear Japan II


When I saw you hurting
I finally realized
How much I actually
Loved you

When I felt your pain
I assuredly knew
You were a big
Part of me

No matter how far you are
No matter how long it’s been
You are still my country
My roots

(A true world citizen
Would feel as much pain
When other countries are suffering,
But my heart is not so borderless…)

So your body moved eight feet
Towards me
So my heart moved across the pacific
Towards to you

I want to be
Beside your pain
Now

I want to
Lift you up
In the future

As to
Pay back
For raising me
In the past

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So I started writing this poem and realized I've written one titled "Dear Japan" already. (It hasn't been translated though.) So this is number two. Anyway, I must be into my country, seriously! I've written several poems about Japan, but only written one about the U.S. I haven't used personification on her either. (And I haven't made it public.) Sometimes we don't realize its worth until we lose it. Likewise, we don't realize its worth until it's damaged. Taking for granted she was. But I can no longer take her for granted...It's about time you lean on me a little, Japan.

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(Added as of Nov.12, 2011)

You know, I found out that Japan moved eight feet eastward instead of eight feet westward! That's my bad. Let's blame it on my directionally-chagllengedness.

I originally wrote:

"Though you moved eight feet
Away from me
My heart has grown
Much closer to you"

But of course this is not true to the facts, so I had to rewrite the 5th stanza. Sorry about that.
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東日本大震災後の日本のための祈りの課題リスト 

2011-03-20 | 神の葉
東日本大震災の影響で被害を受けた方々、不自由を強いられている方々、心を痛めている方々に、心よりお見舞い申し上げます。

私が毎週出席しているカリフォルニアの日本人教会で、日本のために特別祈祷会が行われました。そのために、祈りのリストをつくったので、教会や集会所などでご自由にアレンジしてお使いください。…とはいうものの、実は半分くらい他のサイトの祈りのリストからパクリ、カテゴライズしただけです。(Prayer Chain for JAPANさんとClaycomo Baptist Church Missions Blogさん、ここにてお礼申し上げます。)他にも祈りの課題の事項を送って頂ければ、付け加えるかもしれません。(状況は一刻一刻変わっているので、しょちゅうアップーデートが必要な事項は載せられませんが、ご了承ください。)

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神様のために:
−神様の名に栄光が帰され、恨まれることのないように。

天災と人災のために:
−海と地と風と気候が治められ、自然が落ち着きを取り戻すように。
−原発発電所の原子炉が冷却され、炉心融解が防げるように。放射能漏れの範囲が広がらず、量が増えないように。

日本政府と国民のために:
−政治的リーダー、自衛隊、救援隊、企業、そして各個人が最も効果的な判断をくだすための知恵と持久力を与えられるように。
−原子炉の状態についての正しい情報が提示され、それに対して日本国内と国外の人々が常識を持った反応が出来るように。
−国民が情報の妥当性を吟味し、適切な判断をすることができるように。
−愛する人、生計、財産、そして機会を失い絶望している人々が慰められ、哀しみを乗り越えて希望を持つことができるように。
−住居、食料、生活必需品に欠く人々に、必要な物資と安全な環境が提供されるように。
−被災地のリーダーと人々が共に再建に向かって助け合うことができるように。
−被災地以外の地域の人々が思いやりを持ち、買いだめをやめ、被災地の人々のために募金、物資援助、支援活動などのサポートを提供できるように。
−計画停電による事故や、略奪、詐欺などの二次的災害を防ぐことができるように。
−国も国民も、現実的に長期的復興の計画をたて、それをやり通す事ができるように。

日本のクリスチャンのために:
−周りの情報に流されず、神様の声を聞いて、平安と希望を得ることができるように。
−援助活動、寄付、心遣い、そして福音を通して人々を助けることができるように。
−聖霊の促しに敏感になり、その場に応じた適切な助けができるように。
−教会にリバイバルがもたらされ、自分も周りの人々をも再臨に備えることができるように。
−日本の各地で霊的な覚醒がもたらされ、クリスチャンの働きとメッセージが受け入れられるように。

日本以外の国や人々のために:
−惜しみなく救済活動、募金、物資援助、励ましの行動や言葉などを与え、彼らが与えることによって祝福されるように。
−国家間の政治的な壁や、人々の間の偏見や差別が取り去られるように。
−この災害をきっかけに、世界の人々が霊的に目を覚ますことができるように。
−他の震災の被災者たちがフラッシュバックなどを経験せずに、日本の被災者の心に寄り添うことが出来るように。また、彼らのための長期的なサポートや寄付が、忘れられることがないように。

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Prayer Requests for Japan: After the East Japan Great Earthquake Disaster

2011-03-20 | a leaf on GOD
My heart goes out to those who are suffering greatly because of the disaster in Japan, those who are inconvenienced, and those whose heart is aching with them.

At my home church, a Japanese Church in California, a special prayer meeting for Japan was held. I made this prayer list for the meeting. Please feel free to use it and adopt it as you like ...In fact, they were partially copied & pasted from other sites, then were categrized. (Special thanks to Prayer Chain for JAPAN and Claycomo Baptist Church Missions Blog.) If you have more requests, please send them to me and I may add them on. (Please understand that I won't be able to make a minute-to-minuite update, so please keep it fairly general. Thank you!)

*************************************

For God:
−For God’s name to be glorified, not to be blamed.

For Natural & Human-generated Disaster:
−To control the sea, the earth, the wind and weather and bring calm as only He can.
−For the nuclear plants to be cooled down, not meltdown. Stop radiation from spreading further and more.

For the Government & People suffering:
−For Japanese government leaders, Self-Defense Force, relief agencies, enterprises, and each individuals to have the endurance and knowledge to respond most effectively.
−For the right information about actual situation of the nuclear plant to be disseminated and a sensible response from people in and out of Japan.
−That people will have wise discernment as to the validity of information.
−For the individuals who are facing grief, from loss of loved ones, livelihood, possessions and opportunities to be comforted, and to overcome grief eventually and find hope.
−Protections and provisions for those who lack shelter, food, water, and other supplies.
−For the local community leaders and people to rebuild their lives in the damaged areas.
−For the people in less effected area to care, to stop storing up unnecessarily, but send supplies and donate money to people in need.
−Secondary disasters, such as accidents from power stoppage, looting and frauds to be prevented.
−For the government and individuals to make realistic long-term plans to rebuild the country and their lives, and for strength to carry them through.

For the Christians & Spiritual Needs in Japan:
−For Christians to listen more to God than to what is out there, to stay calm and hopeful.
−Empower Christians to contribute through relief efforts, donations, care and the gospel.
−That Christians will be sensitive to the Spirit when taking action to help.
−For revivals in churches to prepare and proclaim the soon coming of Jesus.
−For spiritual transformations of people to be more receptive to God’s works and messages.

For Nation & People Outside of Japan:
−To be generous in providing troops, relief agencies, giving donations, supplies, prayers and other supports, and for the givers to be blessed through the act of giving.
−That the political barriers between nations and prejudice of people will be done away.
−That this disaster may be a spiritual wake-up call for people around the world.
−For other disaster victims not to experience the flashbacks, but to empathies and care for those with similar experience. That long-term support and donation for them will not be forgotten.

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サラリーマン川柳に垣間見る現代日本社会と日本的愛の変化球

2011-03-01 | 教の葉
(またまた長ったらしい論文風のお題で、ごめんなさい。趣味です。)

さてさて皆さん、今年もサラリーマン川柳の締切りが近づいて参りましたよ!(第一生命の回し者ではありません。)私がミシガンに住んでいた頃は、お世話になっていた日本人家族がよくサラリーマン川柳をお食事会などで皆さんに紹介されていたので、ある程度は親しんでいたのですが、それから数年間ご無沙汰しておりました。で、ただいま日本語と日本文化をアメリカ育ちの日本人・日系人の子ども達に伝えるべく奮闘中ですので、「おお!そういえばサラリーマン川柳というものがあったなぁ!」と思い出したのであります。授業のネタに使おうと、早速リサーチ。さぁ、どれだけ浦島花子になっておりますことやら・・・

などと、思いつつこちらを見てみたのですが、インターネットのおかげか、あまり取り残され感はありませんでしたよ。(ホッ)で、ついつい一気に過去二十年分ほど読んじゃったのですが(ベスト10だけね)、過去二十年の日本社会を少〜し垣間見た気持ちになりました。さて、サラリーマン川柳って、だいたい次の5つのパターンに分けられると思うんですが、

その1:残念な配偶者・家族に呆れる類い
その2:残念な会社の人間・システムに呆れる類い
その3:残念な政治・世相に呆れる類い
その4:残念な自分を自嘲する類い
その5:残念な体型を笑う類い

これらの思わず膝打つ「残念!」な本音をペーソスとユーモアで味付けて、五七五に仕立てたものを、「サラリーマン川柳」と呼べばよろしいでしょうか。しかし、どれを授業で使うか結構迷いましたね〜。「それじゃあ、お父さん可哀想じゃない?」「それは奥さんにあんまりじゃありませんか!」「この国、ホントに大丈夫か?」と言いたくなってしまう句、絶対多数!これでは、日本を誇りに思ってもらうことなど出来ないわ!と先生は激しく(?)悩み、(サラリーマン川柳で日本を誇りに思うこと自体に無理があるとは思われますが、それは置いといて)お父さんもお母さんも子どもも日本も殆ど傷つかない「良い子のサラリーマン川柳」ってことで、下記の十句を選んでみました。

1.やせたのは 一緒に歩いた犬の方(→説明不要)
2.コスト下げ やる気も一緒に 下げられる(→説明必要)
3.まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる(→説明必要)
4.「前向きで」 駐車場にも 励まされ (→説明必要)
5.太るなら おいしいもので 太りたい(→説明不要)
6.カーナビを 使える頃には 道覚え(→説明必要)
7.入歯見て 目もはずしてと せがむ孫(→説明不要)
8.目で言うな 言いたいことは 口で言え(→説明不要)
9.うわさの木 根も葉もないのに 良く育つ(→説明必要)
10.まじっスカ スカがついてて ていねい語(→説明必要)

というわけで、ほとんど説明が必要だったのですが(笑)、それは想定内。でも、少しは日本語と現代日本社会の勉強にはなったかと。私的には最後の「まじっスカ スカがついてて ていねい語」がヒットでしたね。ていねい語の説明もできたし。はい、間違えても「〜っスカ」がていねい語とは教えてませんから!これは、「〜ですか」という正しいていねい語の若者ことば的変形型だ、と。「まじ」は知ってましたけどね。でも、知らなかった「〜っスカ」を教えちゃったってことは、逆に教育的ではないような・・・まぁ、言葉はナマモノですから!(←苦しい時の言い逃れはいつもコレ!?)そう、「言葉は教科書にあるだけじゃねぇ!現場で変わってんだ!」ってやつですよ。(古いか)

それから放課後、選ばれなかった「良い子の、じゃないサラリーマン川柳」を見直していたら、ある言葉を思い出しました。「実は、女は好きな男に呆れたがっている。」(誰だったかな?多分、紫門ふみあたり)これは読んだ当時、結構目からウロコだったんですが、作者曰く「堂々と呆れることができるのは、事実をあからさまに言えない他人ではなく、愛情を受けている者の特権」ということなんですね。つまり、「呆れる」とは「愛の変化球」なんですと。わかります?「恋女房 いつか知らずに 肥え女房」なんて、自分の旦那に言われるなら笑えますが(旦那いないけどね)、よう知らん男に言われたら腹立ちますからね!でも、親しい仲にも礼儀あり。「『残念!』と 俺の給料 妻が斬り」なんか、腹立つでしょうね、妻なら余計に・・・言ったことないですけどね、妻じゃないから(笑)「赤い糸 やがて夫婦は コードレス」なんて上手いけど哀しすぎる(涙)。サラリーマン川柳さん、少しは結婚に夢見させてくださいね。・・・なんて無理、サラ川なんかじゃ、夢見れない。(と、なぜか突然に一句)

話がビミョーに外れていっておりますが、「残念!」と斬られてもOKなのは、愛あればこそ、そして関係あればこそ、なんじゃないでしょうか?他人や他国に同じこと言われたら、もうオシマイですから。「なんでアンタに言われなきゃいけないっつーの!」って怒っちゃいますから。身内だから言われても我慢できるし、受け止められるのではないかと。しかし、この類いの「愛の変化球」は非常に日本的だと思われます。日本人の間で、「うちの主人ったらね・・・」「本当にうちの子ったら・・・」で始まる呆れ話の多さといったら!しかし、これも愛だと思えば納得です。でも、アメリカ人は「サラリーマン川柳」なんか真にうけちゃって、楽しく読めないことでしょう。(こちらに長い私にも楽しく読めないとこありましたけど。)アメリカ人は身内や自分を堂々とけなしたり呆れたりしませんし、「愚妻ですが・・・」とか「たいしたもんじゃありませんが・・・」なんて前置きを使いません。褒めてナンボ、の世界ですもん。耳心地良い世界ではありますが、(なにか裏があるのでは?)と思ってしまうのは、日本人的サガなのかもしれません。逆に、たまにはスパーンと斬られるのもいいかな、なんて。(愛があればね。) 

ここでふと、リンクしました!最近、聖書のエゼキエル書を読んでいたら、イスラエル人の斬られっぷりが哀しくて、「神様、そこまで言うの?ヒドいわぁ!」って落ち込みモードだったんですけど(影響されすぎ)、これも愛あればこそ、関係あればこそなんだ!そうか!そうか!(一人で納得)「なんか、無理やりキリスト教的オチにしてないか?」って思われる方もいるかもしれませんが、今フト、そっちに繋がっちゃったので。とにかく、そんな風(↑)に思っちゃったかもしれないアナタの「愛の斬り」も、受けて立ちます!・・・お後がよろしいようで。
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ごちそう

2011-02-15 | 詩の葉
最近、私はある友人の厚意に感動しました。そして思ったのです。どうしたら、こんな風に人を思いやれるんだろう。こんな風に愛せるんだろう。その秘訣を知りたいなぁ、と。しかし、秘訣を教わったからとて、それをそのまま真似る愛、人のやり方をなぞる愛は、本物ではないかもしれない。…それで、こんな詩を書きました。

*************************************

ごちそう


ごちそうさま。

おそまつさま。

いえいえ、
本当にごちそうでした。
私もつくりたいです、
こんなごちそう。

ええ、
つくれますよ、
あなたにも。

そうですか、
では、レシピを
教えてください。

レシピをあげるのは
簡単です。
でも、
それでは
本物のごちそうにはなりません。

では、
どうすればよいのですか。

よく味わうのです。
そして、
その味が生まれた過程を
想像してごらんなさい。
そして、
自分なりに
つくってみるのです。

同じ味が
できるでしょうか。

たくさんの
ごちそうを味わいなさい。
そうして
出会った味に
恩返しができるよう、
周りの人に
その味をお広めなさい。
そうして
広がるごちそうの波紋の中で、
味はますます磨かれ、
深まっていくのです。

本当に、ごちそうさまでした。

いえ、どういたしまして。

*************************************

私の尊敬するクリスチャンに、はちこさんという素敵な女性がいるのですが、この詩を書いた後に彼女のブログに書いてあったレシピのメタファーを思い出しました。(ってことは、この詩はパクリ?)「レシピ」とは神様の愛の原則で、「パン」とはその愛が体現されたもの。でも、「私たちはしばしばお腹をすかせた人に、パンを与えるかわりにレシピを与えてしまうことがあります。」(by ケン・ガイア「魂の窓」←この本オススメ!)レシピじゃ腹は満たせないよ、ってことですよね。「私たち一人ひとりが、レシピではなくパンを、この世に提供できる者となれますように。この生身の身体を用いて、キリストを体現することができますように。」というはちこさんの言葉に、アーメンです!

さて、かの向田邦子さんは、味を覚えて再現することが得意だったそうです。「名人上手の創った味を覚え、盗み、記憶して、忘れないうちに自分で再現して見る−これが私の料理のお稽古なのです。」とエッセイ「眠る盃」に書かれていました。なんでも、右手を右のこめかみに当て目を閉じて精神集中すると、全神経がビー玉ほどの大きさになって右目の奥にスウッと集まった感じになる―そこで「この味は覚えたぞ」ということになるのだとか!私の場合、気がついたらお皿が空っぽになっているので(あれ?)、まずはじっくりと味を堪能する訓練が必要なようですが。

なんかね、「てっとり早くレシピくれよ!」って思うこともありますけどね。つまり、いい授業案とか、恋愛テクとか、伝道法とか。単なるレシピ集めに夢中になったり。それでやった気になってる。でも結局、自分で「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤しながらパン焼いて、「ごちそうさま!」な笑顔を少しずつ増やしていくのが本物なんだろうな。

ちなみに私は、実際にキッチンではレシピを使わず、アバウトに料理する派です。同じ料理は二度と出来ない。だから、パンやお菓子がまともに焼けたことがありません。レシピも大事!?

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Feast

2011-02-15 | a leaf on POETRY
Recently, I was touched by my friend’s kindness. Then I wondered, “How can I care for others like this? How can I love others like this? I’d like to know the secret.” But even if I get the secret, just copying someone’s method, tracing others’ track may not be the real kind of love. So I wrote a poem to figure it out.

*************************************

Feast


What a feast!

Not at all.

Really,
it was a feast.
I’d love to
give a feast like this!

Sure,
you can too.

Really?
Then give me
the recipes!

It’s easy to
give out the recipes.
But you can’t
make a real feast
just like that.

I see.
What can I do then?

Savor well
each flavor.
Then imagine how those
flavors came to be.
Then cook
as you have imagined.

Can I duplicate
the same flavor?

Enjoy many feasts.
Then as to repay
the great flavors,
you do your best to
spread the flavors around.
As they spread
with rippling feasts,
the flavor will be
enriched and deepened.

Wow,
thank you for the feast.

You’re welcome.

*************************************

Among many Christians I respect, Hachiko-san was the one that came to my mind after I wrote this poem. Then I remembered her blog entry (Thank you Meg, for translating) about the recipe metaphor. (Did I take-off on her?) “Recipe” represents God’s principles of love. “Bread” is the actual life lived out of love. “What people are drawn to is the smell of freshly baked bread… However, we often give starving people the recipe, instead of the bread.” (Ken Gire “Windows of the Soul” (a great read, btw)) In other words, you can’t fill a stomach with a recipe. She ended her entry with a prayer, “May each of us cater bread, not recipe, to this world. May we embody Christ with our own flesh.” I say amen to that!

Sometimes I feel like, “Just hand me the recipe!” Yeah, like great lesson plans, rules for romance, and outreach programs. Then I really get into just collecting the “recipes”, feeling like I’ve done the job. But the real way to go is going after “What a feast!” smile one by one, through a trial-and-error process myself, baking real breads.

By the way, I rarely use recipes in my kitchen to cook. I’m an ad-lib cook. Can’t make a same dish twice. So I am not really good at baking breads or cakes. Recipes can do some good too.
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バーチャル合唱団、その象徴性と可能性

2011-02-04 | 音の葉
「嗚呼、二ヶ月前に戻れたら!」昨夜YouTubeで、イイ男、いえイイ音楽を物色していた私は、激しく後悔の念に襲われたのでした。その理由を皆さんにも説明いたしましょう。以前このブログでも紹介したカッコイイ指揮者の代名詞、エリック・ウィティカーの「バーチャル合唱団」なるプロジェクトをYouTubeにて発見。それは、YouTubeを通して集められ、ウィティカー氏の指揮によって束ねられた、世界各国の歌い手による動画の結集でした。名づけて"Eric Whitacre's Virtual Choir"。まずは、世界中の参加希望者達がYouTubeで彼の指揮を見ながら独り歌いを録画し、YouTubeにその動画を投稿。そこから厳選された動画達を編集し、「合唱」としてまとめられた第一弾の曲“Lux Aurumque”が、コチラ

そして第二弾“Sleep”のため全世界の潜在的歌い手に向けられたYouTube指揮を見つけた私は、大コーフン!この曲、クワイヤーで歌ったことある!よし、いっちょう私も応募してみっか!と思いきや、エリック・ウィティカーの公式ウェブページで、“Sleep”の動画投稿は、去年の12月31日に締め切られたことを知りました…チーン。あとは、4月に第二弾“Sleep”がYouTubeで公開されるまで、そして第三弾が始まるまで、指をくわえて待っているしかないのか…いやいや、ただボーッと待つのではなく、次の機会のためアクティブに準備したいものですね。ほら、そこのあなたもご一緒にいかがですか?

さて、このバーチャル合唱団の感想を述べさせて頂きます。一聴すると、リアル合唱団による“Lux Aurumque”と、そんなには違わないかも。でも、やっぱりリアルの方が臨場感があるし、ナマモノ感がありますね。うねってる。バーチャル合唱団の方が、人工的。じゃあ、何故わざわざバーチャルで合唱するのか?そもそもそれは「合唱」と呼べるのか?(実際、こんなの「合唱」じゃない!とコメントしている人もいた。)しかしこのバーチャル合唱団、出来上がった音声を楽しむだけではなく、その象徴的コンセプトに学ぶところが多い気がしたのです。

ここで、このバーチャル合唱団がどのようにして生まれたのか、という話にさかのぼりましょう。自称エリック・ウィティカー中毒の少女が、自分で“Sleep”を歌う姿をYouTubeにアップし、そのリンクを紹介されたウィティカー氏が、「アハ体験」しちゃった訳です。「これはすごいことを思いついてしまった―僕は思わず武者震いしました。100人の人がみんな自分のパートを録音したら、僕らの方で全部合わせられるし、バーチャルコーラスができるぞ!と思いついたのです。」と公式ウェブページで彼は語っています。(日本語訳はこちら

そこで、彼はバーチャル合唱団の象徴的コンセプトについても述べています。このバーチャル合唱団は、「人間がみな持っている、人とつながる絆の必要性を詩的に象徴している」と。また、音楽が会ったことのない人達をつないでいることに感動し、完成曲を聴きながら涙ぐんだそうです。(エエ人や)いやぁ、エリック・ウィティカー、音楽的にも天才だけど、YouTubeさばきもなかなかのもの。そして五つのパンと二匹の魚みたいに、一人の少女が捧げた動画からこんなに壮大なプロジェクトを考えつくなんて…惚れ直すなぁ。(照)

これは、クリスチャンにとっても象徴的ですよね。「指揮者」をちゃんと見ること。会ったこともない人達とも時空を超えて、一つの歌を和して歌っていること。一人のようでも、一人じゃないこと。そして、詩的に象徴された縦と横の絆の必要性。また、独りコンピューター・スクリーンに向かいつつも、チャットやSNSなどで人とのつながりを求めているネット社会の現代人をも象徴している。

それだけではなく、このバーチャル合唱団は、バーチャル世界での様々な可能性を提示してくれています。私の日本の出身校、三育学院ではOBクワイヤーなるものがありましたが、海外などにいて物理的に集まれなくても、このようにバーチャルで声を集めることが可能じゃないかと。そりゃ、リアル合唱には敵わない要素も沢山あります。同じ場所で味わえる一体感や一緒に造り上げるプロセスが欠けています。でも、バーチャルだから出来るってこともあるんじゃないでしょうか?そこにあるのは、物理的に集まれない人同士がコラボできる可能性。バーチャル・オペラ、バーチャル演劇、バーチャル結婚式(?)、もう何でもあり!?

という訳で、すっかり一人で盛り上がっているワタクシでございますが、冷静になるためにダメだしもしたいと思います。エリック・ウィティカー様にダメだしなんて、アンタ何様?という感じですけど、愛ゆえのダメだしですから。(いえ、このプロジェクトの可能性に対する愛ですって。)さて、第一弾バーチャル合唱見て思ったんですけど…音楽は素晴らしいのに、映像がチープ!かなり残念。なので、映像の質を良くして、さらに巷に溢れるミュージック・ビデオのようにストーリー性が感じられるものになればいいな、と。(欲張り?)沢山の声と顔が世界中から集まり、指揮を通して一つになっている、その縦と横の絆の詩的象徴を映像を介して現わして欲しかった。第二弾に期待してます!

「最終的には、バーチャル合唱のための曲を書いて、サイバースペースで最初の『公演』をするのが夢だ。」と語るウィティカー氏。きっともう思案中だとは思うのですが、わざわざバーチャルのために書くのなら、リアル合唱のための曲とは全く違うものを期待しますね。そう、時空を超えるバーチャル性を活かせる曲を。せっかく国際色豊かな歌い手が集まっているんだから色んな言語や民族音楽を混ぜるとか、ソロパートや掛け合いを増やすとか、一人ハモリ入れちゃうとか(この人スゴイ)。あと、ざわざわしゃべりパートのある“Cloudburst”なんか、バーチャル向きかも。(雨とかすごくなりそう!)ちなみに第一弾“Lux Aurumque”はソロパートがあったけど、第二弾“Sleep”にはありません。(バーチャル版につけ足してない限りね)リアルとバーチャルの“Sleep”と比べて、「じゃあ、わざわざバーチャル版をやった意義は何?」とか言われないかなぁ。「バーチャルの動画にリアルの音声を被せてもバレないじゃん疑惑」が、生まれそうだし。“Sleep”大好きだけど、あえてバーチャルにする必要性が薄いような…“Lux Aurumque”では、ソロの人の顔がど〜んと大きくなって画面の真ん中に出てきたりして、面白かった!ああいうのが、バーチャル版の醍醐味じゃないですかね。リアル合唱では出来ない視覚的演出を、音楽に合わせてするのが。ソロパート、掛けあわせ、一人ハモリ、多言語パーツがあれば、視覚的にも楽しそうだし♪それから、バーチャル合唱ならではのメッセージ性、例えば世界平和的テーマを音楽と映像で現わせるのでは?…な〜んて、勝手に人の夢を膨らませちゃって、「あなたの夢は私の夢!」と言わんばかりのバーチャル・ドリーマーな私なのでした。
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ボズられた!

2011-01-05 | 教の葉
明けましておめでとうございます!細々と生き延びている「言の葉ひらひら」ですが、アクセス・ランキングをチェックしますと、かなりの方が日々ご来板されている様子。感謝です!今年も物想う毎にこちらの葉に綴っていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。

本日は、ちょっとした教室小話。(久しぶりに今日は教の葉!なーんて。)

アメリカはサンノゼの地で、日本語と日本文化を日系の子ども達に伝えるべく教えておりますが、一月の間は文化の時間にお正月の遊びをする予定です。今週は低学年は福笑い、高学年は百人一首・・・のはずが、ちょっと難しかったので坊主めくりになりました。けっこう楽しんでくれたようです。さて、この教室では英語厳禁、日本語ONLY・・・じゃなかった、日本語のみ!というルールがあるのですが、英語ネイティブの子ども達には難しいらしく、時々口が滑って英語が出てきてしまうこともあります。さて今日、坊主めくりをしていた時のことです。坊主を引いてしまった子が、"Oh, no! I got BOZED!"(やべ!ボズられた!)と口にしてしまい、一同大ウケ。この子達は、英語と日本語を組み合わせて新しい言葉を作る天才でもあるのです。昔こちらに載せましたコード・スイッチング、またはちゃんぽん語とも言えるのでしょうが、"I got BOZED."は、なかなかハイセンスなちゃんぽん語で、ちょっと感心してしまいました。(名詞の「坊主」が動詞の受動態にされている)しかし、その後も、"I got BOZED!" "You got BOZED!" "Get BOZED!" と変な英語が飛び交ってしまったのですが・・・ その他にも、放出された札が全くない時に姫を引いてしまった子どもが、「ムダな姫!」と言ったり、この教室ならではの会話を楽しむことができました。他にも、歌の練習のことを、いつも「らららの時間♪」と言う子がいたりして、可愛いものです。よく面白いな〜と思うちゃんぽん語が聞こえてくるのですが、書き留めておかないと忘れてしまいますね!できるだけ、こちら言の葉でご報告するようにしたいものです。。。

では皆さんも、この新しい年にうっかりボズられないように、お気をつけ下さい!これまでちょっとアンラッキーだった人は今年はヒメられる(?)といいですよね。私としましては、姫や坊主に一喜一憂しない、安定した心を持てる一年になるようにと、願っています・・・

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おおきな木へ

2010-12-24 | 神の葉
シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」という絵本に出会ったのは、中学生の頃だったと思います。聴衆を泣かせる説教で定評のあったS牧師が(当時は女子寮の舎監)、大きな木を神様に見立てて、話して下さいました。(ここからネタバレに注意!)大きな木は、少年と仲よし。一緒に遊んで楽しい時間を過ごす。しかし、大きくなるにつれ少年は木を離れ、必要な時だけ木の所にやってくるようになる。青年になった彼は、町に出て売るための林檎を、木に求める。家庭を持つようになった彼は、家を建てるための枝を、木に求める。問題を抱えた中年の彼は、船を造るための幹を、木に求める。木は与え続けて幸せだったが・・・本当は淋しい。そこに人生に疲れた老年の彼が、戻ってきた。もう何も上げられない切り株となった木は、「ここに座って、休みなさい。」と彼に呼びかける・・・木は彼が戻ってきて、幸せだった。おしまい。

この話を始めて聴いた時は、なんともやるせない気持ちになったものです。「木よ、それでいいのか!?」と。それから、あんまり与え過ぎるのも考えものだなんて思ったり、お人よしは損だよね、と言ってみたり。・・・でも、人間はそんな風に無条件に自分に与えてくれる存在を、心のどこかで欲している気がする。でも、人は不完全だから、そんな風に与え続けることは、実際には難しいんですよね。どこかで見返りを期待してしまうし。でも、神様はこの木のように、ただ与えて与えて与えるために存在している。その切り株の上に憩う時、人は真の平安を得るのじゃないかな。

そんな与える神様のことを考えていたら、「おおきな木」に宛てて、手紙を書きたくなってきた。そこで出来たのが、こんな詩です。

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おおきな木へ

私があなたを愛したのは
林檎がもらえたから
枝が手に入ったから
幹が欲しかったから
ごめんなさい
でも、
それが私の愛だった

あなたが私を愛したのは
私に与えたいから
私を愛したいから
私が私だから
ありがとう
でも、
私はあなたを傷つけた

それでも
そこにいてくれる
切り株ひとつで
待っている

身をすり減らした
小さなあなたが
今となっては大きく見える
こんな不実な私には

昔に食べた林檎の種が
私のどこかで芽を出して
与える木として大きく育ち
実を沢山つければいい

そしたら、その実を
あなたにあげたい
枝も、幹も
切り株さえも
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Dear Giving Tree

2010-12-24 | a leaf on GOD
I was in junior high when I first heard of a book called “The Giving Tree” by Shel Silverstein. A pastor (then a girls’ dean) used the story in his sermon, as a metaphor portraying the giving God. Spoiler warning: A tree and a boy were very close friends. They’d play and have a good time. But the boy grew up and seldom came to the tree unless he needed something. The boy as a young man asked the tree for apples to sell in the city. The boy as a family man asked the tree for branches to build a house. The boy as a troubled middle-aged man asked the tree for a trunk to build a boat and sail away. The tree was happy to give, but lonely actually. Then the boy returned as a tired old man needing to rest. Having nothing to give, the tree offered him to sit on his stump. The boy did, and the tree was happy. The end.

When I first heard the story, I felt disconsolate. “Is THAT okay, the giving tree!?” I wanted to say. Maybe giving too much is not worth it, I said. That’s being generous to a fault, I thought. ...Yet deep in our hearts, we all want somebody who would give unconditionally. But we, as imperfect human beings, cannot continue on giving like that. We naturally want something in return. But God is there to give, give, and give, just to give. When we rest on His stump, we receive the peace that passes understanding.

Thinking about such a giving God, I wanted to write to "The Giving Tree". So I did and it became another poem.

*************************************

Dear Giving Tree

I loved you because
I could get your apples,
I could have your branches, and
I so needed your trunk.
I am sorry, but
That was my kind of love.

You loved me because
You wanted to give,
You wanted to love, for
I was who I was.
Thank you, but
I hurt you back instead.

Even so,
You are still there.
As a stump,
You await for me.

Though you’ve gotten small
You look big to me now,
For I am so unworthy of you.

May seeds of the apples
I've swallowed inside
Someday sprout and grow tall,
Like you, the giving tree
Bearing fruits abundantly.

Then I will give you
The apples I bear,
The branches,
The trunk, and
Even the stump.
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カセットテープ

2010-12-22 | 詩の葉
学生時代の友人が、「男はカセットテープのツメ跡を塞いで、古い曲に覆い被せるように新しい恋をする。女はちゃんと空白を作って吹っ切れてから、次の恋をする。」なーんて言ってましたっけ。そうそう!と思う人、「私もそう思う」をクリック!あ、ここはYahooのコメント欄じゃなかった・・・ まぁ、男も女も関係ない気がしますけどね。誰にでも、ちゃんと吹っ切れてないのに、次いっちゃうこと、あるんじゃないでしょうか。英語だと、そういう反動的な恋愛をリバウンドと呼んだりしますけど。(ダイエットのリバウンドではないw)私も「もう、お腹いっぱい・・・」と言いつつ、美味しそうな食べ物を見ると、オカワリしてたことがあったかも。(遠い目)それって、ただの食いしん坊!?まぁ、若かったということで。(苦笑)とにかく、そんなこと続けてると、テープも胃も心も伸びちゃって、疲れます。深呼吸が必要です。沈黙も愉しみましょうよ。・・・ってなもんで、こんな詩できました。

*************************************

カセットテープ

もう聴くことのなくなった曲を
あなたはどうやって
やりすごすのだろうか

ツメの折れ跡を塞いで
新しい曲を被せることで
忘れてしまうのだろうか

わずかに残るそのノイズ
先に進むことを知らない
伸びかかった磁気テープ

私ならば
カセットテープを
てのひらに載せて
その軽さに泣くのだろう

そうしていつかその曲が 
頭の中で鳴りやむ時、
深呼吸ひとつぶんの空白の後に
新しい曲を 迎え入れる

一生に一本の テープなら
端から端まで 走りきらせたい
ある一部だけ 擦り減らすのでなく
端から端まで 選ばれし曲たちと
濃密な沈黙を 織り交ぜながら
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A Cassette Tape

2010-12-22 | a leaf on POETRY
My friend in college once told me, “Guys look for a new love like dubbing a new song on a cassette over an old song to get over it. Girls wait till they get over it, then record a new song after a blank period.” Interesting, huh? If you agree, then click on “like” below...Oops, this wasn’t Facebook! Anyways, I don’t think it’s a guy or girl thing. We all have rushed to the next thing when we were not really over it, right? (The so-called rebound) Yeah, I have gone for the second serving after saying, “I’m sooooooo full!” Oh, that's just called a pig out! lol. I was young back then, haha. Anyways, repeating this stretches out and wears out the spool, the stomach, the heart, or whatever. Instead, take a deep breath! Enjoy silence. ...So came another poem to share.

*************************************

A Cassette Tape

How do you get past
A song you no longer listen to?

Do you cover up the broken tab
And dub a new song over
As to forget the old one?

A faint noise remaining on
A stretched spool
Never moving on forward.

As for me,
I would hold the cassette
On the palm of my hand and
Cry over its levity.

When the melody
No longer rings in my head,
Then I bring in a new song
After an one-deep-breath-long blank.

If a life allows only one tape,
Then I rather run it all the way through
Instead of wearing down
The same spot over and over.
Filling the tape
With songs well-selected
Interleaved with dense silence.
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日本は遠い国ですか

2010-12-15 | 詩の葉
日本人・日系人が多いベイエリアで、日本につながりがある子ども達に、継承語として日本語を教えて始めて、はや7ヶ月が過ぎました。新年度の前には、継承語教育についてリサーチし、その道のエキスポートに会いに行き、カリキュラム作りをし・・・と準備をしたのですが、実際に教えてみると、机上の理論通りにはいかないわけですな。当たり前ですけれど。そんな風に子ども達と時間を過ごしているうちに、こんな詩ができました。これは、この仕事をしていなかったら、おそらく書かなかった、いや書けなかった詩だろうと思います。子ども達よ、ありがとう。

さて、自分の詩を声に出して人に聞かせるのは恥ずかしいのですが、教室で子ども達に読み聞かせてみました。すると・・・今までになかったくらいの教室の静けさ。色々な読み教材を探したり、選んだりしてきたのですが、時には自分自身の言葉で伝えるって大事なんだな、と思い知らされました。子ども達よ、またまた、ありがとう。

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日本は遠い国ですか


日本は遠い国ですか
飛行機に乗れば、丸半日
船に乗れば、丸半月
毎年、帰るわけじゃない

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
お皿に、おわんに、日本を入れて
毎日、おはしで食べられます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
ポッケに、かばんに、日本を入れて
毎日、いっしょに遊べます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
メロディ、言葉に、日本をのせて
毎朝、楽しく歌えます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
本や、写真で、日本を目にし
毎晩、ふらりと立ち寄れます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
電話や、手紙で、日本と語り
毎月、仲良く過ごせます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
正月、お盆に、日本をまとい
毎年、肌身につけられます

日本は遠い国ですか
いえいえ、そうではありません
八月、胸に、日本を抱いて
毎年、平和を祈れます

日本は遠い国ですか
心に想えば、一瞬で
子に伝えれば、一世代
離れても、遠いわけじゃない
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