倉敷では、いや岡山県ではかな、最近よく子どもが捨てられる。先日は市内の女子大生が子どもを産んで、育てられないからと捨てていた。そのすぐあと、今度は別の町で子どもを捨てて逃げた人がいた。どちらも生まれたばかりの子。ペットの生んだ子を捨てるように見えてしまう。赤ちゃんポストが出来てから特にそう感じるのかも知れない。
「育てられなかったら捨てたらいいんだ」
あのポストはそんなためのものじゃない。あれを考えた人はそう意図したためではない。だけどそうとることしかできない頭の人もいる。殺すぐらいなら捨てればいいんだと。人の気持ちや意図を理解できない程度の頭しか持ってない人もいる。それを容認してくれる人がいるのだ。それでいいのだと思う人が。
「育てられない」はずがない。昔の人はもっともっと貧乏で、それでも自分を犠牲にしてでも多くの子どもを立派に育てていた。育てられないからなんてタダのいいわけ。むかむかするわがまま。
人間の文明は発達したけど、どんどん哀れになっていった気がしている。それとも文化の発達はこういう副産物を生むものなのだろうか。ローマが極致を迎えたあと、人間の心はどんどんすさんでいった気がする。倫理観は失われ、美食という名の食い道楽、愛という名を冠した退廃的な性、同性愛からサディズム、マゾヒズム、少女性愛、近親相姦。拳闘士の死に熱狂し、政治=自分の私利私欲のための利用手段となる・・。程度こそ違え、今の社会とどこが違うというのだろうか。
多くの人はこうやって子どもを抱いて、からくり時計を楽しませてあげている。だから昔のように愛で子どもを包めるように軌道修正できるはずだと思う反面、文明の発達は精神の退廃を伴うものだという漠然とした確信も私は持っているのである。