倉敷界隈(かいわい)

倉敷の街と、私の生きているときの記録です。

祭りとは

2016年10月19日 17時34分52秒 | 写真

神楽が好きだ。

昔は神楽なんて年寄りの見るもので、古くさくてつまらないものぐらいにしか感じなかった。この辺りには備中神楽という結構有名なのがあって、それを何回か見ているうちに、そのすばらしさに気づいた。もっと早く気づいていればと悔やまれる。

さて備中神楽だが、ちゃんとした社中なら、舞う前に『今年も豊作でありますようにと、皆さまの平穏を祈念して舞わせていただきます。』のような口上を述べてから舞ってくださる。神遊びはそういうものだ。確かに一つの芸術ではあるだろう。貴重な文化財でもあるだろう。しかし、その祈りの気持ち、地には平和を、心には平穏を、大地にはみのりを・・を祈らなくてなにが舞であろうか。

チボリ公園健在のころ、音楽大学の先生が神楽に西洋楽器を組み合わせた「音劇」なるものを発案して見せてくれた。二人の盞嗚尊が後ろで神楽舞のような動きをする中、真ん中でその音大の先生がサックス(クラリネットだったかも)を吹く。モダーンで格好いい。奇抜であり斬新。少なくとも神楽よりもおしゃれ。桜の木の下、みんなでござに座って酒を酌み交わすのと、夜景の見えるおしゃれなバーでリキュール・・ぐらいの違いかな。

そんな試みもよいだろう。否定しようとは思わない。だけど、どんなにおしゃれで格好良くとも、神楽というのであれば祈る気持ちがなければ単なるまがい物ではないか。祈りがないならおしゃれでもだめだ。神楽面を着けてするなら、祈りのを加えて欲しい。それなら笙を使おうがオカリナを使おうが、和太鼓でもドラムでも私はいっこうにかまわない。祈りの気持ちがないなら、そんなものは、神楽面にも衣装にも神楽そのものへも失礼だ。そう私は感じたわけです

和太鼓でも相撲でも、奉納と言う言葉がついて回る。そんな気持ちが音や遊びと一体になって私たちに染みこんでくる。それが神社に関係する全てのことに関係する。私はこのように考えているわけです。

さて、倉敷の秋祭り、ただだんじりを曳くわけではないのです。たまたま観光に来た人は知らないだろうし、まして外国からきた異文化の人は想像もしてないかも知れないけど、小さな子どものオモチャのようなだんじりから、でっかい高級御神輿まで、全てはこの写真から始まります。周りにいる一見怖そうなおじさんやお兄さんたちも神妙な顔つき。これは神聖な儀式なのです。

ここを見ている子供たちがいたら、お祭りにはこんな面があるってところも来年から見てくださいね。

さて、その後はちょっとリラックスして、"ダラ"って移動。神輿の出発点まで進んだら、そこからはきりっとした表情になるのです。これは曳くタイプだから少し楽。下のキャスターを外して担ぐタイプのもあって、美観地区周辺ではよく見かけるんだけど、あれってめちゃくちゃ重そう。今の私には絶対担げないなと思います。それを両手で支えあげて回転したりするんだから本当にすごい。観光客の皆さん、たまたま出会えたらラッキーですね。

若衆の皆さん、いつもありがとうございます。皆さんおかげで今年も幸せに過ごせそうです。

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