柏原藩の佐々氏は前野氏からきているそうである。
その前野氏とは、佐々成政の姉の夫の苗字である。
他の前野氏の系図を見たが、時綱~時基まではあっているのだが、柏原藩の系図ではそこで線が中断し、
【前野加賀守宗直】が登場する。
http://www.maeno3.com/m-ichizoku/m-mokuji.htm
のページに詳しい系図がある。すばらしい! ココから一部をお借りすると、
【時綱は鎌倉時代中頃の人、その子孫は世々前野邑に居りて繁衍衆多なり。
織田豊臣の崛起に及び、勇を以て世に鳴る者、所謂る前野加賀守、前野又五郎忠勝、 前野兵庫らは皆其の子孫也。との注記も見ゆ。】とある。
ということは、前野加賀守は子孫である…と言えるだろう。
其の宗直の名前は見えないが、次の宗能は「五郎三郎宗義」のことだろうと思う。
其の弟からの系が、柏原藩の佐々氏となった前野氏である。
五郎三郎宗能の母親が、佐々成政の姉である!
既に知っている事実だとは思いますが、大津の図書館で、九里氏が有りましたので、報告します。
…政元が擁立した足利義澄が将軍に就いた。その義澄も、政元の死後の永正五年(一五〇六)前将軍の義材に京都を奪還され、近江岡江(近江八幡)の九里氏を頼ったが、永正八年同地で病没した。
と有りました。こっくりこっくり読んでおります。(/0 ̄)
それは、九里氏の歴史の中で、一番有名なのですが、「九里滅亡」と言われた悲しい歴史なのです。
次のブログ記事にアップしてみました。
浄椿にとっては、「禍根」を残さぬように、あまり掘ってはいけない歴史だったようです。
こののち、九里氏はバラバラになってしまいます。