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源有仁と源師基(もろもと)→ 師基(かずもと)→ 友員(ともかず)か? ありえないか?

2017-04-29 | 近江国 佐佐木庄



愚昧記の背面文書であった『散位源行真申詞記』

東京大学史料編纂所の記事から~

原本の紙背文書では、史料編纂所所蔵第一巻・第二巻(仁安二年冬記)紙背に、康治元年(永治二年、一一四二)・久安二年(一一四六)の検非違使庁関係文書(問注記など)と、天治二年(一一二五)〜大治五年(一一三〇)、仁平元年(一一五一) の名簿が見える。実房の父公教は保延六年(一一四〇)から久安三年(一一四七)まで検非違使別当であることから、原本第一巻・第二巻は公教の周辺にあった反故を料紙に利用していることが判明する。

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愚昧記の著者である三条実房の父の代に書かれた文書ということになる。興味深いのは、この三条公教の妻が「源有仁 家女房」で藤原実綱を生んでいることである。

『散位源行真申詞記』の事件当時、源有仁は左大臣であった。(佐々木荘領主でもある)

その有仁の母親は「大納言源師忠の女」であった。

源師仲も「母親は待賢門院の女房であった源師忠の女」であった、とwikipediaにある。

そして、師仲と同じ父親(師時)である師行は「美福門院の従兄弟にあたることから、鳥羽法皇の信任を得て院司となり、康治元年(1142年)に正四位下長門守に任ぜられた。」とある。

つまりライバル同士の関係となる。有仁・師仲は崇徳派である。師行は鳥羽派(=近衛派)


そして、師行の母親は、家女房である。
そしてさらに母親が不詳の義兄弟に「源師基」がいるのである。この人物は、「もろもと」と読むのであろうが、それを「かず・とも」と変形させて文書に書き記したのではないだろうか?

私の勝手な説だが、詳しく書いてみると、
『源行真申詞記』の事件に出てくる「新六郎ゆういん」…「とも・かず」「友・員」と読める。
しかし、殺された者がわからぬようにひねりを利かせていて、本当は「師基」(もろもと)なのだが、師という字は「かず」と読めるため「かず・もと」、それを反転させて「もと・かず」「基師」→ 言葉をひねり「とも・かず」→「友員」(とも・かず)にしたのではないだろうか。

(この文書では、他の登場人物も変名になってはいるのだが、誰のことかがわかるような名前が付けられている。)

この事件は結構衝撃的だったようで、奥州の藤原氏にまで伝わっており文書が残っている。(奥州藤原史料)
…ということは、源氏のなかでも力を持っていた時代の潮流であった村上源氏が殺された人物だったのではないかと…(私の妄想)
殺されたのは、下司ではなく、領主だったのではないだろうか?

はたして「佐々木行実」の甥に、そのような人物がいたのであろうか?
行実に姉や妹がいて、もしも嫁いでいたとすれば、甥になる。村上源氏のこの師基も、母は不詳となっている。

「新」という字がつくからには、新院の側についた人物だったのではないだろうか?
崇徳上皇側が「新院」と呼ばれていたそうだ。



「源有仁」の母方の祖父は「源師房」といい「はじめ資定王(すけさだおう)と称すが、父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった」人物である。つまり、源有仁は藤原道長の義理の孫にもなる。

もう一度『源行真申詞記』の事件を考えるに『新六郎ともかず』は清原姓・伊庭源太などの郎党の上にいた人物である。伊庭荘の領主はどなたであろうか?

『近江伊庭荘保元の乱に源為義が崇徳上皇の白河殿に参上すると、これに近江伊庭荘・美濃青柳荘を与へられた。』と国学院雑誌の中にある。
それ以前の領主は???

為義のその前後の時代をwikipediaに求めると「大治5年(1130年)5月、延暦寺の悪僧追捕の際、郎党が誤って前紀伊守・藤原季輔(鳥羽上皇の生母・藤原苡子の甥)に暴行を加えたことで、検非違使別当・三条実行により勘事に処される。源師時は「為義の作法、児戯の如し」と評す(『長秋記』5月14日条)。

長承2年(1133年)9月、為義の郎党が丹波国に赴いて多くの人々を殺害(『長秋記』9月15日条)。

為義本人については犯罪者の隠匿、他の同僚との軋轢、郎党については粗暴な振る舞いが目に付く。保延元年(1135年)4月、西海の海賊追討に際して忠盛と共に候補に挙がるが、鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した(『中右記』4月8日条)。為義郎党による追討に名を借りた略奪行為を懸念したと見られる。

保延2年(1136年)、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。
保延5年(1139年)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出し、院の不快を蒙ったことを語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願している(『平安遺文』4710、4713~4717)。

この頃、長男の義朝は東国に下向していたため、次男の源義賢が後継者の地位にあった。義賢は保延5年(1139年)に体仁親王(後の近衛天皇)が立太子すると東宮帯刀先生に任じられるが、翌保延6年(1140年)には殺人犯に協力するという失策を犯して罷免された(『古今著聞集』巻15)。

この為義の息義賢の殺人犯に協力とは、ひょっとして「新六郎友員」の事件とどこかで接点があるのではないだろうか?

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佐々木哲氏のブログから気になる箇所をコピーしてみると(一部略す)

「新六郎友員が殺されたとき、人々は河内源氏源為義が犯人だと噂した。
しかし検非違使庁によって容疑者とされたのは為義ではなく、友員の伯父源行真であった。

まず行真は、友員殺害についてまったく知らないと答えたのち、友員にはもともと敵人があったとして、為義の郎等源七郎道正の名を挙げた。道正は行真の甥であり、道正と友員は従兄弟であった。

以前、友員が道正の母と弟道澄を殺した報復として、道正が友員の母と兄友房・末高を殺害していた。
そのため、友員殺害も道正の仕業に違いないと主張した。さらに道正の妹婿愛智三郎家次も共犯に違いないと主張した。」


「事件の夜に友員の従者伊庭源太が傷を負いながら、成勝寺領伊庭庄内の清追捕使安貞の許に逃げ込んだと伝え聞いていることを述べている。…(略)


この行真の言葉から、友員の従者には、伊庭源太や清追捕使安貞など源姓や清原姓の者がいたことが分かる。
このうち伊庭氏は源姓を名乗っているが、神崎郡大領佐々貴山公の子孫と考えられる。
伊庭氏は友員の従者になることで、源氏を名乗ったのだろう。

また清追捕使安貞は、近江国の警察権を握る近江追捕使を勤めた人物である。
そのような人物を従者にするほど、友員は富を蓄え勢力を張っていた。
しかも成勝寺は院政期に建立された六勝寺のひとつで、崇徳院の御願寺であった。友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていたのである

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友員は友房(例えば…祐房・朝房…)・末高(例えば…季任・季遠…)という二人の兄がいて、崇徳院の御願寺成勝寺領伊庭庄領主であり、しかも有仁の佐々木荘の隣の荘園。
源姓や清原姓の者を従者にするくらいの力があった人物。

伊庭荘の領主が殺されたのではないだろうか?しかしそれであれば、領主○○と書かれるはずであろうか?

女性のライバル意識と村上源氏と河内源氏の抗争と(かたや潮流・かたや煙たがられ…)など様々なことがあって、この事件は起きてしまったらしい。

私には本当のところはわからないと思うが、こうしていつも気にかけていることで、何かしら勉強になっていると思う。
この時代に「奥州藤原氏」にまで及んだニュース。ショッキングな事件だったに違いない!と思う私でした。





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