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隋心院と紀伊国粉河寺領  

2017-02-25 | 隋心院

東京大学史料編纂所データベースより

【書目ID】 00047887
【史料種別】 貴重書(模写)
【請求記号】 模写-以-335
【書名】 紀伊国井上本庄絵図
【著者名】
【原蔵者】 随心院(京都市山科区)
【出版事項】 東京 : 東京大学史料編纂所[模写]
【撮影・複本作成】 1951
【形態】 複製画1幅(掛幅装):彩色,紙本.+附
【大きさ】 74.4cm(65.4×53.3cm)
【注記】 14世紀末ごろ.別名:粉川寺領近方面図.附:裏面添付隋心院門跡(法遵)識文.『日本荘園絵図集成 上』(p123,237) には「紀伊国粉河寺近傍図」とあり.『荘園絵図とその世界』(国立歴史民俗博物館)p.24,80には「紀伊国井上本庄絵図」とあり.模写者:菱田忠一.

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角川日本地名大辞典によると以下のようである。

井上荘(古代〜中世)

平安期~戦国期に見える荘園名那賀郡のうち井上本荘・長田荘ともいう仁平3年正月29日の高陽院百種供養料送状(京大所蔵兵範記裏文書/平遺2779)に見える「井上御庄」が当荘名の初見と考えられ,関白藤原忠通の姉高陽院の百種供養に袈裟一重・盛物2杯(こもひた餅)などを進上している当荘の西に接する池田荘・田中荘が摂関家領であったことから当荘も古くは摂関家領であったと考えられるが,平安期にはおおむね東屋荘と称されて大和の栄山寺が領家職を有していた下って鎌倉期になると九条家領として見える貞応2年11月日の高野山平等心院所領注文(高野山西南院文書/鎌遺3184)に「一,禅定殿下(九条兼実)御墓所供僧一口〈供䉼井上御庄御年貢〉」。

また鎌倉中期と推定される年未詳2月5日の平等心院賢性挙状案(西南院文書/高野山文書3)にも「禅定殿下御菩提護摩供僧一口〈当国井上庄所当内〉」と見える平等心院は九条兼実の娘宜秋門院任子の祈願所(同前)で,九条家領であった当荘の年貢の一部が九条兼実墓所の供僧料にあてられていたことが知られる。

このことは建長2年11月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書1/図書寮叢刊)に,前摂政一条実経に譲られた所領中に「家領 女院方……紀伊国井上本庄〈被寄 月輪殿(九条兼実)高野護摩用途〉」と,年月日未詳の一条実経所領目録案断簡(同前)にも同様に見え,「護摩用途外無年貢」と注記されていることからもわかるなお前述の処分状の中に右大臣九条忠家の分として「井上新庄」が見えており,この当時までに新荘が分立していたことが知られる。

ついで永仁6年2月21日の年紀のある妙国寺鐘銘に「奉鋳直紀伊国井上本庄風森宮鐘一口」と見える。(日本古鐘銘集成)この風森宮は現在の粉河【こかわ】町嶋にある風市神社のことで,この鐘は貞和3年2月27日に井上本番頭から25貫文で粉河寺別院遍照寺に売られている。

(同前)粉河寺とのかかわりは,徳治3年8月26日の粉河寺僧法印仙実等連署状(随心院文書/東大史料影写本)に「当国井上本新両庄乱妨狼藉事,以御祈料田御寄附于当寺之上者,一寺一同可致長日御祈祷也」とあるのが初見で,当荘内の田地の一部が御祈料として粉河寺に寄進され,実祐信乗らが乱暴狼藉をはたらいていたことが知られる。また同年10月7日の粉河寺々僧実祐請文(同前)では,当荘に対し今後乱暴狼藉をしないことを誓っている。そして,元徳2年7月9日の実意請文(同前)では,実祐の弟子実意が「井上御庄あつか所しき」についての請文を作成,翌3年3月20日の坂上貞澄同明澄連署起請文(同前)には「紀伊国井上本庄預所職御契状慥拝領仕候畢」とあり,この両名が当荘の預所に補任されたついで正慶2年3月10日の後伏見上皇院宣(同前)によれば,当荘が随心院門跡と推定される大納言法印に安堵されており,摂関家と縁故の深い随心院に一条家から寄進されたものと考えられる

ついで天正13年に原型ができたと推定される「粉河寺旧記控」によれば,延元元年の後醍醐天皇綸旨によって「井上本庄」が粉河寺領となったと記し(粉河寺文書/県史中世1),同じく天正13年ごろ成立したと推定される粉河寺旧寺領注文(粉河寺御池坊文書/同前)では,「井上庄〈今者号長田〉」として延元元年7月18日の後醍醐天皇綸旨をその根拠に挙げているが,この粉河寺の主張は検討を要する。

その他南北朝期には,正平6年12月1日の秀直安堵状(野川文書/大日料6-15)で,野河氏に「紀伊国井上庄薬王名」が安堵されている。ちなみに,年未詳7月25日の定覚書下(中南区有文書/県史中世2)には「長田庄百姓等召籠間事」とあり,野河一族中にあてて百姓等を返すよう命じており,これが長田荘とある初見である下って明徳3年10月日の高野山金剛峯寺寺領注文写(高野山興山寺文書/和歌山市史4)には「長田庄下司職〈丹生社領,同新庄下司職当知行〉」は当知行となっているが,応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)では「井上本庄〈西塔領〉并下司職〈丹生社領〉」は不知行となっている。

なお明徳2年の年紀を有する諸供領臈次番付書(高野山文書/大日古1-8)には「二百九十七臈 紀伊国那賀郡井上本庄内風森宮前又号桟敷前水田一反観信房寄進」とあり,粉河寺領松井村の大和房が作人であった一方明徳4年7月30日および同年11月24日の室町将軍家御教書(随心院文書/大日料7-1)によれば,随心院雑掌が「井上本新両庄」に対する粉河寺寺僧等の押妨を訴え,幕府は紀伊守護大内義弘にその糾明を命じている。

以降応永7年4月2日にも紀伊守護畠山基国が守護代遊佐助国に粉河寺寺僧を上洛させるよう命じており(同前7-4),粉河寺寺僧による当荘への押妨が長く続いたことがうかがえよう。なお応永元年9月20日の守護大内義弘奉行人連署奉書(粉河寺御池坊文書/県史中世1)には「井上本庄年貢事,半済之時拾五石支配云々,於今者寺家一円知行之上者参拾石可預配分之旨,方衆申之」とあり,半済が実施されたり,粉河寺領となったこともあったことが知られる。

京都随心院には,明徳4年の相論の際作成されたと推定される「紀伊国粉河寺近傍図」と「井上荘絵図」が所蔵されている(日本荘園絵図集成)
後者は当荘の荘域を簡単に示したものであるが,当荘東境の深田川(現在の松井川)の東に「小(粉)川寺」,南東隅に「風杜」「松井」,西境に「上田井東境」,荘域の西に「松尾池」などが記されている。
一方前者には緑・朱などの彩色があり,四至の他,在家・耕地・池・寺社などが記されている北は山(和泉山脈),南は「吉野河」(紀ノ川),東は北東隅の「柳谷」「滝谷池」(現在の柳谷池・滝ノ池)から南東隅の風森を結ぶ線でほぼ「深田川」(松井川)を境として粉河寺領に接し,西は北西隅の「北山鎮守」から南西隅の「嶋村在家」を結ぶ線で井上新荘(志野荘)と接している。
西側の井上新荘から当荘域に流入した「志野河」は当荘を横断して東側で「深田河」と名前を変え「吉野河」に合流する在家はこの「志野河」の北岸に「北村在家」(北長田),南岸に「荒間在家」(長田中),吉野河の北岸に「嶋村在家」2か所(嶋および別所)がある耕地は斜めに交錯する直線で示され「宮荒間田」「荒間田」「フケ田」「大迫畠」などがあり,北部の高地には畠・間田が多く,南部の低地は田・フケ田になっている。
また灌漑用と考えられる池が「堺池」「滝谷池」など15か所記され,「堺池」「五呂五呂池」からの井手は「コ河ノ井手」4か所,「井上ノ井手」3か所が見えるその他寺社としては「観音堂」「アミダ堂」「薬師堂」「号三百余社」「山神」「北山鎮守」「帝釈堂」「風森社」などが見える。

下って応永23年10月28日の信宗房田地譲状(五坊寂静院文書/高野山文書3)によれば,信宗房先祖相伝の地である「井上本御庄内ミヤノアラ一行正名内」の田地220歩が憲寿書記に譲与されている。
下って戦国期明応9年6月21日の諸郷納帳(方衆座文書/県史中世1)には「弐石 長田庄」と見え,前述の「粉河寺旧記控」所収の年未詳の井上本荘年貢目録によれば当荘の総田数は62町2反353歩であったなお同控には「一,井上本庄五ケ村,今ノ北長田・中村・深田・別所・嶋村也」とあり,荘域は現在の粉河町北長田・長田中・深田【ふけだ】・別所・嶋一帯に比定される 。

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仁平3年とは1153年である。ナガタと読むのか、オサダと読むのかが、不明だが、近江八幡の長田氏と関係がありそう~~と思う。



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3 コメント

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日曜日に兼実墓に (自閑)
2017-02-28 08:12:17
日曜日に、この記事を拝見して九条兼実墓に行って参りました。
兼実墓は、伝承が途絶え、何処に埋葬されたのか不明でしたが、明治時代にこれがそうだろうと九条家が墓と供養塔を建てたそうです。
五摂関家の内の九条、二条、一条家の祖ですから、東福寺内の最勝金剛院墓所の個人的墓と言う事で柵を設けて中は入れませんでした。
髄心院へは昨年末に行って来ましたが、小野から深草まで小町に通った深草少将に倣って歩いてみました。半日通です。(笑)
月輪殿 (kunorikunori)
2017-02-28 09:39:28
自閑さま

有名な方であられるのに、墓所が不明だったのですね。
なぜ月輪殿(これは兼実の名前ではなく、建物の名前になるのでしょうか?)と呼ばれるのかを調べてみましたら、意外にも法然上人と関係が…

『選択本願念仏集』も兼実の懇請により述作されたものである。 兼実は建仁2(1202)年、法然上人を戒師として出家して円証と名乗っている。そして京都愛宕山の月輪寺に隠棲したとされているが、ここにも上人を招き、教えを受けたとされる。…と、下記にありました。
http://jodo.or.jp/jodoshu/people/kujyo.html

墓所のある東福寺は1243年開山、しかも臨済宗なのですね。法然上人のもとではなかったところが、なんだか悲しいです。

そして、小町のそのお話、惨いなぁ~~と思ってしまう私です。
Unknown (りひと)
2019-03-14 11:52:24
粉河って聞くときたきたって思います。
以前知り合いの方に聞いた場所かどうか?調べてみます。塩じいと縁がありそうだと聞いたんで調べた記憶ありますね。

灌漑と薬師という言葉が記事にありましたのでわくわくです。
ナガじゃなくオサってのもいいですね。
チョコレートプラネットだか?芸人コンビの和泉元彌やる方そんな名前じゃなかったかな?元彌さんは三番そうかっこいいらしいですよ。ちょっと面白くなってきますね。
そうR-1だかのピンの芸人の大会で優勝した粗品さんは佐々木さんですって。ちょっと面白い時期になってきましたよ。相方さんが石川さんですから人間ウォッチでは納得のコンビです。
サッカーでもお世話になったのが石川さんなのでまた会いに行きたいなあと思ってます。
そうそう、ササ系ってサッカーも縁ありそうですよ。
女子の監督さんもどうしてるだろう。
面白くなりそうですね。長田さんも少しづつ変化してくるといいですね。

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