九里 【九里】を探して三千里

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中原氏 大江氏 橘氏 そして西園寺家との繋がり 

2018-01-08 | 大江氏


美作朝親(左近大夫 従五位下・左近衛将監)がもしも「中原親光の朝親」であり、九里氏の祖と関係が出てくるならば、橘公業の事件のことを考えても九里氏の祖のひとつ前の「経任」が改(橘次)という箇所が気になる。

ところが、調べてみるとこの朝親の父が「大江親光」であることが、橘氏とのつながり、そして「西園寺」とも繋がることになったのである。

西園寺実宗の家司に【橘知宣】がおり、「伯家の兼康王の3男で,橘以実の養子となる。」(コトバンク)で、白川家の出であった。
より詳しくコトバンクにあるのでコピーする。

「鎌倉初期の西園寺家の家司。伯家の兼康王の3男で,橘以実の養子となる。西園寺家に仕えた経緯は不明だが,元久2(1205)年には西園寺実宗の前駆として名前がみえる。その後,西園寺公経の下で周防国目代を務めたり,公経が後院庁別当に任じられると鳥羽殿の経営をまかされるなど,同家の所領経営にたずさわった。また寛喜2(1230)年には法成寺の修理を担当しているが,たちまちのうちに用材を集めて,仕事をやり遂げたといわれている。その子孫は代々西園寺家に仕えて力を貯え,鎌倉末期以降は公卿に列するようになる。南北朝期には修理職・木工寮の業務と利権を掌握し,朝廷の作事を担当した。<参考文献>五味丈彦『武士と文士の中世史』,桜井英治「三つの修理職」(『遥かなる中世』8号) (本郷恵子)」

知宣の息は知茂で、またコトバンクよりコピーさせていただくと、
「鎌倉時代の西園寺家の家司。西園寺実氏やその娘の大宮院に仕えた。実氏の知行する備前国(岡山県)の目代,同家が領家職を有する安芸国(広島県)沼田庄,筑前国宗像社の預所などをつとめ,多大の富を蓄えた。瀬戸内海の海上交通や日宋貿易に関与していた可能性も考えられる。大宮院の御所である五条殿を2度にわたって造営したことが『五代帝王物語』にみえている。知茂の一族と西園寺家との関係は鎌倉時代を通じて続いており,彼らの活動は同家の興隆を経済的に支える役割を果たしていたといえよう。<参考文献>五味文彦『武士と文士の中世史』,網野善彦「西園寺家とその所領」(『国史学』146号) (本郷恵子)」
より付け加えると
「若狭守(わかさのかみ),弾正大弼(だいひつ),備中(びっちゅうの)守などを歴任。安芸(あき)(広島県)沼田(ぬたの)荘,筑前(ちくぜん)(福岡県)宗像(むなかた)社の預所(あずかりどころ)などをつとめ,実氏の娘大宮院の御所である五条殿の造営も担当した。正四位下。弘長(こうちょう)3年死去。」

その養子として入った先の【橘以実】は蔵人・判官代であり、「大江仲子解文」の中で大江公仲の養子として「有経」となっていたことがわかる。
大江氏と橘氏に縁組があることがわかる。

さらにもう一つ、【橘以実】の父【橘広房】鎮守府将軍 義父:権中納言 大江匡房
広房は文章得業生 正五位下1108-1111 信濃守 氏長者 である。(大江匡房の婿養子である。)

複雑なのだが、「日中親族構造の比較研究」という本によると、親子二代にわたり「大江氏」となっている。そして養子先の公仲自身もさらに「広経」の養子となるのである。
匡房の孫にあたる大江維光も、「藤原光能」を養子としてとっている。

大江広房(橘広房)の弟となる【大江有元】は村上源氏よりの養子である。文。策。蔵人。式部少輔。文章博士。従四位上。後帰本姓〔尊卑分脈村上源氏系図〕。と系図にある。

蔵人,式部少輔^文章博士有元。遠流事件のとき、その妻の許にあずけられている。有元は源有宗の子、匡房の養子となった。と大江匡房の本にもある。
より詳しく見ていくと、「源有宗(みなもとのありむね、生没年不詳)は、平安時代後期の官人。村上源氏為平親王流。民部大輔源顕定の孫。美濃守源資定の子。従四位上・陸奥守。
白河院別当、和泉国・陸奥国・備前国などの国守などを歴任し、この間に受領として財を蓄えた。承暦元年(1077年)白河天皇の法勝寺供養に際して、行事賞として従四位下に叙位された。康和元年(1099年)、朝廷に金を貢上した。邸宅は四条坊門室町にあった。」とあり、

源有宗の家族は
父:源資定
母:藤原家業の女
妻:高階高業の女
男子:源有元 - 大江匡房養子
男子:源有政
男子:源有家
男子:源有忠
男子:源有兼
生母不明
男子:源有康
女子:備前 - 郁芳門院女房
女子:藤原敦憲室

…となっている。

有元の方は、
「源 有元(みなもと の ありもと、生没年不詳)は、平安時代後期の官人・儒学者・漢詩人。村上源氏為平親王流で、源顕定の後裔。源有宗の長男。大江匡房の養子。子に源時顕・源時政がいる。
承暦3年(1079年)から同4年の間に、大江匡房の養子になったらしい(『中右記部類紙背漢詩集』所収の詩の作者表記より)。文章得業生から、承徳2年(1098年)に対策に及第した。しかし、このとき藤原宗忠に「至文章者不知其道云々」と酷評されている(『中右記』承徳2年2月3日条)。式部少輔を務めた後、保安3年(1122年)文章博士となる。その後、大江氏から本姓の源氏に復した。
『中右記部類紙背漢詩集』に漢詩3首が残る。」

弟の有政は
「源有政(みなもとのありまさ、生没年不詳)は、平安時代後期の官人。村上源氏為平親王流。民部大輔源顕定の後裔。父は源有宗。母は高階高業女。従五位下三河守。
東大寺末寺の崇敬寺との間で、紀伊国木本荘(崇敬寺領)の領有をめぐって争いを起こす。国司の収公を契機に大法師頼尊が別当の源算より木本荘文書を横領し、康平7年(1064年)に頼尊が没する直前に一族の有政の子有王丸に譲与し、有政が同荘を領有した。康和年間(1099年-1104年)、崇敬寺の寺領回復の動きが活発化し、嘉承元年(1106年)陣定で議定された。朝廷の裁決は不明だが、木本荘の領有権は有政と寺側に二分されたと推定される。」

これまでの記事で、大江と橘、大江と村上源氏、がともに養子縁組を行い、西園寺家には家司として代々仕えていたことがわかった。
そして大江氏と中原氏とは、仕事上でも近いところにおり養子縁組もあった。
(蛇足・中原氏は西園寺家に妻として入り子ももうけている。/ 中原氏は三善氏と縁組にもあった。)

では、
橘公業は以上記載してきた橘氏と関係があるのだろうか?










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