カオスから抜け出すために、今までの経緯を書いてみる。
1.近江国御家人井口中原系図に「九里の祖」があることを教えていただく。
2.祖の九里太郎経久=蓮忍入道を調べる。
3.丹波国御河村荘が室尾谷山観音寺に寄進をする文書(1239年)と因幡国の富木蓮忍・常忍親子が書かれている文書(1251年)を見つける。
4、丹波国の室尾谷山観音寺の中興の祖が蓮乗で、1233年に再興し、1239年には蓮忍が地頭となってすぐに寄進していることから縁戚関係か?と考えた。
5.蓮乗を調べると、「少納言実明息、慈信改め蓮乗 基仲帥孫」とあった。
6.因幡国富木郷の富木蓮忍の方は、日蓮との関係が浮かび上がってきた。
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5.の関係から蓮乗の父「実明」を調べると二人浮上してきた。
一人目は少納言で、藤原季仲(1046-1119年)の息実明(1066?~?)
二人目は従二位・参議・民部卿の実明(1153-1223年)
周囲の関係、年代から二人目が自分の中では有力候補であった。
しかし、今回有賢の母親が季仲女であったことを見つけたことから、一転、一人目の少納言の方が九里と関係があるのでは…と思うに至ったのだ。
そうなると室尾谷山の蓮乗は年代的に別人となる。
…となると、蓮忍である九里との関係もなくなる。
二人目の実明は残念ながら「少納言」ではない。が、年代的には室尾谷山観音寺と同時代となる。
一人目の場合時代的に合致するのは‥‥
「中原久経」と「九里経久」の説が急浮上か?
しかし「九里太郎経久 蓮忍入道」は全く文書には残らなかった人物かもしれないではないか!(…と目が覚める)
文書ばかりを追っていると、なんだか同じ名前があると「この人」は私が追っている人物であると同じ人、思い込んでしまい、、、
文書に遺されているのは、ほんの一握の人ではないか。いつの間にかそのことを忘れている。
そうは言っても、その一握の中に一名はいるかもしれない…と思ってしまう。
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佐々木源三秀義の父である源有賢。
その母である【藤原季仲女】小野宮流 季仲の姉か妹になる女性である。季仲の息は実明(少納言)
(有賢母は諸説あり:源頼光女・藤原能季女説)
…ということは、季仲の女は、秀義の息 定綱・経高・盛綱・高綱・義清すべての祖母となる!のだ。
…季仲はwikipediaに「朝廷は季仲を「謀大逆」の罪で捕えて周防国に配流、翌年には配所を常陸国に移した。また、子の刑部少輔懐季・少納言実明も解官された。」とあるように、配流の身、息子二名も解任されていた。
その時に有賢に嫁いでいた季仲の姉か妹の縁故を頼って「懐季と実明の息たち」を託すことなど、なかったであろうか?
そして、佐々木氏系図を見ていると、佐々木吉田巌秀が記載されていないことが多い。それはなぜなのか?
(上記の季仲の事と関係があるのではないだろうか?)
そして、もう一つ。
この佐々木吉田巌秀の居た「豊郷吉田庄」あたりは、【中原成行】が開発領主であり、中原経行の方は【伊香郡】が主な活躍の場であった。
そこにも引っ掛かりを感じるも、もしかすると養子などで【成行】の方に入ることもあったのではないか?と思ったりもする。
ともかくも、この吉田氏と成行の後裔とは関係があったと思う。
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この【小野宮流 藤原季仲~実明説】で、整合することと、整合しないこと。
【整合すること・可能性】
・源有賢の母が季仲女であることで、源氏・藤原氏・中原氏・佐々木氏が繋がる。
・醍醐寺文書の中の蓮乗に付記されていた「少納言実明息」の【少納言実明】が整合。
・年代的に中原久経と九里経久が整合。(中原久経 源義朝の祐筆)… 波多野氏との関係も近くなる。(註1)
・賀茂氏とのつながりができる(日野家・大江氏にもつながっている賀茂氏もいる)
・賀茂氏には「西家」「東家」があった。
・私の曾祖母の亡くなる直前に言っていた「九里はササキの出。神社の方」の可能性はある。
・長岡の系のおばあさまの「佐々木高綱の系」というのも、可能性がある。
・伊庭氏「三つ洲浜」。佐々木吉田氏と同じで、つながりが感じられる。
・常州吉田氏がいることと、その吉田氏が馬場氏にもなっている事も関係しそうである。
【整合しないこと】
・実明の蓮乗~九里蓮忍 のつながりは、年代的になかったことになる。
・丹波国 室尾谷観音寺や河守御荘は関係のない蓮忍ということになる。
・1331年の唐崎(辛崎)での討死とすると、年代が合わない。(ただし、唐崎の合戦は何度もあったのかもしれない)
・河守庄と川守庄の符号もなくなる。
・常陸国と那珂氏(大中臣系図)の経久という可能性は年代的にない。(那珂氏とは近い感じもする。)
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一方、【閑院流 藤原公通~実明説】では、
【整合すること・可能性】
・丹波国 室尾谷観音寺の中興の祖である蓮乗と地頭である蓮忍の年代と流れがぴったり。
・常陸国と那珂氏(大中臣系図)の経久という可能性もある。
・三条藤原氏とのつながり:藤原北家閑院流三条西庶流の武者小路家の隆光の娘(義澄の母)と養父である義政または義尚の妻が日野家であったこと、義澄の妻も又日野家であったこと、などの血脈の関係上、義澄を匿ったと思われる。
・源有仁(佐々木荘領主)の室が藤原公実の女
・公実の三男が西園寺通季(通季の孫が実明)
・西園寺家と小倉家の近さ(後の浄椿の預り先であった)
・飛鳥井氏との関係
・卜部氏との関係(これは賀茂氏にも関連するので小野宮流とも関係あるが)
・白川氏との関係
・唐崎討死の年代があう。
・頼盛の娘の娘(孫)は実宗の妻になっている(実宗は実明の兄)
・朽木氏とのつながり
【整合しないこと】
・醍醐寺文書の中の「少納言実明の息」の【少納言】。
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二つの藤原氏は近い場所にいるのです。
鎌足ー房前(ふささき)-真盾ー内麻呂ー冬嗣ー長良ー基経ー忠平ー
ー・実頼(小野宮流創始)-斉敏(ただとし)-懐平ー経通ー経季ー季仲ー実明
ー・実頼の弟、師輔ー公季ー実成ー公成ー実季ー公実ー通季ー公通ー実明
二人の実明の系図は、忠平迄は同じである。
一人目の小野宮流実明の2代後に二人目の閑院流実明となる。
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二人の実明、いまだに悩みの種である。
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『観音寺文書の中の蓮乗が中興の祖であり、地頭の蓮忍が河守御荘を観音寺に寄進した。』このことは、事実である。
そして、常陸国那珂氏から丹波国の金山地頭となった経久の記載のある大中臣系図に出てきている藤原氏が、ねたまれるために「大中臣の【中】と藤原の【原】を引き合わせて【中原氏】を名乗り…」とあり、常陸国那珂を拠点に活動していたと考えると、藤原季仲が配流で常陸国に流されたこととつながってくるようにも思えるのだ。
(上記は網野善彦の著作集 参考)
那珂氏の金山郷地頭の経久だったと仮定してみて、その後どのように近江国にかかわりが出てくるのか? ちゃんとkunoriになれるのか?
「佐々岐庄下方金山」の地頭なので、そこから佐々木氏とかかわりができて、将来的に近江国にも暮らすようになるのだろうか?
この系図の中に朝経の註に「母熱田大宮司季範女」の記載があり、久景女「伊賀四郎妻 光季未孫」とあり、と今まで調べてきたことにつながる事項も見える。季範とは「娘の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。」の人物である。
註1)中原久経に関するweb記事よりhttp://www.fukakusa.org/p005_detail.html?search=%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AF%8D%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F%E3%80%94%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%95
(『親鸞正明伝』には「母ハ源氏、八幡太郎義家ノ孫女・貴光女ト申キ」とある。
吉光女(貴光女)の母は修理大夫中原範兼の娘。源義朝の祐筆【中原久経】の養女=吉光女になった。この縁によって義朝と結婚した
また母には、頼朝に仕えた波多野義通と結婚した姉がいた。)
なお、金山郷の地頭経久は、私が計算したところ1220年前後である。我が家の系図と河村御荘地頭とも年代はあっている。
福知山市大江町南山 観音寺蔵
蓮忍寄進状 延応元年(1239)
観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1239)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御荘観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である
佐々岐庄ともほど近い。
そして、平頼盛の息では、と言われている平高盛が別当となった福知山観音寺・六人部庄もほど近い。斜め上に河守がある。
この福知山観音寺は「中原氏」とも関係があるので、次回に書きたい。