九里 【九里】を探して三千里

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源平盛衰記の中の熊野別当教真

2017-09-20 | 熊野氏
 http://www.cyoueirou.com/_house/item/tomokiri.htmこちらのページよりいただいております!ありがとうございます。


源為朝には多くの妻妾がおり、紀伊国熊野山にも女房がいた。その娘は「たつたはらの女房」と呼ばれ、後に鳥居禅尼として熊野本宮・熊野新宮を操った女傑であった。この鳥居禅尼が熊野別当教真の妻となったことに対し、源為義は、
「為義が聟には源平両家の間に弓箭に携はつて秀でたらん者をこそと思ひつるに、諸事・諸山の別当執行といふ事は、好きもあり悪しきもあり。行徳群に抜けぬれば、左様の官にも職にもなるとこそ聞け。行末もしらぬ者に押して合はすらんこそ不思議なれ」
と言って熊野別当教真・鳥居禅尼との音信を断った。
 ある時に「源平たて分れて合戦ある」という風聞が起こり、京都は大いに混乱した。その様子が諸国に浸透し、熊野別当教真の聞くところになった。そこで熊野別当教真は、
「我が身は不孝の者なれども、かからん時力をも合はせてこそ、不孝も赦さるべけれ」
とて紀伊国内で集めた軍勢1万余騎を随えて源為義援護のために上洛した。すると京都の人々はこの様子を見て、
「これはいかなる人やらん。和泉・紀伊国の間にはか様の大名あるべしとも覚えず」
と疑問に思い、問うて見たところ源為義の聟となった熊野別当教真であることが判明した。その話を聞いた源為義が使者を遣わして熊野別当教真に対し、
「氏種姓は知らねども、甲斐甲斐しき者なり。何なる人の一門ぞ」
と質問したところ、熊野別当教真は、
「実方中将の末孫なり」
と返答した。これに対して源為義は、
「さては為義が下すべき人には非ざりけり。今まで対面せざりけることこそ愚かなれ」
とて熊野別当教真を召喚し初めて対面した。源為義は熊野別当教真の志に感じ入り、源家「重代一具」の剣を分与することとし、「吼丸」を聟への引出物として進上した。受け取った熊野別当教真は、
「これは源氏重代の剣なり。教真が持つべきに非ず」
と言って某所権現に献納した。

 一方、源為義は2振1具の剣のうち1振を手放したので、播磨国より腕利きの鍛冶職人を召喚して「獅子の子」をもとにして寸分も違わないものを製作させた。これは「最上の剣」であったので、源為義はこの上なく喜び、目貫の部分に烏の飾りを使用したので「小烏」と命名した。これ以後、源為義は「獅子の子」と「小烏」を1具として秘蔵したが、「小烏」は「獅子の子」よりも2分ほど長かった。
 ある時、源為義が「獅子の子」と「小烏」を抜き身にて障子に立て掛けて置いたところ、誰も触れてはいないのにもかかわらず「からから」と倒れる音がしたので、
「如何に、剣こそ転びぬれ。損じやしつらん」
と手に取って見てみると2分程長かった「小烏」が「獅子の子」と同じ長さになっていたのに気付いた。源為義は、
「不思議かな。さるべき様やある。截れたるか、折れたるか」
とて「小烏」の切先を注視したが何の変化も見出せなかった。不審に思って柄の部分を見ると、目貫が折れて紛失していた。柄より刀身を抜いたところ、中茎に2分ばかりの新しい切れ口が見つかり、目貫を突き抜いて下がっていたのであった。源為義は「獅子の子」が自分よりも長かった「小烏」を切ったのだと考え、「獅子の子」の名を「友切」と改名した。〔『源平盛衰記』〕

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熊野別当教真とは、どなたのことなのか? 長範か行範か、、

謎であるが、面白い場面の源平盛衰記。
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