くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

「日々徒然」第七話

2017-10-02 13:15:46 | はらだおさむ氏コーナー

はじめての留学

 

 わたしが1957年に中国との貿易を目指してから、60年がたった。

 1964年にはじめて中国を訪問して以後、二百数十回は中国に足を運んでいるが、滞在と言えるのははじめての北京の数十日のみ。前半の友好貿易のときは同僚に助けられ、そのあとの対中投資諮詢の仕事では中国の方々のお世話になった。

 もちろん長い中国とのお付き合いであるから、言葉も耳学問というか、自然と身についたものもあるが、70年代はじめの“北京商談”では、アポ待ちメーカーさんの案内を頼まれて何度も長城や故宮に足を運んだものである。

 82年に対中投資諮詢の仕事をひとりではじめたころ、しばらくは開店休業で、このときはじめて中国語の勉強を始めた。

 大阪中国語学院での土曜日の午後、上海から招聘された女性講師の、厚かましくも中級のクラスを受講。同年輩の方も多かったが、みなさんかなり年季を積まれている。先生の発音が上海訛りと同学のイジメもあったが、わたしには捲舌音を強制されないのは助かった。

 二年目からは、男性講師。上海外大の助教授の由であったが、寧波出身の

おおらかな先生。授業の後はクラスメイトと一緒に大阪案内と称してよく会食したが、そのむかし、日本語のもとにもなっている寧波話(語)=ニンポーフアを覚えたらと、ミソシトレ=(綿)糸取れ、などのご紹介があった。

 

 日本でも電話などではじめての自己紹介のとき、名前は「修学旅行の修(おさむ)です」と告げるが、そのむかし、北京で貿易公司のオペレーターに名前を告げたとき「修正主義の修か」といわれて、がっかりしたことがある。以後先手を取って「修理の修」と告げることにしていたが、上海語では「イディ・シュウ」となり、まるで別人のよう。

 上海は「友好貿易」のとき、「和平飯店」に駐在事務所を置いていたのでなじみ深いが、「投資諮詢」で通訳はほとんど上海の方々のお世話になったので

「中級」二年間の「標準語」はお蔵入り、日々忘却の彼方へとなった。

 種まきは好きだが、後はおまかせ。

 92年の「南巡講話」と「天皇訪中」で対中投資に火が付き、94年の阪神淡路大震災のころ、わたしは倒壊した我が家の再建に追われた。60歳になっていた。

 

 震災二年後の夏(1996年)、ふとしたきっかけで上海の名門校・華東師範大学の夏季中国語講座(中級)を受けることになった。

 8月初旬から二週間+α、構内には外賓楼という新築の三階建てがあり、個室(テレビ・冷房・電話付き)を予約した。授業は午前中のみ、朝・昼食は学生食堂を利用、夕食は市内で外資企業の駐在員との交流という計画で、チェックインした。

 初日の夜は、在上海の友人たちとのウエルカムパーティがあり、ほろ酔い気分でご帰還と相成ったが、ここは大学であった。門はクローズ、守衛も不在、ベルを押しても誰も出てこない。門限があるとは知らなかった、まだ携帯も普及していない当時のこと、どうするか・・・。酔いも手伝ってのことでもあろうが、まだ若かったのであろう。気がついたら2メートルほどの木製の門をよじ登っていた。

 外賓楼の受付嬢は、正門は開いていますのに、と。いまさらタクシーの運転手を責めても、後の祭り・・・。

 

 翌日から授業は始まるはずであったが、何か手違いがあったのか数名の参加者が若干遅れるとかで、わたしたちは構内の庭園で先生を囲んでのフリートーキング。彼の自己紹介が面白かった。数年前同大学の哲学部を卒業、むかしならエリート中のエリートだが「改革開放の世の中」、哲学部卒はお呼びではない。過疎地の農村で数年教師をやったが、ウダツがあがらない。思い切ってもう一度復学、専攻はなにがいいだろうか・・・と。数人で話を聞くと、なんとなくわかってくるから不思議である。二十数歳の好青年であった。

 

 娘からお盆休みに“陣中見舞い”に行くと連絡が入った。         

三泊四日 上海ははじめてなのでどこでもいいが、会社の上海事務所も訪問したい、と。早速外賓楼にシングルを予約、娘の上司にアポを取る。

和風のお惣菜は持ってきてくれたが、あとで思えばこのとき風邪薬など頼んでおけばよかったのだが・・・。

初歩的な上海観光・・・バンド~南京路~豫園、あとはどこへ行ったか。

あれはたしかにローソンの一号店であったと思う、動物園でパンダを見た帰り、虹橋の太平洋飯店で休憩の後、虹橋新村のマンション街を散策していたとき、

あの街角にそれはあった。上海駐在員のご夫人たちが、“あ~ぁ”とも“お~”ともため息をつき、涙ぐんだという、あの三角おにぎりが並んでいた。開店早々であったのだろう、商品の補充が追い付かず、空いた棚には植木鉢があったが、20年前のわたしの目にそれは焼き付いている。

  

 帰国が近づいてきた。

 いくら夏とはいえ、20日以上休んでいるとさすがに少し仕事が気になる。

 また2~3日 しばし別れの送別の宴が続き、疲れが出たのか空調にやられたのか、かなりの高熱を覚えた。外賓楼のフロントにも、置き薬はない。同じフロア―でよく騒いでくれた初級受講の女子学生たちは元気そのもの、だれも薬を持ってきていない。ここで病院へ行って入院でもさされたらと、最後の日の食事会はお断りして、あと一日と、フトンをかぶり続ける。

 

 やっと関空に着き、ホームドクター(先代)に電話を入れる。

 待ってるから、気を付けて来なさい。

 8時過ぎ 先生はひとりドアを開けて待っていた。

 体温計を見ている先生に、入院ですかと聞くと、そんな時間はない。

 いまから点滴をする、2時間ほどかかるから、家へ電話しときなさい。

 それから数日通院、点滴を受けた。

 

 今回の高熱もそうだが、大勢の方にご心配をおかけした。

 “柳に雪折れなし”と母は96歳の長寿を全うしたが、わたしは頭から足までメスの入っていないところのない体、大勢の方に助けられて今日がある。

多病息災と、粋がっていては天罰が下る。(了)

 

                    (2017年2月27日)

 



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