クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生城跡を探る

2006年07月05日 | 羽生城跡・城下町巡り
羽生城という異界への憧れは、
年を経る毎に強くなっています。
一体羽生城とはどんな姿をしていたのか?
遺稿が全て消滅してしまったいまとなっては、
往古を偲ぶことさえ困難です。
知名度は低く、地元に住んでいても、
羽生城の名前すら聞いたことのない人間は決して珍しくはありません。
例えその名前を知ってはいても、
城跡がどこにあるかということになると、
「東谷のブレーキ工場の辺りじゃないかな?」と、たちまち曖昧になります。

「城沼」「城橋」という名前は現在に残っていますが、
城跡を示す看板が建っているわけでもないので、
初めて羽生城を訪れる人にはまるで迷路か、謎解きのように思えるでしょう。
「城」の名前は目にするのに城の姿はどこにも見当たらず、
ここに城があったことは確かなようなのだけど、
一向に辿り着くことはできない
まるでフランツ・カフカの小説に出てくるような城さながらだと思います。
興味のない人間には、城の名も存在も単なる景色の1部でしかないでしょう。
しかし、いったんその世界に足を踏み入れてしまうと、
見慣れた景色のすぐ向こう側に、
別の世界、すなわち異界への入口がちらつき始めます。
何でもない日常の中に、
異界への入口がぽっかりと開いて潜んでいるのではないかと……。

いまぼくの手元には、3枚の羽生城絵図があります。
いずれも現在の景観とはほど遠く、
そこが本当に羽生なのかと目を疑ってしまうほどです。
最初に述べておくと、
羽生城は石垣の上に天守閣がそびえ立つような
絢爛豪華な城だったわけではありません。
大沼を背景に、堀と曲輪(くるわ)と土塁で形成された、
砦の要素の強い平城です。
丸い形をした本丸を中心にたなびく雲のような形をした曲輪が連なり、
東南北は大沼に覆われています。
絵図には具体的な城の様子は描かれてはいませんが、
近世の城に見るような絢爛豪華なものは何ひとつなく、
簡単に破却できるような屋敷があったことくらいでしょう。
天正2年(1574)閏11月、敵にみすみす奪われるのを憂い、
上杉謙信が自ら城を破却できたのもそのためです。
しかし、孤立無援に追い込まれ、
敵の攻撃を何度も受けながらも謙信に忠節を貫き通した堅固な城だったのです。
いまから約400年以上も前、
熾烈な攻防戦が繰り広げられた舞台となっていたことは、
言うまでもありません。 (続)

※画像は大正時代に作成された羽生市地図の一部です。

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