
大河ドラマ「天地人」(NHK)で、
さらっと描かれた“手取川の戦い”。
天正5年(1577)9月23日、
上杉と織田が初めて干戈を交えた戦いである。
ただ、このとき信長は出陣しておらず、
羽柴秀吉も柴田勝家との衝突で、
陣を引き上げてしまっていた。
いわば、柴田勝家vs上杉謙信と言えよう。
勝敗は謙信の圧勝。
夜襲をかけた謙信が織田勢「千余人」を討ち取り、
逃走した兵たちも、折からの大雨で増水した手取川に飲み込まれ、
多くの溺死者が出たという。
ドラマでは、雨によって鉄砲が何の役に立たなかったと、
初音の口から語られていた。
この戦いに、信長本人が参陣したと思っていた謙信は、
案外拍子抜けしたのだろう。
織田軍は弱く、これなら上洛もたやすいだろうと述べるのである。
織田信長も、軍神上杉謙信の前では歯も立たないのか?
そんな印象を与えさせる戦いとあって、
上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)
はねる謙信逃げるとぶ長(信長)
という狂歌が、後世の人によって詠まれている。
ところが、この手取川の戦いについて記した史料は意外にも少ない。
『信長公記』にも記述されておらず、
記念すべき織田と上杉の直接対決でありながら、
史実が見えにくい合戦である。
ところで、謙信が能登・越中に軍勢を進めていた頃、
関東からしきりに出陣の要請が届いていた。
手取川の戦いの数ヶ月前も、
小田、里見、佐竹氏らは「越山」を求めていたが、
謙信は関東に出陣することはなかった。
七尾城の攻略、
織田軍との戦いに忙殺されていた謙信は、
関東に向かう余裕はなかったのだろう。
この隙を狙って小田原の北条氏は動きを活発化させる。
手取川の戦いの2ヶ月後、
安房の里見氏と和睦を結び、
着々と領土を拡大していた。
このままでは、北条の動きがさらに活発化することは目に見えている。
あるいは、上洛をするのに後顧の憂いは取り除いておきたい。
明けて天正6年1月19日、
謙信は関東出陣の陣触れを出すのである。
出陣は3月15日と布告。
手取川の戦いの勝利に乗ずるように、
上杉勢の反撃が始まろうとしていたそのとき、
謙信は厠で倒れる。
出陣を目前にした3月9日のことであった。
越後には、にわかに暗雲が立ちこめる。
謙信の死を契機に、
御館の乱が始まろうとしている。
さらっと描かれた“手取川の戦い”。
天正5年(1577)9月23日、
上杉と織田が初めて干戈を交えた戦いである。
ただ、このとき信長は出陣しておらず、
羽柴秀吉も柴田勝家との衝突で、
陣を引き上げてしまっていた。
いわば、柴田勝家vs上杉謙信と言えよう。
勝敗は謙信の圧勝。
夜襲をかけた謙信が織田勢「千余人」を討ち取り、
逃走した兵たちも、折からの大雨で増水した手取川に飲み込まれ、
多くの溺死者が出たという。
ドラマでは、雨によって鉄砲が何の役に立たなかったと、
初音の口から語られていた。
この戦いに、信長本人が参陣したと思っていた謙信は、
案外拍子抜けしたのだろう。
織田軍は弱く、これなら上洛もたやすいだろうと述べるのである。
織田信長も、軍神上杉謙信の前では歯も立たないのか?
そんな印象を与えさせる戦いとあって、
上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)
はねる謙信逃げるとぶ長(信長)
という狂歌が、後世の人によって詠まれている。
ところが、この手取川の戦いについて記した史料は意外にも少ない。
『信長公記』にも記述されておらず、
記念すべき織田と上杉の直接対決でありながら、
史実が見えにくい合戦である。
ところで、謙信が能登・越中に軍勢を進めていた頃、
関東からしきりに出陣の要請が届いていた。
手取川の戦いの数ヶ月前も、
小田、里見、佐竹氏らは「越山」を求めていたが、
謙信は関東に出陣することはなかった。
七尾城の攻略、
織田軍との戦いに忙殺されていた謙信は、
関東に向かう余裕はなかったのだろう。
この隙を狙って小田原の北条氏は動きを活発化させる。
手取川の戦いの2ヶ月後、
安房の里見氏と和睦を結び、
着々と領土を拡大していた。
このままでは、北条の動きがさらに活発化することは目に見えている。
あるいは、上洛をするのに後顧の憂いは取り除いておきたい。
明けて天正6年1月19日、
謙信は関東出陣の陣触れを出すのである。
出陣は3月15日と布告。
手取川の戦いの勝利に乗ずるように、
上杉勢の反撃が始まろうとしていたそのとき、
謙信は厠で倒れる。
出陣を目前にした3月9日のことであった。
越後には、にわかに暗雲が立ちこめる。
謙信の死を契機に、
御館の乱が始まろうとしている。









