
「嶋田家文書」で新しく発見されたのは、
忠朝の宛行状だけでなく、官途挙状や加冠状もあった。
天正2年(1574)、忠朝は“嶋田助十郎”に「忠」の文字を与えており、
嶋田氏との深い関係が窺える。
その一方で、天正2年当時の羽生城は風前の灯火であり、
改めて絆を深めようとする意志も読み取れる。
「嶋田家文書」の中に、忠朝の兄“広田直繁”の発給文書はない。
直繁は羽生城主である。
あまり目立たないが、廃寺同様の“永明寺”(養命寺)という領内の寺を、
永禄6年に再興したり、
上杉謙信が定めた軍役の中には「広田 五十キ」と記されている(「上杉輝虎公記」)。
同12年には、諸城が北条方に寝返る中で、
「その方の忠信ぬきんぜられ、比類なく候」と謙信から賞され、
「先忠・当忠共に比類なく神妙に候」として、
館林城(群馬県館林市)を与えられたほどだった(「歴代古案」)。
なぜ直繁が木戸の名跡を継がなかったのか定かではないが、
父範実からの歌学の継承に関連してのことか、
あるいは謙信の政治的意図があったのかもしれない。
謙信から発給される文書が、忠朝の場合連名であるのに対し、
直繁は個人に宛てられている。
謙信の情勢は年を追うごとに悪くなっていった。
その中で敵に寝返ることなく忠節を尽くす広田直繁が、
にわかにその存在感を強めていったのではないだろうか。
関東統治の要のひとつ武蔵松山城は陥落し、
謙信にとって力強い味方であった岩付城主太田資正も、
実の息子に追放されている。
関東の諸将は、永禄9年(1566)の臼井城攻めで謙信が攻略に失敗すると、
次々に後北条氏に寝返った。
さらには、謙信の関東出陣の拠点となっていた厩橋城も謙信に反旗を翻し、
情勢は悪化の一途を辿る一方だった。
そんな中、謙信に属し続ける羽生城は、
いわば「関東の情報センター」の役目を担っていく。
実際に謙信は広田直繁に宛てて、
「近辺の様子聞き届け、つぶさに申し越すべきこと肝要に候」
と、書き記している(「歴代古案」)
言ってみれば、謙信の勢力が後退することで、
羽生城は自ずと上杉と北条が対立する最前線に位置する城となっていくのだった。
(続く)

『重修 木戸伊豆守忠朝小伝』
冨田勝治著
私家版(羽生市立図書館所蔵)
忠朝の宛行状だけでなく、官途挙状や加冠状もあった。
天正2年(1574)、忠朝は“嶋田助十郎”に「忠」の文字を与えており、
嶋田氏との深い関係が窺える。
その一方で、天正2年当時の羽生城は風前の灯火であり、
改めて絆を深めようとする意志も読み取れる。
「嶋田家文書」の中に、忠朝の兄“広田直繁”の発給文書はない。
直繁は羽生城主である。
あまり目立たないが、廃寺同様の“永明寺”(養命寺)という領内の寺を、
永禄6年に再興したり、
上杉謙信が定めた軍役の中には「広田 五十キ」と記されている(「上杉輝虎公記」)。
同12年には、諸城が北条方に寝返る中で、
「その方の忠信ぬきんぜられ、比類なく候」と謙信から賞され、
「先忠・当忠共に比類なく神妙に候」として、
館林城(群馬県館林市)を与えられたほどだった(「歴代古案」)。
なぜ直繁が木戸の名跡を継がなかったのか定かではないが、
父範実からの歌学の継承に関連してのことか、
あるいは謙信の政治的意図があったのかもしれない。
謙信から発給される文書が、忠朝の場合連名であるのに対し、
直繁は個人に宛てられている。
謙信の情勢は年を追うごとに悪くなっていった。
その中で敵に寝返ることなく忠節を尽くす広田直繁が、
にわかにその存在感を強めていったのではないだろうか。
関東統治の要のひとつ武蔵松山城は陥落し、
謙信にとって力強い味方であった岩付城主太田資正も、
実の息子に追放されている。
関東の諸将は、永禄9年(1566)の臼井城攻めで謙信が攻略に失敗すると、
次々に後北条氏に寝返った。
さらには、謙信の関東出陣の拠点となっていた厩橋城も謙信に反旗を翻し、
情勢は悪化の一途を辿る一方だった。
そんな中、謙信に属し続ける羽生城は、
いわば「関東の情報センター」の役目を担っていく。
実際に謙信は広田直繁に宛てて、
「近辺の様子聞き届け、つぶさに申し越すべきこと肝要に候」
と、書き記している(「歴代古案」)
言ってみれば、謙信の勢力が後退することで、
羽生城は自ずと上杉と北条が対立する最前線に位置する城となっていくのだった。
(続く)

『重修 木戸伊豆守忠朝小伝』
冨田勝治著
私家版(羽生市立図書館所蔵)









