
羽生城の大手門(正門)。
本丸でさえ消滅している城なので、
大手門など跡形もなく消えています。
ただ、推定することは可能で、
それは中央3丁目と5丁目の境付近にあったと考えられています。
すなわち、旭町通りを南に向かい、
「角田歯科医院」の十字路を西に行ったところです。
もっとわかりやすく言うと、
「りそな銀行」の十字路から東に向かったところで、
そのまま行くと「ファミリーブック」の北の出入り口に繋がります。
大手門跡と推定されるこの場所。
側防の役割を担っていたであろう「大聖院」(廃寺)が近くにあり、
南北に流れる曼陀羅堀も要害の様相を示しています。
本丸へ一直線に繋がっているわけではないし、
攻めるには士辺曲輪(外曲輪)や帯曲輪を突破しなければなりません。
それとこの道は旧道に繋がっている上に、
道幅も城下町の3間半に比べて5間半と広いのです。
おそらく、曼陀羅堀を境界として、
「本城」と「城下町」に分かれていたのでしょう。
そしてそこには大手門が構えられ、
城兵が取り締まっていたものと思われます。
羽生城主広田直繁、木戸忠朝に面会するとき、
この大手門を通らなければなりませんでした。
そしていくつかの曲輪を渡り、本丸へ向かいます。
羽生城は大沼に囲まれた城です。
夕暮れどきには水面に夕日が映えて、美しい光景が見られたでしょう。
夜になれば無数の蛍が飛び交い、
幻想的な風景が広がっていました。
父範実の歌学を受け継いだ木戸忠朝は、この城で歌を詠んだはずです。
のちに歌人として活躍する忠朝の二男“元斎”(げんさい)も、
天正2年(1574)の羽生城自落までここで過ごすのです。
※画像は大手門があったと推定される通りです。
この道をまっすぐ行くと「角田歯科医院」があります。
本丸でさえ消滅している城なので、
大手門など跡形もなく消えています。
ただ、推定することは可能で、
それは中央3丁目と5丁目の境付近にあったと考えられています。
すなわち、旭町通りを南に向かい、
「角田歯科医院」の十字路を西に行ったところです。
もっとわかりやすく言うと、
「りそな銀行」の十字路から東に向かったところで、
そのまま行くと「ファミリーブック」の北の出入り口に繋がります。
大手門跡と推定されるこの場所。
側防の役割を担っていたであろう「大聖院」(廃寺)が近くにあり、
南北に流れる曼陀羅堀も要害の様相を示しています。
本丸へ一直線に繋がっているわけではないし、
攻めるには士辺曲輪(外曲輪)や帯曲輪を突破しなければなりません。
それとこの道は旧道に繋がっている上に、
道幅も城下町の3間半に比べて5間半と広いのです。
おそらく、曼陀羅堀を境界として、
「本城」と「城下町」に分かれていたのでしょう。
そしてそこには大手門が構えられ、
城兵が取り締まっていたものと思われます。
羽生城主広田直繁、木戸忠朝に面会するとき、
この大手門を通らなければなりませんでした。
そしていくつかの曲輪を渡り、本丸へ向かいます。
羽生城は大沼に囲まれた城です。
夕暮れどきには水面に夕日が映えて、美しい光景が見られたでしょう。
夜になれば無数の蛍が飛び交い、
幻想的な風景が広がっていました。
父範実の歌学を受け継いだ木戸忠朝は、この城で歌を詠んだはずです。
のちに歌人として活躍する忠朝の二男“元斎”(げんさい)も、
天正2年(1574)の羽生城自落までここで過ごすのです。
※画像は大手門があったと推定される通りです。
この道をまっすぐ行くと「角田歯科医院」があります。









