
かつて羽生城の大手門を守る役割を担っていた「大聖院」(埼玉県羽生市中央3丁目)。
明治元年3月10日の羽生陣屋騒動に巻き込まれ、
寺は焼失し、そのまま廃寺になって以来、
小さな墓地だけを残すのみとなってしまいました。
路地の奥に位置し、周りを住宅に囲まれたその空間は、
まるで時代に取り残されているかのようです。
大聖院跡地の周囲を巡る排水溝こと“曼陀羅堀”(堀跡)が、
ありし日の羽生城を彷彿とさせます。
そんな時代の流れに埋もれようとしている大聖院跡ですが、
たったひとつだけ現代に生きる遺物があります。
それは“山門”です。
現在その山門は大聖院にはなく、
埼玉県加須市大門町に所在する「龍蔵寺」に残っています。
(龍蔵寺は加須警察署のすぐ東に位置するお寺です)
なぜ大聖院の山門が龍蔵寺にあるのでしょうか?
『羽生ふるさと探訪』(平井辰雄著)によると、
それは両寺の山門が同時期に支障をきたしたことが起因になっているようです。
すなわち、大聖院は檀家が少なく、山門が壊れても修理ができなかったため、
やむなく解体されてしまいました。
一方、龍蔵寺では火事が発生し、山門が焼失してしまうという事件が起こりました。
そこで、龍蔵寺では大聖院の山門を20両で譲り受けたいと申し込んだのです。
大聖院はこれを承諾。
早速山門はいかだに組み立てられると、
葛西用水に流して龍蔵寺まで運ばれました。
同書には、羽生市本川俣の宮大工“三村氏”が、
天保6年(1835)に同寺の本堂を再建したことから、
山門の修復も三村氏が担当したのではないかと記しています。
また、「羽生古城跡と所在の寺院に就いて」(『冨田勝治論文集』所収)によると、
大正初年頃、大聖院付近の道の両側から、
尺5角、長さ2間余の“御影石の柱”がそれぞれ1本ずつ出土したそうです。
これは町の古老荒井三吉氏が語ったもので、このことについて冨田さんは、
「話だけでも往時の大聖院の偉観がしのばれるではないか」と、
同書に記しています。
ちなみに、現在大聖院跡の墓地は、
正覚院(羽生市南3丁目)が管理しています。
正覚院が現在の場所に移ったのは、文禄2年(1593)だったことは、
以前にも書きました。(記事「羽生城ゆかりの寺院「正覚院」について」参照)
その前は羽生城の戦火を逃れ、羽生市上岩瀬に移っており、
それ以前、すなわち最初に所在していたのは、
大聖院のすぐ近くであったことが考えられています。
曼陀羅堀沿いに、北と南にそれぞれあったのでしょう。
そのことを踏まえると、南の城下町の出入口(南戸張)は、
現在の交差点よりも、もっと北に位置していたのかもしれません。
※画像は現在の大聖院墓地内におわすお地蔵様です。
参考文献
冨田勝治著『冨田勝治論文集』私家版
平井辰雄著『羽生ふるさと探訪』私家版
明治元年3月10日の羽生陣屋騒動に巻き込まれ、
寺は焼失し、そのまま廃寺になって以来、
小さな墓地だけを残すのみとなってしまいました。
路地の奥に位置し、周りを住宅に囲まれたその空間は、
まるで時代に取り残されているかのようです。
大聖院跡地の周囲を巡る排水溝こと“曼陀羅堀”(堀跡)が、
ありし日の羽生城を彷彿とさせます。
そんな時代の流れに埋もれようとしている大聖院跡ですが、
たったひとつだけ現代に生きる遺物があります。
それは“山門”です。
現在その山門は大聖院にはなく、
埼玉県加須市大門町に所在する「龍蔵寺」に残っています。
(龍蔵寺は加須警察署のすぐ東に位置するお寺です)
なぜ大聖院の山門が龍蔵寺にあるのでしょうか?
『羽生ふるさと探訪』(平井辰雄著)によると、
それは両寺の山門が同時期に支障をきたしたことが起因になっているようです。
すなわち、大聖院は檀家が少なく、山門が壊れても修理ができなかったため、
やむなく解体されてしまいました。
一方、龍蔵寺では火事が発生し、山門が焼失してしまうという事件が起こりました。
そこで、龍蔵寺では大聖院の山門を20両で譲り受けたいと申し込んだのです。
大聖院はこれを承諾。
早速山門はいかだに組み立てられると、
葛西用水に流して龍蔵寺まで運ばれました。
同書には、羽生市本川俣の宮大工“三村氏”が、
天保6年(1835)に同寺の本堂を再建したことから、
山門の修復も三村氏が担当したのではないかと記しています。
また、「羽生古城跡と所在の寺院に就いて」(『冨田勝治論文集』所収)によると、
大正初年頃、大聖院付近の道の両側から、
尺5角、長さ2間余の“御影石の柱”がそれぞれ1本ずつ出土したそうです。
これは町の古老荒井三吉氏が語ったもので、このことについて冨田さんは、
「話だけでも往時の大聖院の偉観がしのばれるではないか」と、
同書に記しています。
ちなみに、現在大聖院跡の墓地は、
正覚院(羽生市南3丁目)が管理しています。
正覚院が現在の場所に移ったのは、文禄2年(1593)だったことは、
以前にも書きました。(記事「羽生城ゆかりの寺院「正覚院」について」参照)
その前は羽生城の戦火を逃れ、羽生市上岩瀬に移っており、
それ以前、すなわち最初に所在していたのは、
大聖院のすぐ近くであったことが考えられています。
曼陀羅堀沿いに、北と南にそれぞれあったのでしょう。
そのことを踏まえると、南の城下町の出入口(南戸張)は、
現在の交差点よりも、もっと北に位置していたのかもしれません。
※画像は現在の大聖院墓地内におわすお地蔵様です。
参考文献
冨田勝治著『冨田勝治論文集』私家版
平井辰雄著『羽生ふるさと探訪』私家版









