クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「その時歴史は動いた」。“戦国北条氏”に抗う悲運の武将は?(10)

2008年03月24日 | 戦国時代の部屋
戦国北条氏を滅ぼし、実質的に天下統一を果たした豊臣秀吉。
岩付城は北条氏の支配から離れ、
一時的に秀吉旗下の“明石掃部”が配置されます。

周知のように、新たに関東へ移封となったのは“徳川家康”です。
それまで着々と経営していた旧領は手放さざるを得ず、
新たに関八州を与えられたのでした。
反対する家臣はいたものの、
家康はこれを受け入れます。

天正18年(1590)8月1日に関東へ入部。
人生のひとつの節目と捉えていたのかもしれません。
家康は新たな領地でその手腕を発揮していくのでした。

まず家臣への知行割を行います。
新体制で領地を支配する重要な仕事です。
換言すれば、新たな時代の幕開けでした。

このとき太田資正はどのような気持ちだったのでしょう。
北条氏は滅亡し、自分を追放した我が子“氏資”はすでに亡く、
岩付城主“太田氏房”は北条氏直と共に、
高野山へ追放されています。

永禄7年(1564)に岩付城を失って以来、
ひたすら奪還を夢見てきた太田資正。
関東は家康の支配下となり、
新しい時代を迎えます。
そして、天正18年8月15日に知行割が発表。
岩付城は“高力清長”が2万石で入城となるのです。
それは、太田資正の死の前年のことでした。
(続く)
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埼玉県
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