クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「風林火山」。川中島合戦の“長尾景虎”は本当は何をしたかった?

2007年10月01日 | 戦国時代の部屋
天文22年(1553)8月、12年にも及ぶ“川中島合戦”の火蓋が
ついに切って落とされます。
すなわち、第1次川中島合戦です。
大河ドラマ「風林火山」でも、
“武田晴信”(市川亀治郎)と“長尾景虎”(Gackt)が初めて干戈を交えました。
あるいは“山本勘助”(内野聖陽)と“宇佐美定満”(緒形拳)の軍師対決とも……。

景虎は8千の兵を率いて川中島へ出陣。
8月下旬、布施で初めて武田軍と衝突しました(布施の戦い)。
このとき景虎は血気盛んな24歳、晴信は33歳でした。

9月1日には景虎は八幡で武田軍を破り、
荒砥城や虚空城を攻略します。
それはまるで武田軍を挑発するがごとくでしたが、
晴信は塩田城に詰めて動かないのでした。

景虎の合戦は義の戦いといえど、川中島合戦はいわば自衛戦。
この地が武田軍にわたっては、
越後の安定は脅かされるからです。
“村上義清”らの要請を受けて川中島に出陣したとされますが、
景虎にとって晴信と槍を交えざるを得なかったのです。

さらに、このとき景虎の心を大きく占めていたのは“上洛”です。
すでに天文20年から上洛の準備を着々と進め、
もはや上洛するは時間の問題となっていました。
なぜ上洛する必要があったのか?
それは朝廷から綸旨を賜ることで義の戦いとし、
朝廷や幕府を守りたいがためです。
律儀者の彼は旧秩序の回復を望んでいたのでした。

「天下布武」の理念を叶えるべく朝廷を利用し、
新しい世の中を築こうとした織田信長とはまるで真逆です。
実は景虎が初めて関東に出陣した永禄3年(1560)は、
織田信長が桶狭間にて今川義元の首をとった年でもありました。
以後、信長は紆余曲折を経ながらも、
着々と天下に近付いて行きます。

一方、景虎は旧秩序にこだわり、
泥沼と化した関東に足をとられます。
あまつさえ、川中島で武田晴信と何度も火花を散らし。
永禄4年(1561)年の第4次川中島合戦では激しく衝突。
結局、因縁の戦いに勝敗がつくことはなく、
両軍ともに大きな損害を出しただけでした。

いわば不毛な戦いです。
戦国最強が同じ時代に生き、あまつさえ領国が近かったために、
両雄は川中島にて時間を空費せねばなりませんでした。
その第1戦が天文22年に始まり、
以後12年間にわたって両者は互いの首を絞め合うのです。
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