クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

誰のゆるキャラの“後ろ姿”かわかるかな? ―ムジナもん―

2012年05月16日 | ムジナもんの部屋
羽生市には、ゆるキャラの着ぐるみが7体いる。
いずれも市民からの寄付金で作られたものだ。

最近、この着ぐるみたちが妙にアクティブである。
特に、イナゴーシャスは元気いっぱいだ。
また、それぞれの性格やキャラ性を表す仕草が目につく。

子どもも、そんなゆるキャラに大はしゃぎだ。
中には、満面の笑みでゆるキャラに触れる老爺もいる。
カメラを構えるお父さん、お母さんもみんな笑顔である。

ゆるキャラは空気をゆる〜く、明るくする力を持っている。
何かと厳しいと言われる社会だが、
羽生のゆるキャラが世の中を明るく元気にしてほしい。

ところで、ゆるキャラの写真撮影は、何かと正面から撮られることが多い。
最初に掲げた写真は、
羽生のゆるキャラの背中を写したものである。

どれが、どのキャラかわかるだろうか?
そして、不在のキャラが1体いるのだが、
果たしてそれは誰でしょう?
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大坂冬の陣、“石川忠総”はどんな想いを秘めて戦った?

2012年05月15日 | ふるさと人物部屋
太田道灌の暗殺を指示した“扇谷上杉定正”は、
川を渡ろうとするときに落馬し、命を落とした。
この定正の頓死を記した史料は、
「石川忠総留書」である。

“石川忠総”は天正10年(1582)に生まれた。
父は“大久保忠朝”、母は“石川家成の娘”。
忠総(ただふさ)は石川家成の養子となり、そのまま養父の遺領を継いでいた。

ところが、慶長19年(1614)1月の実家大久保家の改易により、
忠総もその影響を免れず、駿府に蟄居していた。

大久保家の改易の理由はよくわかっていない。
“本多正信”の企みによる説が有力視されているが、
徳川家に忠節を尽くしてきた大久保家を、
なぜ家康が改易に踏み切ったのか、明確な理由は定かではない。

大久保忠隣は忠世の嫡子であり、徳川家重臣である。
相模小田原・武州羽生両城の6万5千石を治め、
徳川家後継問題では、

 台徳院殿智勇かね備りたまふ、天下を譲りたまはむこと
 この君ををきて誰かあるべき
 (『寛政重修諸家譜』)

と、忠隣が強く進言し、将軍に秀忠が決まったという過去もあった。
秀忠自身は、大久保家改易に思うものがあったのだろう。
名誉挽回、あるいは起死回生の好機とばかりに、
その年の冬に勃発した“大坂の冬の陣”で、
石川忠総を従軍させるのである。

石川忠総は、そこで見事な働きを見せる。
“薄田兼相”の守る博労ヶ淵の砦を奪還するのだ。
薄田は剛勇で知られる武将だが、
大坂城の堅固な守りに油断したのか、遊郭で遊んでいたらしい。
その油断を突いたのが、石川忠総・蜂須賀至鎮・池田忠雄の東軍だった。

忠総は五艘の舟で進軍する。
至鎮は水陸に分かれて進み、一気に敵陣を急襲した。
砦に詰めていた大坂方はたちまち瓦解。
木戸が破られるや否や、兵たちは砦を捨てて敗走したのである。
ときに慶長19年11月29日のことだった。

石川忠総は何を思っただろう。
大久保家の誇りを胸に戦ったのかもしれない。

冬の陣は、徳川と豊臣の和睦が成立し、
大坂城が落城するのは翌年の5月であることは周知の通りだ。
冬の陣で活躍を見せた石川忠総だったが、
大久保家の再興には到らなかった。
ただ、忠総自身は大垣藩5万石を拝領している。

徳川家康は元和2年(1616)に死去。
家康亡きあと、徳川秀忠は近江の彦根藩に蟄居している忠隣に、
申し開きを勧めた。
すなわち、秀忠自身は再度の取り立てする気持ちでいたのだろう。

しかし、忠隣は首を横に振る。
ここで取り立てられれば、大御所(家康)の過ちを表すようなものゆえ、

 古人謂はすや君辱かしめらるるときは臣死すと、
 然らば何ぞ己を立んと欲して君を辱かしめんや

と述べ、申し開きをしなかったという(『井伊家家譜』)。
忠隣は、最後まで忠義を貫き通したかったのだろう。
石川忠総もそんな父の気持ちがわかっていただろうか。

忠隣は寛永5年(1628)に死去。
忠総は慶安3年(1650)にこの世を去る。

大久保家一族はその後取り立てられ、
忠朝の時代には小田原城に返り咲く。
忠隣や忠総は家の改易という憂き目を通らねばならなかったが、
その忠義の魂はいまも語り継がれている。

※最初の写真は小田原城(神奈川県小田原市)
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“好き”の上は“ときめき”? ―子ども学芸員(21)―

2012年05月14日 | 子どもの部屋
好きと思う気持ちこそ、その人の才能だ。
人は皆、好みが一緒ではない。
流行ものが好きな人もいれば、
古いものが好きな人もいる。

何が好きで嫌いなのかは、
皆それぞれ違う。
人があまり見向きもしないものを好きになることもあるだろう。
人と違うことはいけないことなのだろうか?

それが社会や人間としてのルールに反していない限り、
誇りに思っていい。
人には持ってない感性があると、胸を張ればいい。
それは立派な才能だ。
好きになろうと思っても、どうにかできるものではないのだ。

みんなと違うからと言って、周囲に合わせる必要はない。
「みんな」「世間」と一緒になることを目標にして、
せっかく好きなものを引っ込めたら、
その人の個性はなくなってしまう。
「みんな」の中に埋もれ、名前さえ見失う。

むろん、「みんな」に合わせることで安心感を覚える人もいるだろう。
異なることで不安を覚えるなら、合わせてもいい。
一緒になることが悪いわけではない。

ただ、自分の心に嘘はつけない。
隠そうと思っても、かえってそれが出てきてしまう。
目をそらしても、意識してしまう。
好きなものは好きなのだ。
理由などない。

“好き”の上は、“ときめき”だと思う。
例えば、戦国武将にときめいている人は、
歴史が好きなことは当然だろう。
歴史の中でも武将にときめいているから、
自ら本を買って読んだり、ときにはコスプレもする。
戦国武将萌えしている人が、
例えば大正時代にときめいているかといったら分かれるだろう。

「好きだから続ける」という言葉を目にしたり聞いたりする。
でも、実際に続けている人は、きっと好き以上にときめいているのだ。
ときめくからこそ続ける、続けられる、続けざるを得ない。
長く続けてときめきを無くしている人でも、
脳からそれに似たものが出ているはずだ。

ときめきは楽しい。
世界中からときめきを集めてエネルギーに換えたら、
簡単にロケットを飛ばせるだろう。
月面着陸など目じゃない。

それに、ときめきは恋だけにあらず。
土器にときめく人もいれば、
土塁に惚れて全国を旅している人もいるのだ。

細胞は活性化し、生きる気力の源となる。
ぼくの師は、20歳までに死ぬと言われて99歳まで生きたのは、
体質的なこともあるだろうが、
羽生城にときめき続けていたからだと、半ば本気で思っている。

ときめきを大切にしよう。
みんなと違うからといって悲観することはない。
それはキミの立派な才能なのだ。
ときめきは、キミにしかできない仕事に繋がるかもしれない。
それはいずれ、キミの人生を切り拓くロケットになるかもしれないのだから。
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戦国時代の鉄砲はどう防ぐ? ―竹束―

2012年05月13日 | 戦国時代の部屋
 金鑿ヲ集メ城中ヘホリ入ル程、城ノ兵トモ鉄砲ヲソロヘテカネホリトモヲ打殺ス、
 上ヨリミヲセシ打ケルホトニ、金ホリ多死ニケレハ、ヨセ手工夫ヲ廻ラシ、
 竹ヲ結集メ、ソレヲタテニシテ、タケタワと名ツケ掘ケル
 (『北条記』)

松山城攻防戦の一幕である。
永禄5年から翌年にかけて松山城を攻めた北条・武田両軍は、
城の水源を断ち切ろうとした。
このとき信玄の命を受けたのは金堀衆だ。

ところが、『北条記』にあるように、城方は鉄砲を放つ。
金堀衆はこの弾丸を受け、死者は多数にのぼった。
そこで持ち出されたのが「タケタワ」(竹束)である。
竹を数十本束ね、それを楯としたのだ。

当時の鉄砲の威力は、いまと比べものにならないほど弱い。
至近距離ならともかく、ある程度距離が離れていれば、
弾丸は竹束を貫通することはなかった。
弾き返すこともあったという。

『北条記』では、この竹束のおかげで金堀衆は掘り進め、
やがて城内の櫓を2つ掘り崩したと記している。

映画「BALLAD 〜名もなき恋のうた〜」でも、
この竹束は登場していた。
城を攻める際、先頭の歩兵隊が手にしていたのが竹束だった。
竹は珍しいものではない。
ゆえに敵地で刈り取り、即席で作る竹束も多かっただろう。

松山城は、城方の奮戦空しく開城。
上杉謙信の救援を知らずしての開城だった。
その後、謙信が腹いせのために向かったのは騎西城である。
上杉軍は猛攻を浴びせる。
このときの戦いで鉄砲が使われたか不明だが、
騎西城の武家屋敷跡からは竹束が出土している。
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くっくっ……わかったぜ? ―コトノハ(11)―

2012年05月12日 | コトノハ
 くっくっ……
 わかったぜ?
 ナニが“欲しい”のかよぉ
 “敵”が欲しいんだよう…!?
 (原作佐々木飛朗斗・漫画所十三『特攻の拓』9巻より)

「武丸」の言葉である。
彼のような肉食系の人はいる。
常に“敵”を欲している人。
彼の場合、単に喧嘩がしたいのだろう。

見方を変えれば、敵がいるから武丸は己の強さを誇れる。
敵対勢力があるゆえに、てっぺんを目指せる。
自分の居場所を見付けられる。

特撮戦隊物のヒーローとて、敵がいるから輝くのだ。
敵がいなければ、ただのコスプレイヤーだ。

武丸の言葉は「敵」でなく、
「標的」に置換してもいいと思う。
もっと草食系にすれば、「目標」だ。

目標のない武丸は、いわば死んだ魚の目をしている状態。
ボーとして、単に町を徘徊するだけ。
しかし、敵=目標を見付けた途端、
彼は生命力をたぎらせる。

目標なりノルマや締切は大切である。
そこを目指して集中できるからだ。
目標があれば、それを達成するために考えるし、工夫もする。
緊張感も生まれる。
この緊張感がいい意味で刺激になる。

強制的な目標もあれば、
自ら欲してもいい。
自発的なものならばモチベーションも高い。
ただ、ある程度強制力がないと、
持続させるのが難しいかもしれないが……

もし、いま見つかっていないのならば、
どんなものを欲しているだろうか。
武丸のように、ひょんなきっかけで見つかるかもしれない。
そのときは不敵に笑ってみよう。
「くっくっ……わかったぜ?」、と。
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羽生の“村君あおぞら市場in永明寺”へ行きませんか?

2012年05月11日 | お知らせ・イベント部屋
5月13日(日)、羽生市村君にて
“村君あおぞら市場in永明寺”が開催される。

広報紙によると、「村君版B1グルメカップ」が実施されるらしい。
そのほか、野菜・花の直売、輪投げ・射的の「遊びの寺子屋」、
おでんや焼きそばを販売するとのこと。

会場の“永明寺”は真義真言宗のお寺。
永禄6年(1563)に羽生城主“広田直繁”によって再興された。
直繁の判物を見ると、
当時は「養命寺」と表記していた。
その名残のため、いまでも「永明寺」と書いて「えいめいじ」と呼ぶ。

このお寺の境内には、羽生市で1番大きな前方後円墳がある。
その名も“永明寺古墳”である。
誰が眠っているのかは不明だが、
「村君」の地名が示すように、
古くから拓けた地域だったのだろう。

古墳をはじめ、指定文化財がいくつかあるので、
市場と一緒に歴史散策をしてみると、
別の楽しみ方もできると思う。

なお、村君は“英語”に力を入れている地域であり、
「英語村」と呼ばれている。
なかなかグローバルな地域なのだ。

したがって、村君に入ったら全て英語で話さなければならない……
というわけでは、もちろんない。
安心して日本語を使おう。

時間は午前9時から午後2時まで。
村君近隣には、“羽生スカイスポーツ公園”や、
淡水魚専門の“さいたま水族館”がある。
初夏の羽生を楽しんではいかがだろうか。

<村君あおぞら市場in永明寺>
日時:5月13日(日)午前9時〜午後2時
場所:永明寺境内(埼玉県羽生市村君)
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羽生の宮田落としの“宮田”とは? ―はにゅう萌え(47)―

2012年05月10日 | はにゅう萌え
 上羽生岸之町宮田弐反半歩之所、前々大途大縄にも被為除之候、
 然而彼田者、鷲宮御供領ニ付て、累年も地人等不致作候、
 因茲正覚院江可被付置旨、相模守にも為申聞候、至于後年も可有御抱候者也
 (正覚院文書)

慶長5年(1600)7月に出された羽生城奉行人の連署寄進状である。
上羽生の岸之町にある「宮田2反半歩」は、鷲宮神社の寺領だった。
しかし、これを羽生城主“大久保忠隣”の了解を得て、
正覚院に付置することになったことを伝えている。

岸之町は正覚院の付近、
現在の羽生市南3丁目付近を指す。
『新編武蔵風土記稿』上羽生村の項に小名・篠町とあるが、
「きしのまち」の「き」の字がなくなって「しのまち」となったのだろう。

ここに鷲宮神社の寺領があって、
地元の民はここで毎年作物を作れなかった。
この田んぼを“宮田”と呼んでいたという。

現在、羽生南小学校の裏を流れる “宮田落とし”も、
宮田にちなんだものだ。
普段使っている名称にも、
さりげなく歴史が隠されている。

なお、この文書の差出人は「桑原九兵衛」「佐伯図書」「乗松内記」の3人。
大久保忠隣に仕える奉行人で、
羽生領の政務や経営を司っていた。
城主の忠隣は羽生に足を運んだことは一度もなく、
奉行人が忠隣に窺いを立てながら事務処理を行っていた。

宛所は「正覚院」である。
ちなみに、この年の9月、西国では関ヶ原の戦いが起こっている。
しかし、村では着々と秩序を取り戻し、
近世の時代を迎えていることが窺えるだろう。

冨田勝治氏の研究によると、
宮田落としは近世における羽生城の外堀(惣堀)と比定される堀だ。
いわば境界線ということになるだろう。
近所に住む人や、南小学校に通う児童たちは、
当たり前のように目にする堀かもしれない。
しかし、見る角度を少し変えてみると、
思わぬ光景の広がりを感じるのではないだろうか。

※最初の写真は宮田落排水路(埼玉県羽生市)
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名胡桃城で豊臣秀吉に「否」を突きつける? ―名胡桃城―

2012年05月09日 | 城・館の部屋
名胡桃城は、山の上に築かれた山城だ。
人の手が加わっているものの、
公園や観光地のような整備はされていない。
ゆえに、曲輪や堀が生々しく迫ってくる。

個人的には、遺構が生々しく残っている方が好きだ。
綺麗に整備されていると、現代の時の流れを感じてしまい、
それがかえって邪魔になる。

天正17年、北条方の“猪俣邦憲”が、真田方の名胡桃城を奪還し、
豊臣秀吉の怒りに触れたことでよく知られる。
この当時、北条と真田が互いに睨みをきかせていた場所だった。
秀吉の裁定により、沼田城を含む沼田領3分の2を北条へ、
残りの3分の1を真田の知行地とされた。

真田昌幸は沼田城を北条に明け渡し、名胡桃城に入った。
これにて一件落着のはずだったが、
両者の睨み合いは収まることなく、
猪俣邦憲がついに“鈴木主水”の守る名胡桃城主を奪取してしまう。
これは、惣無事令の違反、
すなわち秀吉の裁定の反故を意味していた。

この事件をきっかけに、秀吉は小田原征伐へと動く。
秀吉が小田原城を攻め、同城は天正18年7月6日に開城となった。
関東に勢力を伸張し続けた後北条氏は没落。
北条に与した関東の国衆たちも、それぞれ大きな転機を迎えたのである。

そんな小田原の役の引き金になったと言える名胡桃城は、
上記の通り、比較的良好に遺構が残っている。
物見郭、ささ郭、本丸、二の丸、三の丸と連なり、
現在駐車場の般若郭が居館址と考えられている。

観光地の要素は薄く、
ここを訪れる人のほとんどは、歴史を知っている人に違いない。
この城跡に立って、何人もの人が真田氏や鈴木主水に想いを馳せただろう。
そんな人々の想いや歴史の営みを表すかのように、
眼下に利根川が流れている。


名胡桃城址(群馬県みなかみ町)の 般若曲輪










二の丸






土橋


本丸






物見曲輪




袖曲輪


袖曲輪からの眺め


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真田昌幸の名胡桃城から歴史は動いた?

2012年05月08日 | 戦国時代の部屋
 誠対天下、拔公事表裏仕、重々不相届動於在之者、何之所成共、堺目者共、
 一騎懸ニ被仰付、自身被出御馬、悪逆人等可被為刎首儀、
 案之中被思召候間、心易可存知候
 (「真田文書」)

“豊臣秀吉”が“真田昌幸”に宛てた書状の一文である。
天正17年に比定されるこの書状は、
秀吉の天下獲りへの野心が迸っている。

すなわち、真田方の名胡桃城を、北条方の“猪俣邦憲”が奪い取り、
「惣無事令」に反したとして、秀吉は北条征伐を決意する。
なかなか上洛しない北条を征伐するいい口実ができたと、
ほくそ笑む秀吉像が小説などでは描かれる。
書状では秀吉自身が出馬し、
「悪逆人」の首を刎ねてやると意気込んでいるのがわかる。

実際に、秀吉は小田原城主“北条氏直”に宣戦布告。
氏直はどちらかというと穏健派で、
この騒ぎが起こる前に上洛はやぶさかではなかった。

好戦派は“北条氏政”とその弟の“北条氏照”である。
秀吉への従属を渋り、上洛を引き延ばしていた。
それは、織田信長の勢力が関東へ伸長してきた天正10年、
北条は関東覇者の夢を叶えられないと痛感したからだろう。
織田方に従属したものの、信長の措置は決して北条の望むものではなかったのだ。
信長の野望を継いだ秀吉は、
夢を阻む者として、北条の目には映ったのかもしれない。

慌てたのは穏健派の北条氏直だ。
「名胡桃のことは一切存ぜぬこと」と弁明し(「武家事紀」)、
また徳川家康には、「秀吉か送られてきた宣戦布告には驚き入り、
勘弁してもらうよう取り成してほしい」、と述べている(「古證文」)。

しかし、秀吉は許さない。
先発隊のあとを追い、翌天正18年3月に3万の軍勢を率いて小田原城へ向かうのである。
戦国時代は北条に始まって北条に終わると言う。
小田原城が落城し、北条が没落したことは新しい時代の幕開けだった。
小田原の陣のあと、すぐに奥州を平定し、
秀吉は天下統一の野望を果たすのである。

いわば、猪俣邦憲の名胡桃城乗っ取り事件によって、歴史は動いた。
小さな事件ではあったが、それが秀吉の天下統一に拍車をかけた。
もし名胡桃城で事件が起こらなかったら、
天下統一はもう少しあとだったかもしれない。
だとすれば、高齢の徳川家康は大坂の陣を起こすことなくこの世を去り、
豊臣家は強い力を持って存続し続けていただろうか。

歴史は些細に思えるきっかけから大きく変わる。
人の思惑や欲が絡まり、連動し、巨大なものへと動いていく。
しかし、歴史の流れは常に一つなのかもしれない。
全く予期せぬものでも、それは歴史の懐の内と言える。


名胡桃城址(群馬県みなかみ町)
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夜の羽生で“飛行船”が光る? ―はにゅう萌え(46)―

2012年05月07日 | はにゅう萌え
書を捨て町に出ると、
時たま予期せぬものと出会う。

夜、友人と足を運んだキヤッセ羽生で遭遇したのは、
ぼんやりと光る“飛行船”だった。
停留し、おやすみモードの飛行船である。

着陸した飛行船は、地面に「着陸」しているわけではないらしい。
紐でつながれた魚のように、ふわふわ浮いている。
風が吹けば向きを変え、
音もなく浮かんでいた。

周囲は、だだっ広い野原や田んぼで、
そこに浮かぶ飛行船はUFOを思わせるのに充分だった。
もし、未確認飛行物体に遭遇したら、
こんな感じなのだろうか。

キヤッセ羽生の丘に登り、ぼくらはしばらく飛行船を眺める。
その夜、ぼくらは全く予期せぬ沼巡りをしていた。
20年ぶりに会う同級生4人と約束をしていたのだが、
風邪の影響で飲み会は中止。

残った2人でラーメンを食べ、そのまま何とはなしに足を運んだ沼から、
沼巡りがスタート。
最後の締めに向かったのが宝蔵寺沼ムジナモ自生地だった。

もちろん、最初からコースが決まっていたわけではない。
思い付きもいいところだ。

風が吹けば向きを変える飛行船のごとく、
あるいは水面に気まぐれに浮かぶムジナモのように、
ぼくらは夜の中を漂っていた。
そして、キヤッセ羽生の丘の向こうに浮かぶ飛行船を発見したのだ。

友人はツイッターで呟き、
飛行船を知る女子高生と会話を楽しんでいたらしい。
こういうものに出会うと、外に出てきてよかったと思う。
予期せぬ遭遇は狙って叶うものではない。
ありきたりの観光地に行かずとも、
予期せぬ出会いは身近なところに落ちているものである。

ちなみに、宝蔵寺沼ムジナモ自生地は夜闇に包まれ、人の気配はまるでない。
しかし、カエルと魚の動き回る音で、
パーティのごとく賑わっていた。


キヤッセ羽生にて(埼玉県羽生市)




消灯




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菖蒲の隠れた店は女子に(も)人気?

2012年05月06日 | グルメ部屋
菖蒲で教えて貰った店のパスタ。
大型ショッピングモールから南へ行ったところにある。

大きな看板があるわけではなく、
隠れ家的な雰囲気満載だ。
目印は学校といったところか。

ツレは女子会で使ったらしい。
なるほど、女子が好きそうなお洒落な雰囲気である。
隠れ家と思いきや、店内はほぼ満席状態だった。
菖蒲では有名店なのかもしれない。

その日のおすすめパスタを注文。
海老とアスパラのペペロンチーノである。
言うまでもなく、ペペロンチーノはニンニク使用だが、
みんなで食べれば恐くない。

男子にとって、パスタはやや物足りないことが多いかもしれない。
大盛りにしても、十代男子にはきっと足りないだろう。

しかし、最近少食を心がけているせいか、
パスタくらいが丁度いいのかもしれない。
女子のように、パスタで「お腹いっぱい」と言ってみたい。

店内は家族連れやカップルのほか、女子同士の姿が多かった。
ぼくがその日見た限り、
男同士の組み合わせはなかった。
こういう店だからこそ、男同士で行ってもいいかもしれない。
あっという間に平らげ、
手持ちぶさたになってしまうかもしれないけど……
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騎西の田ヶ谷で合戦があった?

2012年05月05日 | 戦国時代の部屋
 於武州崎西郡南多賀谷方々、致粉骨合戦之条神妙候、
 猶以励戦功者、可有忠賞候、謹言
 (「賜蘆文庫文書」)

文正元年(1466)閏2月、“結城氏広”が
「南多賀谷」での合戦に励んだ“小塙河内守”に宛てた感状である。
「南多賀谷」は、旧騎西町(現加須市)の田ヶ谷に比定される。

足利成氏が康正元年(1455)に騎西城を攻めて陥落させて以来、
同城周辺は古河公方勢力圏となった。
これに対抗するは、関東管領上杉方であり、
やがて五十子に陣を構えて拠点とした。

騎西城周辺は古河公方勢力圏の最前線にあたり、
両軍はしばしば干戈を交えた。
長禄4年(1460)には会下合戦(旧川里町)が起こり、
その翌日には海老瀬(板倉町)と羽継原(館林市)で両軍が衝突。

そして、その6年後の文正元年(1466)に、
「南多賀谷」で合戦が起こっているわけである。

たまらないのは農村や、そこに暮らす農民たちだろう。
敵が進軍してくれば、城に入り自衛に努めた。
館から城郭化してくるのは、
内乱の激化に伴う自衛の強化でもあった。

城に入った農民は、むろん女や子ども、年寄りも含まれている。
女も槍を振るう場面もあったかもしれないが、
主に炊事や負傷した者の看護に走り回っていた。

ちなみに、永禄6年(1563)に上杉謙信が騎西城を攻めた際、
本丸と二の丸を繋ぐ橋を女たちが渡る姿を見たとあるが(『関八州古戦録』)、
これも城に避難した者たちだろう。

農民たちが城に入っていいのは、二の丸まで。
本丸までの入城は許されなかった。
ゆえに、二の丸、三の丸に農民たちが詰め、
防戦や炊事の仕事に努めた。
謙信が騎西城の二の丸を攻めたとき、
もののふではなく女や子どもたちが多かったと言えよう。

会下合戦や南多賀谷合戦の具体的な戦闘模様はわからないが、
その近くに住む農民たちは気が気でなかったに違いない。
村は荒らされ、食糧も強奪される。
城に入って難を逃れても、厳しい現実が待ち受けていた。
合戦は、時に古い時代を破るエネルギーになるが、
戦火の犠牲に苦しむ人々がいたことを忘れてはならない。

※最初の写真は騎西城の天神曲輪跡(埼玉県加須市)
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精神的圧迫を減らすため“羽生”で土地を買う? ―コトノハ(10)―

2012年05月04日 | コトノハ
 もし自分の家を持つことができたら
 生活費の3分の1を占める家賃から解放され
 仕事も3分の1少なくてすむ。
 その他もろもろの精神的圧迫も3分の1軽減される。
 そんな計算でとりあえず土地だけでも確保しておくつもりで
 埼玉県の羽生の町に行ってみた。
 (つげ義春著「枯野の宿」より)

「枯野の宿」の出だしのコトノハである。
主人公は漫画家。
「他の同業者の10分の1にも満たない遅筆」である彼は将来を案じ、
何とはなしに羽生の町にやってくる。

なぜ羽生なのか?
作品の中でこう述べられている。

 羽生を選んだ理由は何もない。
 東京からこれくらい離れたらなんとかなるだろうという腹だった。
 (同上)

つげ義春氏の作品は、私小説の要素が濃い。
「枯野の宿」も、おそらく作者の実体験がモデルになっているのだろう。

純文学に親しむつげ氏は、
羽生を舞台にした小説『田舎教師』(田山花袋)を読んだことがあるのかもしれない。
「羽生を選んだ理由」がなくとも、
地理的には知っていたと思われる。

もう一度問う。
なぜ羽生なのか?
ぼくが思うに、
この町は利根川の内側に位置するギリギリのラインだったからではないだろうか。

どちらを「内」と「外」にするかは明確な定義はないが、
東京から見ると、羽生は利根川の内側である。
かつて徳川家康が、羽生で分かれる川の一つを締め切った理由について、
利根川を天然の外堀にして江戸を守るためという説があった。

「枯野の宿」にも利根川がふんだんに登場する。
“川”がこの作品のキーワードでもある。

外堀の縁に位置し、東京から適度に離れている町、羽生。
しかし、主人公の目算は外れてしまう。
思いのほか土地が高く、
貯金「二百万」では買えないことが発覚するのだ。

「枯野の宿」が発表されたのは昭和49年である。
作者が37歳のときの作品だ。
「つげ義春自分史」によると、ちょうど将来への不安を感じ、
喫茶店の開業を考えていたらしい。
また、寡作にもなっていた。

作者が求めていたのは、東京という現実社会(=将来への不安)からの
逃避だったのだろう。
自分史を見る限り、この年から暗雲のたちこめる気配が漂っている。

この先どうなっていくのか?
遅筆の自分は漫画で生きていけるのか?
芥川龍之介の言う「ぼんやりとした不安」が色濃い。
つげ氏自身が言う「精神的圧迫」。

この時期、作者は“境界”に位置していたのではないだろうか。
異界は川の向こう、あるいは川の先にある。
そんな異界が視野に入りつつある。
自分から望んでのことか、
それとも不可抗力で近付いてくるのか……

その境界の象徴として、作品の中に川が描かれているのだ。
そして、夢の中で、
作品に登場する「岩男」と共に“異界”へ行こうとする。
正確に言うと、連れていかれそうになる。

しかし、主人公は怯える。
そして叫ぶ。
「もう帰りましょう」と。

異界へ行く準備はまだ整ってはいない。
また、あちら側へ行くことも望んではいない。
ただ、将来の不安を消したいと思っているだけ。
できることなら、異界ではなく、現実世界の延長にある少し変化のあるところで……。

妻が迎えに来て、二人は再び現実世界に戻ることになる。
主人公は心配する妻の肩を抱き、明るく言う。

 でも心配することはないよ。
 二百万円じゃ買えないんだから。

そこには安堵感もあるのだろう。
境界から離れ、現実世界に戻る(=秩序の回復)ことへの安心感。
不安が拭えたわけではないが、
きっとどうにかなる。

妻の顔を見て、心細さから解放された明るさも滲んでいる。
そこには、妻と二人でなら、どうにかなるという思いもあるのかもしれない。

最後のコマは、利根川縁を歩く二人が描かれる。
さわやかな川の風景だ。
ただ、その風景は、境界に位置する二人を暗示している。

※最初の写真は羽生から見た利根川(埼玉県羽生市)
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下妻城主“多賀谷氏”の先祖は武蔵にいた?

2012年05月03日 | 城・館の部屋
武蔵武士“多賀谷氏”は、野与党道智氏の一族と言われるが、
村上党の金子氏の一族とも考えられている。

“多賀谷”と言うと、結城氏の重臣か、
下総下妻城主をイメージする人が多いかもしれない。
しかし、元々は埼西郡多賀谷郷(旧騎西町)を本拠とする武士だった。

結城氏との関係が生まれるのは、“多賀谷政朝”のときである。
政朝には男子がおらず、
娘婿として結城満広の子“原三郎光義”を迎え入れた。
光義は多賀谷郷に来たものの、結城に戻ったらしい。
『新編武蔵風土記稿』は次のように記す。

 光義古郷忘れ難く、結城へ帰りしかば、
 嫡子彦四郎氏家を始め、家臣随ひ来る

多賀谷郷から去ったことで結城氏の重臣となり、
やがては国衆へと発展していく。
『吾妻鏡』によれば、源頼朝に仕えていた頃は、先陣第9番目として上洛の列に加わり、
のちに弓の名手を輩出する剛の一族である。
その武は戦国期に入って益々冴え渡ったということだろう。

多賀谷氏の居館場所は、現在の大福寺を含む一体と考えられている。
現在その遺構はないが、「寄居」の小字が残る。
国道122号を通っていると「寄居大橋」の交差点で、
かつての武士の館跡を偲ぶことができるだろう。
『新編武蔵風土記稿』も、

 多賀谷光義当所を去て結城へ赴き、
 其館跡へ当寺を建立せしなるべし

と記している。
なお、大福寺の境内には天福2年(1234)の板碑が建っている。
この地の有力者が建てた板碑だとすれば、
多賀谷氏が有力だろう。

発掘調査では、刀の1部や矢尻が出土。
のどかな風景の広がる場所だが、
躍動感溢れる武蔵武士の痕跡が眠っている。


大福寺境内の板碑
最初の写真は多賀谷氏館跡の遠景(埼玉県加須市)
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“羽生”の言葉が歴史に初めて登場するのはいつ? ―子ども学芸員(20)―

2012年05月02日 | 子どもの部屋
“羽生”という言葉が初めて登場するのはいつだろうか。
実は、室町時代まで遡る。

享徳3年(1455)に始まった“享徳の乱”は、
関東を舞台に起こった古河公方“足利氏”と関東管領“山内上杉氏”の衝突だった。
幕府は上杉氏を支持。
足利氏は古河城、上杉氏は五十子の陣を拠点として衝突した。

この乱は長期化する。
何年経っても終わらない。
武蔵や上野、下野を舞台に両者は干戈を交えるが決着はつかなかった。

そうこうしている内に、山内上杉氏の一族内で内乱が起こった。
上杉家の執事職・家宰に不満を持った“長尾景春”が乱を起こしたのである。
このとき家宰となったのは長尾景信。
自分がその職を継ぐと思っていた景春にとって、
不満以外の何ものでもなかった。

そして、景春は決起する。
山内上杉氏に不満を持つ者たちに参加を求めた。
武州鉢形城を築くと、
ここを本拠地として、反上杉の狼煙を上げたのである。
山内上杉氏を対立していた古河公方も景春を支持。

この景春の反乱を鎮めるべく、活躍したのは扇谷上杉氏家宰の“太田道灌”だった。
道灌は、長尾景春に与する城を攻め、次々に陥落させる。
そうしたさなか、景春は「羽生峰」に陣を張った。
「太田道灌状」には次のように記されている。

 景春者成田御陣参、千葉介相談小机返馬羽生峰取陣候

すなわち、景春は成田の陣(行田)へ行き、
「千葉介」と相談をして羽生峰(羽生)に陣取ったのである。
「羽生峰」が埼玉県羽生市と比定されるが、
市内の具体的な位置は不明である。

ただ、この頃城がなかったことが窺える。
湿地(沼)に突き出た台地(峰)に陣を張ったということだろうか。
このとき、城を築くに値する要害地として注目されたのかもしれない。

長尾景春の羽生峰布陣を知った“太田資忠”と“上杉定正”は、
景春らと戦うべく羽生へ向かう。
両軍ともに激しく衝突するかと思いきや、
一戦を遂げず、景春たちは成田へ退陣したという。

結局、長尾景春の乱は太田道灌の活躍によって鎮圧された。
享徳の乱も足利氏と幕府が和睦を結んだことで終結する。
大きな争いが鎮まったかに見えたが、
今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏が衝突する“長享の乱”が勃発することになる。
いつ終わるかわからぬ戦乱が、
羽生を含む当時の関東には渦巻いていたのである。

ちなみに、羽生の名が初めて歴史に登場する「太田道灌状」は、
かなり長いものだ。
長尾景春の乱の鎮圧にあたって活躍した事跡を、
二十九条にもわたって書き連ねたもので、
正当に評価してくれない主家への不満がかなりあったようである。

羽生は元来「埴生」と書き、
埴輪を作る赤土の原産地という意味が有力視されている。
この「羽生」の言葉の初出が室町時代ということに、
遅いか早いかを判断するのは、個人の感覚によるだろう。
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