冬の陽だまり 夏の木かげ

宮澤賢治じゃないけれど、ソウイウモノニワタシハナリタイ !
旧ブログタイトル 「 アラ環の人生立て直しプログラム 」

祖父と父 その2

2017-10-31 09:00:00 | 家族
24年前の7月に娘が生まれて1か月は、実家で過ごしました。

その頃は、胃がんの末期だった祖父の病状も安定していて、自宅で過ごしていました。
毎朝私たちの部屋に来て、「 ○○ちゃん、おはよう。」 と笑顔で語りかけ、
しばらく目を細めて娘を眺めるのが、日課になっていました。

そして週末に夫が連れてくる長男・次男を心待ちにし、
やはり目を細めて、兄弟の様子を眺めていました。

その後病状が悪化し、入退院を繰り返したのち、10月11日に帰らぬ人になりましたが、
終末期の祖父にとって、ひ孫たちと過ごす時間が、
なによりも幸せだったのではないかと思います。





一方、父の終末期にも、子どもたちが大いに貢献してくれました。

次男が、大学を卒業した春、自ら進んで、
跡継ぎのいなくなった両親の養子になってくれました。
父はすでに入院していましたが、まだ意識は明瞭で、届出書にも自らサインし、
そのことをどんなに喜んだことか…。

そして娘は、受験生だったにもかかわらず、
学校帰りに、毎日のように父の病室を見舞ってくれました。
長男、次男も週末には頻繁に会いに行ってくれました。

その時の父の嬉しそうな顔といったら…! まるで子どものような笑顔でした。

私が嫁いで寂しい思いをさせてしまった分、子どもたちが孝行してくれました。
もしかして、入院中が、父のもっとも幸せな時間だったかもしれません。


父の葬儀は私が喪主を務めました。

その葬儀で、私は父のことを初めて理解したように思いました。

ご近所の同世代のおばあちゃんたちのみならず、若いお嫁さん世代の人たちも、
急な知らせにもかかわらず大勢の方が参列して下さり、
その全員が父の死を悼み泣いて下さり、
口々に 「 おじいちゃんには本当にお世話になった。」 と言って下さるのです。

父って、こんなに慕われていたんだなあ…と、正直驚きました。
こんなに来る人来る人が泣き腫らすお葬式なんて、初めてでしたから…。





その1の記事の最後に、「 立派な人が必ずしも良いとは限らない 」
と書いたことは、以下のようなことです。

祖父は温厚な人でしたし尊敬されてはいましたが、
それでも、どこか近寄りがたいところがあったでしょうか?

父は、近隣の人たちと、とにかく距離が近い感じがしました。


それに、こんなことを書いたら、祖父が悲しむでしょうけど、
祖父が生前、他人の肩代わりをして支払いをしていたことが、
大金ではないにせよそのまま引き継がれてしまったり、
残してくれた不動産などが、結構な負担になってしまっています。

それを父が相続し、父の死後、母&妹 VS 私&次男でトラブルになりました。
妹の後押しで、母が全部自分の名義にすると、鬼の形相で言い張ったのです。
それは、養子になってくれた息子の誠意を踏みにじるような態度でした。
そして、実際管理させられているのは私です。 
草刈りをお願いしたり、雪下ろしをお願いしたり、修繕をお願いしたり、各種支払をしたり…。
持ち主が責任を取るのがスジなのに…。

でも、私も息子も相続なんてしたくもないし、
母本人の世話をするよりは、ずっとマシではあります。

「 子孫に美田を残さず 」
いろんな解釈はあるようですが、西郷さんのおっしゃる通りです。


一方父は、そんな甲斐性もまるでありませんでしたから、
その手の苦労は何一つ残しませんでした。
父はただ祖父からのバトンを渡しただけです。
いっそ酒に変えて全部無くしてくれたら、なお良かったのに…なんて思ってしまうくらいです。

そして、「 ホントにアホだったよね~。」 とネタにされ、懐かしがられるだけです。


到底太刀打ちできない父親へのコンプレックスや、
気位の高い母親と気の強い妻の板挟みで、
それを酒や笑いに逃げてごまかしていたということもあるでしょう。

その若い頃の無茶な深酒が、父親より11年も寿命を縮めてしまう原因にもなりました。

でも父は根っからの酒好きで、陽気で能天気な人、
人生を思いっきり楽しんで逝った、幸せな人なんだろうと思います。


若い頃はサイテーだと思っていた父でしたが、
看護や介護についても、母は超わがまま、妹は遠くにいて文句を言うばかりで、
「 お前にばっかり苦労かけて申し訳ない。」 が父の口癖になっていました。
高齢になってサイテーになったのは、むしろ母の方です。

父の死後も母に振り回され、私の血圧が180~100以上になり、眼底出血を起こしてからは、
妹の方に母を引き取ってもらい丸投げにしているので、これでおあいことも言えるのですけど…。
でも私は、どうであろうと、決して妹のやり方に口出しをする気はありません。
お任せしているのですから…。 

若い頃は祖母似だったのに、病床では何故か祖父に似てきた父の顔が懐かしく思い出され、
病院通いや介護施設通い、繰り返される入退院・入退所、それに係る手続きなどで、
あんなに大変な思いをさせられたのに、
時折、無性にもう一度会いたいと思ったりするから、不思議です。


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祖父と父 その1

2017-10-28 15:00:00 | 家族
10月11日は、父方の祖父の命日です。
末っ子である娘が生まれた3か月後に亡くなりましたから、
24年経過し、25回忌になります。

そしてその2週間後の10月25日は、父の命日です。
娘が高校3年生の時に亡くなりましたから、まる6年、7回忌を迎えました。

この父(祖父)と子(父)、本当に実の親子か!?
…と思われるほど、似ても似つかぬ二人でした。





まず祖父ですが、周りの尊敬を一身に集めているような人でした。

長年自治会長を任され、実直で、マメで面倒見がよく、親戚筋でも一番頼りにされる人でした。
几帳面で、日記や家計簿はじめ各種記録も、祖父がきっちりと付けていました。
私の記録好きは、この祖父譲りかもしれません。

若かりし頃の祖父を象徴する一番のエピソードは、
日中戦争に衛生兵として徴兵された折に、夜中唯一電気の付いていたトイレにこもって勉強し、
軍曹まで出世した努力の人だったという事でしょうか。

実家に、その時の写真と兵隊手帳、階級章、勲章などが額装されて飾ってありました。

連日の頑張り過ぎで寝不足がたたり、ある朝、寝坊をして集合時間に遅れてしまった祖父。
とっさに 「 急病人が出て、手当てしてまいりました。」 とウソをついて難を逃れたとのこと。
本来ならみんなの前で殴られたところを、ほめられ、褒美までもらったと話す祖父の、
ちょっと得意そうでいたずらっぽい笑顔を、今も思い出します。

決して偉ぶらず、威張らず、いつも穏やかな人でしたが、何故か威厳のある人でした。
子ども心にも、一番尊敬できる、自慢の祖父でした。





それに比べると父は、繰り返しになりますが、本当にこの人の実の子なのか!?…というくらい、
アホでろくでなしで、どうしようもない人でした。

私が18歳で進学のために家を離れるまで、この人、酒気が抜けたことがあったんだろうか?
というくらい、酒浸りな人でした。

まず、夜中まで帰ってこない日は、必ず泥酔している!

家の前でタクシーを降りて、そのまま水路に真っ逆さまだったり、
どこで転んだのか、血まみれになって帰ってきたり、
道路の真ん中で寝ていたりとか、
そんなエピソードに事欠かない人だったので、
今日はどこで何をしているのかと、帰って来るまで、本当に心配でした。

酒屋さんにはいつもツケで、母が内職で溜めたお金をくすねて飲みに行ったり…

本当にサイテーなヤツ!
正直 「 いっそ死んでしまえ!! 」 と思ったこともありました。


そんな父でしたが、晩年はまるで別人のようでした。

60代で何度か脳梗塞を発症して、すっかり酒気の抜けてしまった父は、
祖父のような威厳はまったくないものの、祖父のように穏やかな人になりました。

若い頃から人に尽くす人 ( 若い頃は家庭を顧みず、他人限定 ) ではありましたから、
周囲の人たちから、尊敬はされなかったと思いますが、とても慕われていました。

若い頃から茶目っ気があって、人を喜ばせるのが大好きな人でしたが、
親父ギャグは一向に上達せず、相変わらず自分一人だけでウケて、周りを寒くしていましたね。


父が晩年になって、私はようやく父の良さを理解し、受け入れることができました。


そして、二人の死後、
立派な人が必ずしも良いとは限らないということも、考えさせられました。


そのことについては、また次の記事で…。


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ブログ開設300日目

2017-10-24 10:00:00 | 本ブログについて
昨年末の12月28日に最初の記事を投稿して、
以来、今日で300日目を迎えることができました。

眼の網膜の病気を患っているという唐突な記事で始まり、
27日目にハンドルネームについて触れ、
1か月目でようやく、本来1本目に書くべきことを、後追いで書いています。


どうやら私は、唐突に、感じるままに突き進むタイプのようです。
変に細かく記録を取り分析するのが大好き、という一面も持っているのですが、
感覚・思いが先で、まずはやってみて、後で分析、…です。


そして100日目には、文字を綴ることが本当に好きだということを書いています。
たぶん、それは手段の一つであって、伝えることが好きなんだと思います。
「 伝えて、その思いを共有したい! 」 きっと、そんな願いが強いんでしょうね。



( 画像は、9月30日 17:15  この日は一日中悪天候で、
この秋初めてのヒョウが降り、夕方ようやく天気が回復しました。)


それと、スゴイ副産物として、
長年苦しめられてきた大きな問題が解決してしまったということ…。
それは、私の極めて個人的な事ではありましたが、
その中から普遍的な何かを見出して、
同じ苦しみを抱えている人の、解決のヒントになってくれればいいな…なんていう、
大それた思いもありました。


130日目に当たっていた誕生日に、心機一転でブログタイトルを変更しました。



( 9月30日 17:15 南側に視線を移すと、月が…。 画面左上方です。)


大きな転機と心境の変化は、その後、6月後半に訪れました。

7月1日~14日 ( 189日~202日 ) に、
プロバイダーの変更などの諸事情により、PCでの投稿ができない状態になりました。

それまでの私だったら、きっと事前に準備して、
毎日ではなくても、スマホで投稿していたと思うのです。
せめて、ブログ開設200日目という節目の日には…。

でも、あえて200日目もスルーし、2週間きっちり、休んでみようと思ったのです。


その間、記事作成に充てていた結構な時間を、別のことに向けることができました。
片付けとか、読書とか、思索とか…、あとはドラマ、ワイドショー三昧! (笑)


それに、過去に投稿した記事を読み返して、
本当にこれで良かったのかと考えさせられたものもありました。
( その後、削除したものもいくつかあります。)

嬉しいつながりが広がっていく一方で、
現実社会とはまた別の、ネット社会ならではの
お付き合いの難しさ、距離感の難しさもまた、感じさせられました。


それでも、記事投稿を全くしなかった2週間の間にも、
自分の予想とは裏腹に、たくさんの方がブログを訪問してくださいました。

実は、ランキングへの参加を止めようかとも考えていました。
どうしても、数字を意識せざるをえませんし、
その上下に一喜一憂して振り回されるのが、辛く感じることもありました。

でも、ランキングの方から記事に入って下さる方もいらっしゃるので、
辞める決心には至りませんでした。


その後、7月~9月は、2日に1回、2~4日に1回、…とだんだん更新頻度が鈍くなり、
10月に入ってからは、週2回程度になっています。



( 9月30日 17:16 西の空です。 すごいピンボケ


最初の頃は、頭や心の中に書きたいことがいっぱい詰まっていましたが、
それらは、ほとんどアウトプットされたのかもしれません。

自分の辛い気持ち、状況などを吐き出したいという思いが強かったのでしょうが、
その段階は通過し、誕生日の心機一転の決意通り、
今は、喜びを共有できそうなものを、という方向にシフトできているのではないかと思います。

自分が心を動かされたものや、インプットを心がけつつ、…といった感じでやっています。

それでも、きれいごとだけを…というつもりは毛頭ないので、
時には、マイナーなことやネガティブなことも、正直に吐露することもあろうかと思いますけど…。


とにかく、もうしばらくはこんな感じで続けられるのではないかと思います。
…というか、まだ1年にもなっていないんですよね! (笑)


だから、毎日更新を続けている方、それどころか1日に複数更新を続けている方たちを、
何年も、10年以上も、続けていらっしゃる方たちを、
本当に尊敬します。


連日訪問してくださる方たち、コメントまでくださる方たちに感謝しつつ、
これからも、自分も皆さまにも、より喜んでいただけるブログを模索しつつ、
細々と続けていきたいと思います。


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落穂拾い

2017-10-19 12:15:00 | 風景
先週あたりの明け方だか夕暮れ時だかに、確かに鳴き声を聞いたような気がしたので、
田んぼの方を回ってみました。

いました、いました! あちらこちらに…!

比較的道路から近いところにいる場所と群れを、選びました。




なるべく離れたところに車を止めて、そろりそろりと近づいて行ったのですが…



一番手前にいた若鳥とその親鳥と思しき3羽が飛び立ってしまいました。
ごめんなさ~い!!


以前は最上川の河口に 「 スワンパーク 」 なるものがあって餌付けされていたのですが、
鳥インフルエンザが問題になって以来、閉鎖されてしまいました。
子どもたちが小さい頃は、餌をあげに行っていたんですけどね…。



それ以来、白鳥やカモの群れは、日々の糧を得るために、
刈入れ後の田んぼから田んぼへと渡り歩かざるを得なくなったんですね。


その姿は、ミレーの 『 落穂拾い 』 さながらだな~と思わされます。

ミレーの絵画で落穂を拾っているのは、この農地の持ち主ではなく、
近くに住む貧しい人たちだとのことです。

旧約聖書の一節に、こんな言葉が…。

あなたが畑で穀物の刈り入れをして、
束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。

それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。



また、新約聖書のマタイによる福音書の中には、こんな一節も…。

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。



今年は、各地で飛来が早いということも聞きます。
飢えることなく、冬を越すことができますように…!!


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断糖日記 その3

2017-10-16 17:00:00 | 健康づくり・ダイエット・闘病
糖質制限生活を開始してから、今日で40日目です。
体重は、4.7㎏ 減少しています。
38日目には、4.8㎏ 減少だったのですが…。

ちなみに、
『 断糖日記 その1 』 では、14日目で体重2㎏減少したことと、3冊目の参考書、
『 断糖日記 その2 』 では、21日目で3.6㎏減少したことと、4冊目の参考書を、
紹介しました。


開始23日目に、内科の血液検査を受けました。
8週前の8月上旬のデータと比較してみたところ、
コレステロール・中性脂肪等の血中脂質は、すべて正常値内に収まり、
前回より、すべてのデータについて、さらに良くなっていました。 

これは、コレステロールの薬のおかげもあるのかもしれませんが、
糖質制限との相乗効果であると思いたいです。

それに、TSHという甲状腺機能低下症の検査項目が、
8.404 から 5.106 ( 正常値 4.26 以下 ) に、改善していたのです。 

こちらは、薬は使用していませんから、糖質制限が効いたのだと思います。


ただ、尿酸・尿素窒素など、腎臓系の数値が上昇しています。
痛風につながっていく数値ですね。
主治医は、心配ない範囲だとおっしゃいましたが、
これは、肉・魚などの酸性食品を増やし、
野菜等のアルカリ食品を減らした影響もあるのではないかと思われます。

それで、『 断糖日記 その2 』 で紹介した 「 MEC食 」 を
そのまま実施するのは、私の場合、弊害を生むような気もします。


そこで、たとえ糖質は高くても、野菜も適度に摂るよう、さらにこんな本を購入しました。

田中明 ( 女子栄養大学大学院教授 ) 監修



成美堂出版 2017年6月20日 発行


この本には、それぞれの食品の糖質・カロリー・タンパク質・塩分・脂質・食物繊維量と共に、
1日の糖質摂取量の目安も書いてあります。

標準体重( kg ) × 活動量( kcal ) × 0.5 ÷ 4 kcal

標準体重の出し方 : 身長( m ) × 身長( m ) × 22

活動量 : 軽労作 25~30 ( デスクワーク、専業主婦など )
     中労作 30~35 ( 立ち仕事など )
     重労作 35~  ( 力仕事など )

身長152㎝で軽労作の私の場合 1.52 × 1.52 × 22 × 25 × 0.5 ÷ 4 ≒ 159g となります。


また、簡便法として 『 断糖日記 その1 』 で紹介した
『 食事の科学 』 では、1食の糖質摂取量を、握りこぶし大までとしていました。


現在の私の糖質摂取量は、おそらく 50g 前後に収まっていると思います。

それなのに、毎日運動しているわけでもないからということもありますが、
その程度の摂取量でも、これまで、50g ~ 一番多い時で 400g も体重が増えた日もありました。

その辺の日常的なあれやこれやについては、
また、糖質制限が危険視される陥りやすい誤解についても併せて、
次回お話しします。


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