くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

京大入試問題ネット流出事件: 京大のどこに非があったのか?

2011年03月03日 | Weblog
犯人逮捕とあいなった。19歳とはいえ、愚か者である。

それはさておき、本事件をめぐる批判の矛先は京大の入試監督体制にも向けられている。

だが、私には理解できない。なぜ京大が批判されねばならないのか。

監督体制が不十分だった。

確かにそうなのだ。不正行為を許してしまったことに関して、監督者並びに京大には「非」があったと言われても仕方がない。
監督を置くと決めた以上は、その任務が滞りなく遂行されねばならず、その任務の一つが不正行為の防止または発見にあるはずであれば、京大はそれをし損じたことになる。

だが、不正行為の防止任務とはすなわち試験監督とはそもそも性善説にたって受験生を扱っていないということだ。受験性のほとんどが8、19歳であろうが、京大のみならず大学側は彼ら「未成年者」をに対して潜在的な不信・疑惑の目を向けて扱っているということに他ならず、これは「性悪説」に基づいた措置であると言える。

試験監督というものはそういうものだ、学生に対して「不信」を前提として望むべしというのであれば、京大の手抜かりは批判されねばなるまい。

だが、我々が果たして受験という場においてどこまで厳格に性悪説的な対応を期待しているのだろうか? 結果論的に言えば、京大は不正行為を防ごうとして防げなかった。しかし、京大にそこまで「不信」を前提として受験生たちを扱う意思はなかったとすれば、よもやそこまでやるまいと思っていたとすれば、むしろ受験生をある程度は信頼していたということであり、人間関係のあるべき姿という点から言えば、京大の対応は批判されるべきではあるまい。

そのかわりに、やはり批判されるべきは、件の受験生ではないのか? 彼さえあのような愚行をしなければ、京大の「緩い?」監督体制は大学側と受験生の暗黙の良識の範囲内での「信頼」関係のうえに成り立ちえたはずである。また過去においては大過なく行われてきた体制だったのだ。しかし、今回の事件はその「関係」を崩してしまい、大学と受験生という人間関係に大きな不信を植えつけてしまったのだ。

いったんこうした事件が起きると、大学としてはより「性悪説」的対応を取らざるを得なくなるのだ。

そもそも、京大が甘かった? 

ということは、試験会場における受験性という人種にはわずかばかりの信頼も与えてはならないということなのか?


「そうだ」という声が世間の多数を占めるのであれば、私はもう何もいうまいが、受験生諸君に尋ねたいものだ。君らはそこまで
信用のならないロクでもない連中なのかと? また、そのように扱われて何とも思わないのかと? 思わない? ならば、京大はやはり「甘い」、世間と感覚がずれていたということなのだろうか?

いやいや、それとも、そもそも京大は「性悪説」にたった監督体制をしいたつもりだったが、監督官の怠慢あるいは能力不足で今回の事態が?

それなら、やはり京大は批判されねばなるまいなあ・・・・。

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