熊本レポート

文字の裏に事件あり

未曾有の熊本大震災時での事件化という事件 総説

2016-09-26 | ブログ

   今や死語ともいえるが、かって「ゴロ新聞」という客観的な表現があった。いつまでも大人に成りきれない、倫理観の欠落した報道に向けた蔑視であった。
   今回の奇々怪々、いや不条理、無理解の事件を振り返った時、該当者だけでなく関係者の社会的な名誉、信用までも失墜させた理不尽な行為は、公的務めに名を借りているだけに冒頭の例以下である。だが総括は冷静、論理的にと心掛け、次のような内容で締めた。
   恋愛はもちろん郷土愛、愛国心など独占欲を基本とする愛において、人はその心情によって動く。しかし経済社会における物事は、その多くが利害によって人は行動を起こす。仮に「俺が指示して行動させた」と吹聴して回る者が居たとしても、「意気に感じて」と人生を掛けた悪戯にまで走る大人など常識的には存在しないのである。
   また一方、反社会的な行為が明らかとなって、目論んだ不当利得が最後の土壇場で消滅した者と、批判は受けたが何ら損失は免れたとする者との間には、そこには天地程の差のあることが誰にも理解ができる。
   関係者筋からも飛び込んで来た多くの情報に基づく今回の総括はここにあって、それはブログにも掲載した背景(015/6~015/9)とした。そこで利得という見返りだが、現時点でそれは推論ながら「北へ帰りたい、東でも良し」という人事にあったというのだ。確かに該当グループには関係者にその人事権を有する者も存在するが、この推論からだと「検証はいずれ近々」ということになる。
   しかし、どのような罪科に結びつけようとしても、それは民事であって、それを意図的に強制捜査に持ち込み、その結果、人権問題を発生させたという点は誰が判断しても問題であり、これを倫理的に理解ができないようでは「事件化は再び繰り返される」といえる。実に可哀想な大人に成りきれない現実ではある…。
  描く地に 叶わず散りし 秋さくら


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