熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「パレード」

2010年03月11日 | Weblog
映画の予告編のなかの「彼らを待ち受ける、衝撃の結末」というコピーが気になって、観に出かけてきた。確かに最後の場面の微妙な不気味さ加減というのは、いかにも「衝撃の結末」だ。全く違う話だが、そのラストシーンの雰囲気と「ゆれる」の最後の場面での兄ちゃんの微妙な笑顔がなんとなく重なって感じられた。それは「怖い」という形容がふさわしいのかもしれないが、映画や小説でしか体験できないような怖さではなく、日々の生活のなかで折に触れてふと感じるあたりまえの怖さとでも呼べるようなものだと思う。

ついでに「衝撃の結末」が映画を観終わった後も気になって、映画館からの帰り道に書店に寄って原作本を購入して読んだ。文字のほうが空想の余地が大きい所為か、最後のほうの「衝撃」場面までくると確かに引っ掛かるものを感じ、思わずそこから最初に戻って読み直してしまう。読み直してみると、結末に至る伏線がなんとはなしに浮かんでくる。それが伏線なのか、私が勝手にそう思うだけなのか、そのあたりのあやふや感もまた、この物語の流れの上に浮かんでいるようで、心地よい不安感を覚える。心地よいのは、目の前にしているのが現実ではなくて小説だということを明確に意識しているからで、もしこれが現実なら、やはり本来的な意味としての「衝撃」を感じるかもしれない。

ところで、この本を読んで最初に感じる衝撃の内容というのは、夜道を車で走っているときに、何やら衝撃を感じて思わず車を止めた、というような類の「衝撃」、あるいは料理をしていて、少しだけ目をはなした隙に鍋が吹きこぼれていた、というような類のもの、と言ってもよいかもしれない。その時点まで何事もなかったと認識していたのに、実は何事かが静かに進行していて、それがカタストロフィックに露見したときに感じる動揺である。

そして改めて読み直してみたり、映画の場面展開を思い返してみたりすると、なぜ彼が、と考えてしまう。しかし、そこに大きな違和感を覚えることもない。そもそも犯罪に動機は必要なのだろうか。犯罪被害者にとっては酷なようだが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、世の中は不条理だ。現実の世界で事件が起こればマスメディアは動機とその背後の物語を想像するのに忙しく動きまわるようだが、熟慮の末の犯行もあれば反射運動のような犯行もある。世に様々な法律があり、莫大な予算を使って国家として警察組織を運営し、それでも足りずに民間の警備会社がいくつもあるのは、そうしたものがないと治安が維持できないからだ。それほど人間というのは邪悪にできているということだろう。善意や理性と呼ばれる理を否定するわけではないが、人間が生き物である限り、生存欲求というものがあり、自我というものがある。自我があれば、自我と対立するものが当然にあるわけで、社会には殺気が満ちている、というのも一面の真理だろう。

個人どうしが諍いを起こし、時に殺し合い、社会集団間でも同様に紛争があり、国家間でも戦争がある。誰とでも円満な関係を持っている人などおそらく皆無だろうし、他国との間に係争案件を抱えていない国というものは存在しないだろう。対立が絶えないのは、欲求の有無云々の他に、思考や行動の論理を共有できていないということもあるだろう。論理は言語によって構成されるが、携帯電話やネットの普及で大きく変貌しているように感じられる。総じて単純化の方向にあるように思うのだが、それがこれから人々の行動原理にどのような影響を与えるのか与えないのか、かなり注目している。

社会、あるいは人と人との関わりということについて「上辺だけの付き合い」というのがこの作品でのキーワードのひとつであるように思う。「上辺」というからには、深いものがあるということが前提なのだろうが、果たして関係性に上辺だの深いだのという違いがあるのだろうか。また、「上辺」と「深い」関係という考え方の背後には「本当の自分」などという幻想があるようにも思う。「自分」に本当も嘘もあるのだろうか。「自分」というのは「他人」が存在して初めて成立する。つまり、「自分」というのは関係性のなかで与えられるものだと思う。関係の強弱が「上辺」だとか「深い」といった感覚をもたらすのだろうが、それとても常に強かったり弱かったりするものではあるまい。不定形の関係のなかで「自分」もまた掴みどころなく変化し続けるものだろう。それこそ映画や小説のなかの言葉で言うところのmulti-verse的に同時並行して展開するのが「自分」という感覚だと思うのである。「自分」は関係性のなかのあらゆる場所にいるけれど、結局どこにもいないのだ。

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