熊本城内、宇土櫓の前に奇妙な形をした石があります。
石の横に、説明書きがありますのでちょっと読んでみましょう。
「五郎の首掛石」
勇将木山弾正の遺子と伝えられる横手五郎は、今の熊本市横手町
に育ったので、その名がついたと言われる。父弾正は、天正十七年
(一五八九年)の天草一揆のとき、志岐麟仙に味方して仏木坂で
加藤清正に一騎打ちをいどみ武運つたなく戦死した。そこで、五郎は
成人ののち清正を仇と狙い、築城人夫に身をやつして、いつかは父
の恨みを晴らそうと考えていた。ところがその間に彼の素性は見破られ、
井戸掘りをしているとき生埋めにされたという。
この石の重さは一八○○キログラムであるが、築城当時に五郎が
首にかけて運んだものと言い伝えられている。
なるほど、横手五郎はたいそうな力持ちだったんですねぇ。
熊本城の中には、こうしたちょっとしたエピソードに彩られた場所が
あちこちにあるんです。
宇土櫓の前にある数寄屋丸の階段側には「地図石」といわれる、
幾何学的な模様?のある石もありますね。
親切に説明書きがついていますので、そういうものを探しながら歩くのも
熊本城をさらに楽しむ一つの方法ですね^^
★閑話休題 〜横手五郎の父・木山弾正にまつわる逸話〜
まだ加藤清正が小西行長と肥後を分けて治めていた頃、小西領の天草で
天草五人衆と呼ばれる豪族の反乱が起きた。
木山弾正はその一揆軍に加わり、仏木坂で加藤清正と一騎打ちになり戦死したとされる。
その後小西・加藤の連合軍に有馬・大友軍も加わり、一揆側の拠点である
天草の本戸城を攻めた。
落城寸前となった時、30人ほどの騎馬武者が果敢に討って出て連合軍を脅かした。
ところが、この騎馬隊を率いていた武者の兜が梅の木に引っかかって脱げてしまった。
実はこの武者は木山弾正の妻お京の方で、他の騎馬武者も皆城内にいた女性達だった。
相手の正体を知って連合軍は勢いづき、騎馬隊は全滅。
お京の方は息が絶える寸前、梅の木に恨みを込め
「永代、花は咲いても実はならせぬ」
と言い残したと伝えられる。
本渡市の延慶寺に伝えられ「兜梅」と呼ばれるこの梅の木には、
今なお花は咲いても実はならないそうである。