リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

時空とは(オカルト)

2017-07-29 13:55:49 | 断片
 こんにちは。たいへん。台風5号が居座って、関東の海は、静穏の見通し立たず。この梅雨明けの晴天続き、海水浴日和のはずの見込みが。涼しいことだけなら子供は感じないし大人は上着羽織ってりゃいいんだからいいけどねえ。大波で沖に持ってかれたらおしまいなのでお止めなさい。
 といってプールも最近行かないからご案内もできないし。大学の屋外プール開放があれば、空いてるはずで、一番いいんだけどねえ。昔は明大とか法大とかでやってて。今は大学も高機能屋内プールでつまんなそう。まあお盆休みに田舎に虫取りにでも行かれてくださいませ。東京旧盆中は深川不動が本祭。ただしここに来るような方は、もっと小さい祭りのほうが居所があってよいと思われます。お一人の方はご友人お誘いの上、ヨーヨーすくいなど。
 わたし的には涼しくなるとそこそこ勉強もでき、「ああそんなに怠け者でもないし、さほどボケてもない」と思えてうれしいです。
 
 さて、ニュース。森永乳業ダブルソーダが販売終了だって。知らない。そんなの。
 それより、ソーダアイスがすでにないんだって、知らんかった。あの青いカチンカチンのやつ。チープだもんねえ、よく食べたけど。
 で、うれしいことに名糖ホームランバーはまだ売ってんだって。おいしいよね。知らん? 最近はハーゲンダッツとかわけのわからん高級品が増えてるけど、あのさっぱりした棒アイスが夏の味だよね。脂っこい高級品は寒いクリスマスにでも食べればいい。もっともホームランバーは自販機で売ってないので買うチャンスがないけど。コンビニ行かないし。
 
 ついで、また日本人、寿命が延びたとか。そんなに生きてどうするんだ。年よりは、役人がいらない空き家をつぶして空き地にして、そこに畑を作って安全野菜でも育てて子供らに食わせるのが一番いいと思う。自分らで食うなよ。年よりは中国産やアメリカ産でじゅうぶん。
 
 なに世間話してんだ、って、別に話題ないし。稲田が辞めたって、ICBMが飛んだって、特殊な利害関係者を除けば、日本人の考えることは一つじゃないかねえ。「当然」。「どうしようもねえやつ(金)」、こっちは「だからミサイル軍備を」とか「早く暗殺を」とか分かれるかもしれないが、誰でも言うこと。わざわざ話題にするほどでも。
 
 なので、今日は恒例のオカルトですよ。もうすぐお盆だし。だんだん文も増えてきちゃって、カテゴリー作るかなあ。

 先週、朝日新聞に元素周期表が付録されてて。こんなもん学校じゃ見なかったんでしげしげと見てしまった。なかなか面白い。化学は通信簿3。

【物質とはエネルギーの状態】

 で、元素周期表を見れば、この表にはエネルギーの正と負がバランスを保つ有様が表わされていることがわかる。
 この世は、
 1 まず、正と負がある。一般に電気のプラスとマイナスに現象している。
 2 正と負のバランスは負をめぐって存在する。正でも負でもよいのであるが、この分割は単純な2分割ではなく、引き裂かれた2分裂、ムリのある2分裂、であるように人間には映ずる。
 その証拠に負は、必ずバランスを保つ方向に動く。一般に「プラスとペアとなる」といわれる。ここで、負が電気的にプラスだろうがマイナスだろうか、それはどうでもよい、分裂者が陽子でもよいのである。そんなものは名前だけの話だし。
 3 さて、この元素のエネルギー状況は、バランスが形作る層と、そのバランスからはみ出すエネルギー状態からできている。
 「各層」は電子として間隔をおかなければいけないので存在するように見える。各層の状態は波動形式で計算され、その実体は、力の大きさの浮動のことである。心臓の鼓動が心電図になるようなものだ。 
 というわけで、なんのことはない、自然の全て、たとえば人間の身体は、この元素の存在形式、エネルギーのミニマムな状況の混濁状態であり、この混濁状態が、しかし、自立的に諸物象に現象するわけである。つまり、エネルギーがいろんな形をとるんでいろんな元素ができて、その元素がいろんな化合物、すなわち、全ての物質を作る。
 さて、これからが問題。

【物質と生命が存在する理由】

 さて、ではなぜそんな事態の混濁がおきるか。鉄は鉄、水素は水素で固定してればいい。あるいは全て全部が炭素であってもいいではないか。
 ここには、変容の原動力が内在している、と思うのが普通。
 ここで元素的変容は、エネルギーが元の無に戻らんとする悲鳴であろう。
 他方、人間等生物においては、形態的変遷がない。ということは、エネルギー状態の元の無に戻るのではなく、自立的変容を遂げようとしているエネルギー状態かもしれない。
 そもそもの始元的エネルギー分裂さえ、この自立的変容、他人を食べながら動くという契機かも来ているかもしれない。いわく、「生命」である。
 生命がどこから生まれたとしても、生命現象は、始元的なエネルギーの分裂後のエネルギー現象である「物質」じゃない、という確認ですね。
 やはり、始元のエネルギーの分裂こそが生命現象の発生の影響なんじゃないかねえ。他にエネルギー本体には要素がないし。自分の居場所がなくて圧倒的に困っているように見える諸物質が存在してるだけ。もちろんこれらを「物質」と受け取るのは、地球では生物だけです。そんなもん、ただのエネルギーの諸段階に過ぎないのに生物はこれと不可分の存在である。 
 
【神の現象】

 そう思ってみると、物質世界など埃にもならないほど微小なキズである。宇宙を見上げて見れば分かる、いったいどれだけのエネルギーが物質化しているのか。物質のブの字も見えやしないではないか。といってもこの空間こそ、その微小なキズとのバランスを支えるエネルギー状態の対応物ではある。
 ともかく。後に残った契機が生命だけであれば、その答えは生命にあり、生命エネルギーが力で圧迫しているのを物質エネルギーが押し返している、あるいは生命エネルギーの構造に入り込みつつ存在している、というところである。
 さて、こっから先はオカルトである。
 違うか、どっからオカルトに入ってるかな?
 この微細なキズは、宇宙のある1点が、エネルギーを自分のために使いたがったゆえに生じたものだ。
 宇宙のある1点に生じたエネルギーを使いあう存在、すなわち、生命の発生である。これが「神」である。毘盧遮那仏あるいは大日如来である。
 ここで、宇宙の1点とは宇宙の遥か彼方のことではない。われわれの手の届く先の空間のことである。頭の良い宗教家がいうように「神はすぐそこにいる」のである。空間とは単に物質エネルギーの存在そのものしか指さない。物質から離れたところに、空間は「ない」のである。
 さらにそれが起こったのも実は「何百億年も前」ではないのだ。「つい一瞬前」なのである。時間の経過などというものは、物質形態の都合、素粒子という、移動に「時間がかかる」物理的存在の都合なのであり、あるいはそれを測定する人間という物理的存在の都合なのであって、エネルギーの都合ではない。エネルギーはエネルギーとして、常に永遠の今に、存在し続ける。エネルギーに時間などないのだ。
(書いてると、「そんなの前いったよねえ」 みたいな気になっちゃって。物質世界では全ての事象は光速度を基準に移動するのですよ。それが現世的エネルギー速度。といっても光速度にならない場合がある。それが物質的観測者の影響速度。)
(全部が光速度で同じ方向に動いてたら、時間はゼロ。だけど、物資はその内部でランダムに光速度なのです。人間の構成物質も同じ。)
 アナロジーを挙げると、幕府用人たるAが、各藩の探索で10人の人間を派遣した、10人は1年経って1年×10人の仕事をして帰って報告に来たが、幕府用人のAにとっては、他の用事に忙しく、1年前から10分経っただけなのである。要は、計算根拠が違う。この場合用人は、同じ人間の衣をまとっているので、肉体的に探索者と同じ時間を経てはいるが、脳内過程では1瞬間しか過ぎていないのだ。

 なお、先日言ったように、生命と霊は違います。おそらく霊の時間は、肉体物質に引きずられない観念作用の速力、すなわち物質時間の233倍の、700年で3年に当たるのでは? 浦島太郎がそういっております。
 
 と続くわけですが、まあねえ、、、革命的過ぎてわかりにくいだろうねえ、とくに物質世界に時間があってもエネルギー世界に時間がないことなんてわかんねえだろうなあ、相対性理論など足元にも及ばぬ革命性。こんな革命性を人間が考えつくのも変じゃないかい? じつはわたしはにんげんではないのだ、、、が、まあいいや。
 ともかくも、そうした場合、宇宙的にも、地球的にも、体から10センチのこの空間にもその構造の切磋があるわけです。地球上某所に住む私と目の前のパソコンの画面上の液晶とは、宇宙的な関係にある。6000キロ離れていようと人間みな兄弟、あるいはプ~~ンと飛ぶ蚊も、みな親子。死ぬも生きるも岩石の変容と一緒、同じ構造内部の入り繰り。
 いや、そんな議論は前からしてますが、これに物質構造まで組み込むという進歩を得た、というわけで。
 
 暑くて序文が進まない。夜、冷房をつけて寝ると構成が浮かぶのですが、寝てるので消える、という。メモでもつけろ、といわれても、実は構成も何も序文で書くことは決まってまして、決まってることはばかばかしくてわざわざやってられない、誰か代わりにやって、というのが理由です。
 それよりか、(方言? 遠州弁とのこと。家の東京弁にはありませんでしたが、静岡言葉は小学校に案外流れてきました)、新しい、隈にしかできない演題を見つけてしまった。「社会主義経済学批判」。批判といっても「それがテーマ」の批判。「経済学批判」(マルクス)の批判ね。オカルトとはえらい違いだ。
 しかし、今回(=次回)が配本の最後という予定は消えず、2、3百枚でどっかへの投稿論文にするかな。
 
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