リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

コンピューターと行為

2008-11-14 21:16:57 | 行為
ひいきの渡辺という将棋のタイトル保持者が負けてしまいましたよー。
勝ったのは羽生というおじさん。これで0勝3敗。初めに4勝したほうがタイトル取得。
実力は羽生というおじさんの方が上ですので、もうどうしようもない。

あーーあ。
だからひいきとかすんの嫌いだ。もうしばらく将棋は見ません。

ま、そういうことで、コーヒーブレイクにするにも話題がマイナーすぎるので、ちょっとひねって。

 将棋でも碁でも、コンピューターが発達すれば、必ずコンピューターが負けるか勝つかします。あるいは、負けるのを拒否して時間切れ負けになります。

って、まだ、誰もいってないでしょ? 
何いってんだって? 何もいってないだろ?
見ての通り、コンピューターは必ず勝つわけではない。そんなこと誰もいわないでしょ、ということです。
どうして真剣に考えないのかと思いますが、真剣に考えるのはご法度、という規範が関係者の間にあるのかもしれませんね。

 その1 コンピューターは必ず勝つわけではありません。
 究極的なことをいいます。
 盤上に駒や碁石が並べてあるだけでは誰も勝ちません。
 初めの一手が指されたときに、選択が開始されます。
 将棋だと百や、そこいらでしょうか、碁ですと何百の手を選択する。この瞬間で理論的には勝負の決まる手もある。決まらなければもう一手、次にもう一手。
 すべて相手がどう指すかで決まるから、どちら手番の相手になるか、でコンピューターも負けるのです。

 1 最善手を指せば、もう変更の余地はなく勝ち負けが決まる一瞬が、初めの一手ではないだろうが、しかしどこかにある。
 2 その順番が見越せる状態になったとき、相手は、負けると決まった手を指して負けるか、それを拒否して時間切れ負けを選ぶ。

 だから、コンピューターでも負ける。
 当たり前だけど誰も言わないのは、コロンブス以前的な幻想の世界、魔術の世界にみんながいるわけです。
 それがコンピューターが負ける世界になるには、50年以上かかりそうですしね。
 たまたま、今はコンピューターの相手がアホな人間だから、適当なところで最終選択肢が決定されてしまうだけで、あと10年もすれば、コンピューターのほうが勝つ、というだけで。

さて、ここからは行為論。

 実は人間は勝ち負けなんか気にしていない。

 って、誰もいわないでしょ?
 ほんと、このブログ見つけた人は知らないことばっかり載ってて幸せじゃないかと思うんですが。

 さて、ウソだと思ったら、今日も何万人もの人が将棋を指したはずですが、そんなのあなたに興味ないしょ? 半分の人は負けたはずだけど、くやしい?
 あにいってんだよう、って感じですね。そんな他人の話をするな? だから、ここは学問の世界で。
 さらにさて、私たちが将棋を指すときは、「これをこうやったら相手はこうする、そこでこうやったら勝つじゃん」 、そら当たりイ! 勝った!
 そこが楽しくて指すわけです。
 それが外れりゃ負け。かくてくやしい。隈理論が説く「行為論的将来」が確保されること、ついでに優越的自由と賞賛も得られればいうことなし。
 この行為論的将来が確保されなければ、これは空しい。ボーっとしてて駒を動かしたとして、相手がへぼなら勝ちますわな。それでうれしい? 一応、誰かが褒めてくれりゃあね。でも相手が小学1年生じゃ、優越もないわ、賞賛もないわ、時間の無駄ですな。

 第1、見ている人間にとって
 コンピューターがいくら勝ったところで、人間私に理解されなければそんなもの、夜空の向こう、ケンタウルス座で指してる将棋に過ぎない。
 人間自分の考えが対局者に共感的に示されて、「こうすればいいかな、え? それ何? え? え? へーーー!!! 勝っちゃった」 こうした行為論的過程ナシでは人間と関わる行為にはならない。

 第2に、主体的な人間とは将棋盤上の世界を自分の筋道の中に組み立てるのが、生きる糧なのです。
 武術家でも政治運動家でも、こういう状況にさえなれば、ということを自分の感性で思い描く。
 そしてそのチャンスと思ったときに動く。「え、なに、そんな運動ないでしょ!」 相手はびっくりだけはするが冷静に対処して、大方、夢を見たほうが負ける。
 負けるにせよなんにせよ、行為とはそういうものであり、他人の行為を見る自分はそういうものです。

 で結論。
 ロボットには行為の原理と原則を設定すれば人間に8割がた近づきます。ほとんどの人間は、「彼」をみても、ロボットか人間かを気づくことはない。人間と同じ反応をするのは疑いもない。生理的な問題=腹が空けば食いたがる、お化けを見れば逃げたがる。賞賛=生理的な道筋にある人間から褒められるために動作する。
 わけですが、ロボットが自分の将来を思い描かない限りは、コンピューターはまだ似非ですね。人間は、最後の一瞬に気づくんですよ。こいつ、自分の夢を作っていない、って。自分の夢と他人をつなぐ。さて、コンピューター設計者は、どうつなぎますかね。これが事実認知論の問題です。
 具体的にいえば、事実を扱う歴史の問題です。
 具体的じゃないか。では、どう「誰かも分からない抽象的な」人間に直結した賞賛を、自分の生理性と組み込めるか、ってことですね。ま、長いんで。

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