こんにちは。いよいよお盆休み。今年は長いですか? 先週は東北は大祭シーズンでしたね。雨もだいじょうぶだったようで、遠いのが残念。でもこれから天気はちょっとはかばかしくないもよう。留守番担当の人は、譲歩のずらし日分、ちょうどいい天気だといいですね。
ちなみに、夏の温泉もよさそうですよ。私は足の小キズで、一昨日、久しぶりに全身湯船に浸かったところ、気持ち良くて驚いた。地域的には東京にも温泉はたくさんありますぜ。戸越銀座温泉とか、中延温泉とか、って、特殊地域的に有名な馬込温泉をお知らせしようとしたらもうやめたんだって。お近くに銭湯ありましたら思い出に入っておいてくださいな。
わたしは状況つまんないので関係ないす。
世間では、小三治が「アルツハイマー」だって一時ネットニュースで流れて驚きました。アルツハイマーで落語やれる! 信じられない。実際、事務所は否定だって。そらそうさ。他人に分かる時分に落語ができたら、そりゃ本当の年季。もっとも小三治なら、とも思うけど。
それとは別にただの認知症人間。ありゃ絶対年寄りのふてくされだと思いますね。努力しなきゃ忘れる器質の存在(出現)は認めますけどね、でも、ありゃあウソ。つまんねえから疲れる「記憶作業」をサボってるだけ。(こういうのを昔風には「ネグってる」といいます)。それで努力しないから忘れるし、本人それでいいや、ケセラセラと思っている。「急に劇的に改善した」とかって、単に、なんか状況の変化で自分の行いを正しただけだと思いますね。誰でも直るのでは? と、これは最近の収約。
もっと世間では、いよいよ戦争、というか、襲撃勃発か? 北も周りが一生懸命とめてるのに、というふうがありあり。アメリカも資本家出身高官は常識がありそうだけれど、海兵隊大将のジョン・ ケリーは危険そうなやつ。こひつの根性を1割でもアベにあげたらすぐ日本など引っくり返るだろう。こうゆうのは「反乱」か「革命」か。およそ国家支配者とは資本家ではなく武力操縦者なのだから、いくらでも国家を非合理的に操れるのだ。「大統領」でないからといって油断などできやしない。
さて、こちらの記事は左翼用。
姫岡玲治(青木昌彦)が回想録を出したと知れて、こういう連中が何を考えてるのかずっと以前から知りたかったので借りてみました。西部は読んだことあるが、あいつはもともと変なやつのようだし。で、読んでやっと分かった。ただの権力主義者・権威主義者なんだ。そこらの社長とおんなじ。わたしなど、左翼といえば人間中1割のエリートと思ってるから分からなかった。こうゆう権力主義者・権威主義者が左翼の範疇に入っていく、そんな時代が変革の時代なんだよね。今はかんけえねえひとびと。わたしにはあんなやつらは友達にいないのでうれしい
ついでに、共産党の主張の確認のため、元の党政策委員長という触れ込みの聽涛弘、大月書店というのがあったので借りてきました。ら、失望。習い覚えた左翼用語で言葉を飾り立てても、要するに社民以下、民同以下。民主党の枝野とどこも変わらない。こんなとこにも転向者がいたのか、と暗澹です。もっとも、これが共産党かも。まあ飽食の世界で選挙票を受動的に取りたいと思うとこうなるんだろうねえ。
ついでに、朝日新聞の土曜連載は、「思想家」渡辺京二だと。まったく飽食の時代。転向者はなぜおとなしく塾の講師をしていないのだ。と、前ならいぶかしく思うところ、分かった、こういうのも姫岡と同じなのだろう。これからは「姫岡と同じだ」とつぶやけば何も悩まずに済みます。
さて、本題は、唯一敬意を払う日本人学者、宇野の失敗作、恐慌論。
yahooニュースから。「外食企業によるM&A(合併・買収)が活発化している。(中略)そこには「人手不足」という根深い事情がある」だとさ。
何度もいうように、人手なんか足りてるんだよ。いくらでも職のない人たちはいる。じゃあ何が足りない、って給料が足らないのだ。給料を時給900円から1500円に上げろ。すぐ人なんか集まってくる。ムリだ? ムリかどうか資本家じゃないから知らんが、給料は上がらない。
そこで宇野の悪名高き恐慌論。「給料騰貴で恐慌が起きる」とか、死んどれ、って気がするやね。そういう話はやめれ、ムダだ。ということです。でもいわざるを得ない? そりゃ自分の理論の構成が間違っている。
これは「原理論的恐慌論」というべきであって、こんなのを「恐慌論」と呼ぶから宇野自身の信用が薄れる。マルクスだって資本論でそういってる、って、19世紀前半のイギリスは、あるいはもっと経った後も、労働市場(いちば)制なの。労働者が市場に寄り集まって、「おいお前、週4シリングだ」って。今じゃないだろうけど、昔は高田馬場の戸山公園で朝労働者が集まってガタイのいいのからバスに乗って連れられてった、そういう制度。わたしゃ地域ベ平連の集会でしか行ったことないけど。ともかく、そういう競り市場ならそりゃ給料も上がりもするだろうさ。で、日本で好況のせいで上がるのか。そのせいで不況になるのか。どっちもウソだ。
もっとも、そもそも読み方は違う。
たとえば衣料品産業で好況になると、あぶれていた労働者が衣料品産業に集まる。これが給料の騰貴です。衣料品産業総体の給料費は高くなってんだからさ。
で、衣料品産業の各会社は売れるからばんばん商品を作る。作りゃ競争で商品価格は下がる。ここで給料は下がらない。かくて、給料は相対的にさらに騰貴し、利潤率が低下する。いくら売れたって衣料品産業総体は儲かんないからね。
このとき現象は相対的に給料は高騰している。利潤率も低下している、でも後から後から作るべく生産機械はフル活動、これでは衣料品会社はやっていけない。何かをきっかけに一部が倒産すれば、あとはドミノ倒しで恐慌が起こる。
この事態をどう表現するか、というだけの問題です。
まず第1に、こういうのは「商品が多すぎて売れない」というのが本当なのだが、そういってしまうと『どんどん買えばいいじゃないか。なぜ買わないのか』という別の問いが出てしまう。もちろん「いらないものなんか誰が買うか」というのが本当なのだが、『いやそれは金がないから買わないのだろう。いやそのはずだ。さて、好況期で賃金もあるんだから売れないのはそのせいではない。そもそも「売れない」という言い方からしておかしい。これは資本家が「これ以上安くは売らない」せいに違いない』とかいう展開になる。原理論主義者は消費者のそうした欲求・欲求充足は「経済学的原則」としてカッコに括って欲しいのだ。経済学至上主義だから。
さらに第2に、原理論主義者は競争がお嫌い。資本は資本でやることは同じでないといけないのですよ、資本の間で競争なんかしない。そういう行動は辞書にない。「総資本」という言葉はあるけどね。マルクスもそういっている。「競争の現実の運動はわれわれの計画の範囲外にある、、、われわれは、、、理想的平均において、示しさえすればいい」んだそうだ。競争を書かないから窮乏化さえ起こらない。ま、これは別のテーマだが。
ともかくばかばかしい話で、実際どうだっていい。現実の個人の賃金はそんなことでは上がらず、現実の恐慌はそんなことでは起こらない。「いや、現実は段階論的に扱う」、とか、勝手に教室で講義してろって。
はじめからあるべき理論の構成が違うのだ。
原理論とは価値の理論であり、それに尽きるべきなのだ。
もちろん、それは資本論の間違いでもある。
恐慌は恐慌の理論を作って解明しなければ無意味なのだ。経済学ではできないが。
現実にあるとおり、恐慌は世界市場の問題である。「基礎理論的に世界市場を、すなわち、国家を、どこまで法則的に組み込むのか」には天才が要るのだが、マルクス主義者には残念ながらそんな天才は持ち合わせた者はどこにもいない、というところが最後の「問題」というわけだ。マルクス主義者が世界市場を取り上げると貿易問題になってしまう。あるいはよくて国際価値論だ。それでは何も分かりはしない。
はじめからあるべき理論の構成が違うのだ。
ここまでついてこれたら偉い。これた人には課題として渡そう。人生、だんだん文字書くのが面倒になってきました。読める人がいないんじゃあね。
じゃあやんないのか、って、人がやらなきゃやるけどまだまだ他の問題が多いのでまとめてやるには早すぎるでしょう。
(p.s. そういえば恐慌論を読んだのは、20年前に呆れながら、10年前に馬鹿にしながら、の2回しかないのを思い出しました。厚い本だからなんか言い訳が隠れてるかも。宇野って隠すからね。なんか言い訳がありましたら教えてください)
(p.s.2 それも無責任ぽいので、借りてざっと読み返しました。上記に問題なし。まあ、宇野的には恐慌は必ず金融恐慌を呈するのに利子率の高騰に言及しないお前は何だ(社会で資金形態の資本の供給が逼迫して利子率が上がるという)、というかもしれない、がそういう問題ではない。需要供給のつじつまあわせはただの形式に過ぎない。初めと終わりがつながればそれで原理論的恐慌論の記述は終わる、が、それでめでたいのは「これで資本論ぽくなった」と喜ぶ学者だけにすぎない。いったいなんのための恐慌論だろうか。資本主義の矛盾がその歴史的時点でどう現象するか、を法則的に告げない科学など人民にはいらないのだ。それは恐慌が破綻せずに繰り返すから悪いというのではない。資本主義はどの状況でどのように人民にマイナスの現象を起こすか、という因果連関の現実的解明ができなければ科学などではなく、それをあたかも為したかのごとき誤解しか結果しない仕事など、どこにも評価の余地はない、といっている。価値論は確かに宇野の誇る不朽の成果だが、同じ伝で資本主義分析が終わると思ったら大間違いだ。)
(p.s.3 しつこいですが、宇野の経済学ゼミナールによると、資本主義の矛盾は、どの蓄積様式段階でも相対的過剰人口の形成にある、と思っているようです。そこまでいわれてはどうしようもねえ。全面的にアウト。哲学者と文学者は喜ぶだろうが、歴史はそうは動かない。
ぶっきらぼうすぎるか。資本主義はね、教えてやるけど世界が相手なんだよ。欲しい労働力はいくらでも世界にある。タイの労働力を「相対的過剰人口」と呼べ、とでもいうのか。
相手がバカだといくらでも書くことが増えていく。
そんなものを相対的過剰人口と呼んだ瞬間に、理論の実効性はゼロになるんだよ。
こういう気遣いは際限がない。果てしないバカを知りすぎてるし。もうやめた。)
ちなみに、夏の温泉もよさそうですよ。私は足の小キズで、一昨日、久しぶりに全身湯船に浸かったところ、気持ち良くて驚いた。地域的には東京にも温泉はたくさんありますぜ。戸越銀座温泉とか、中延温泉とか、って、特殊地域的に有名な馬込温泉をお知らせしようとしたらもうやめたんだって。お近くに銭湯ありましたら思い出に入っておいてくださいな。
わたしは状況つまんないので関係ないす。
世間では、小三治が「アルツハイマー」だって一時ネットニュースで流れて驚きました。アルツハイマーで落語やれる! 信じられない。実際、事務所は否定だって。そらそうさ。他人に分かる時分に落語ができたら、そりゃ本当の年季。もっとも小三治なら、とも思うけど。
それとは別にただの認知症人間。ありゃ絶対年寄りのふてくされだと思いますね。努力しなきゃ忘れる器質の存在(出現)は認めますけどね、でも、ありゃあウソ。つまんねえから疲れる「記憶作業」をサボってるだけ。(こういうのを昔風には「ネグってる」といいます)。それで努力しないから忘れるし、本人それでいいや、ケセラセラと思っている。「急に劇的に改善した」とかって、単に、なんか状況の変化で自分の行いを正しただけだと思いますね。誰でも直るのでは? と、これは最近の収約。
もっと世間では、いよいよ戦争、というか、襲撃勃発か? 北も周りが一生懸命とめてるのに、というふうがありあり。アメリカも資本家出身高官は常識がありそうだけれど、海兵隊大将のジョン・ ケリーは危険そうなやつ。こひつの根性を1割でもアベにあげたらすぐ日本など引っくり返るだろう。こうゆうのは「反乱」か「革命」か。およそ国家支配者とは資本家ではなく武力操縦者なのだから、いくらでも国家を非合理的に操れるのだ。「大統領」でないからといって油断などできやしない。
さて、こちらの記事は左翼用。
姫岡玲治(青木昌彦)が回想録を出したと知れて、こういう連中が何を考えてるのかずっと以前から知りたかったので借りてみました。西部は読んだことあるが、あいつはもともと変なやつのようだし。で、読んでやっと分かった。ただの権力主義者・権威主義者なんだ。そこらの社長とおんなじ。わたしなど、左翼といえば人間中1割のエリートと思ってるから分からなかった。こうゆう権力主義者・権威主義者が左翼の範疇に入っていく、そんな時代が変革の時代なんだよね。今はかんけえねえひとびと。わたしにはあんなやつらは友達にいないのでうれしい
ついでに、共産党の主張の確認のため、元の党政策委員長という触れ込みの聽涛弘、大月書店というのがあったので借りてきました。ら、失望。習い覚えた左翼用語で言葉を飾り立てても、要するに社民以下、民同以下。民主党の枝野とどこも変わらない。こんなとこにも転向者がいたのか、と暗澹です。もっとも、これが共産党かも。まあ飽食の世界で選挙票を受動的に取りたいと思うとこうなるんだろうねえ。
ついでに、朝日新聞の土曜連載は、「思想家」渡辺京二だと。まったく飽食の時代。転向者はなぜおとなしく塾の講師をしていないのだ。と、前ならいぶかしく思うところ、分かった、こういうのも姫岡と同じなのだろう。これからは「姫岡と同じだ」とつぶやけば何も悩まずに済みます。
さて、本題は、唯一敬意を払う日本人学者、宇野の失敗作、恐慌論。
yahooニュースから。「外食企業によるM&A(合併・買収)が活発化している。(中略)そこには「人手不足」という根深い事情がある」だとさ。
何度もいうように、人手なんか足りてるんだよ。いくらでも職のない人たちはいる。じゃあ何が足りない、って給料が足らないのだ。給料を時給900円から1500円に上げろ。すぐ人なんか集まってくる。ムリだ? ムリかどうか資本家じゃないから知らんが、給料は上がらない。
そこで宇野の悪名高き恐慌論。「給料騰貴で恐慌が起きる」とか、死んどれ、って気がするやね。そういう話はやめれ、ムダだ。ということです。でもいわざるを得ない? そりゃ自分の理論の構成が間違っている。
これは「原理論的恐慌論」というべきであって、こんなのを「恐慌論」と呼ぶから宇野自身の信用が薄れる。マルクスだって資本論でそういってる、って、19世紀前半のイギリスは、あるいはもっと経った後も、労働市場(いちば)制なの。労働者が市場に寄り集まって、「おいお前、週4シリングだ」って。今じゃないだろうけど、昔は高田馬場の戸山公園で朝労働者が集まってガタイのいいのからバスに乗って連れられてった、そういう制度。わたしゃ地域ベ平連の集会でしか行ったことないけど。ともかく、そういう競り市場ならそりゃ給料も上がりもするだろうさ。で、日本で好況のせいで上がるのか。そのせいで不況になるのか。どっちもウソだ。
もっとも、そもそも読み方は違う。
たとえば衣料品産業で好況になると、あぶれていた労働者が衣料品産業に集まる。これが給料の騰貴です。衣料品産業総体の給料費は高くなってんだからさ。
で、衣料品産業の各会社は売れるからばんばん商品を作る。作りゃ競争で商品価格は下がる。ここで給料は下がらない。かくて、給料は相対的にさらに騰貴し、利潤率が低下する。いくら売れたって衣料品産業総体は儲かんないからね。
このとき現象は相対的に給料は高騰している。利潤率も低下している、でも後から後から作るべく生産機械はフル活動、これでは衣料品会社はやっていけない。何かをきっかけに一部が倒産すれば、あとはドミノ倒しで恐慌が起こる。
この事態をどう表現するか、というだけの問題です。
まず第1に、こういうのは「商品が多すぎて売れない」というのが本当なのだが、そういってしまうと『どんどん買えばいいじゃないか。なぜ買わないのか』という別の問いが出てしまう。もちろん「いらないものなんか誰が買うか」というのが本当なのだが、『いやそれは金がないから買わないのだろう。いやそのはずだ。さて、好況期で賃金もあるんだから売れないのはそのせいではない。そもそも「売れない」という言い方からしておかしい。これは資本家が「これ以上安くは売らない」せいに違いない』とかいう展開になる。原理論主義者は消費者のそうした欲求・欲求充足は「経済学的原則」としてカッコに括って欲しいのだ。経済学至上主義だから。
さらに第2に、原理論主義者は競争がお嫌い。資本は資本でやることは同じでないといけないのですよ、資本の間で競争なんかしない。そういう行動は辞書にない。「総資本」という言葉はあるけどね。マルクスもそういっている。「競争の現実の運動はわれわれの計画の範囲外にある、、、われわれは、、、理想的平均において、示しさえすればいい」んだそうだ。競争を書かないから窮乏化さえ起こらない。ま、これは別のテーマだが。
ともかくばかばかしい話で、実際どうだっていい。現実の個人の賃金はそんなことでは上がらず、現実の恐慌はそんなことでは起こらない。「いや、現実は段階論的に扱う」、とか、勝手に教室で講義してろって。
はじめからあるべき理論の構成が違うのだ。
原理論とは価値の理論であり、それに尽きるべきなのだ。
もちろん、それは資本論の間違いでもある。
恐慌は恐慌の理論を作って解明しなければ無意味なのだ。経済学ではできないが。
現実にあるとおり、恐慌は世界市場の問題である。「基礎理論的に世界市場を、すなわち、国家を、どこまで法則的に組み込むのか」には天才が要るのだが、マルクス主義者には残念ながらそんな天才は持ち合わせた者はどこにもいない、というところが最後の「問題」というわけだ。マルクス主義者が世界市場を取り上げると貿易問題になってしまう。あるいはよくて国際価値論だ。それでは何も分かりはしない。
はじめからあるべき理論の構成が違うのだ。
ここまでついてこれたら偉い。これた人には課題として渡そう。人生、だんだん文字書くのが面倒になってきました。読める人がいないんじゃあね。
じゃあやんないのか、って、人がやらなきゃやるけどまだまだ他の問題が多いのでまとめてやるには早すぎるでしょう。
(p.s. そういえば恐慌論を読んだのは、20年前に呆れながら、10年前に馬鹿にしながら、の2回しかないのを思い出しました。厚い本だからなんか言い訳が隠れてるかも。宇野って隠すからね。なんか言い訳がありましたら教えてください)
(p.s.2 それも無責任ぽいので、借りてざっと読み返しました。上記に問題なし。まあ、宇野的には恐慌は必ず金融恐慌を呈するのに利子率の高騰に言及しないお前は何だ(社会で資金形態の資本の供給が逼迫して利子率が上がるという)、というかもしれない、がそういう問題ではない。需要供給のつじつまあわせはただの形式に過ぎない。初めと終わりがつながればそれで原理論的恐慌論の記述は終わる、が、それでめでたいのは「これで資本論ぽくなった」と喜ぶ学者だけにすぎない。いったいなんのための恐慌論だろうか。資本主義の矛盾がその歴史的時点でどう現象するか、を法則的に告げない科学など人民にはいらないのだ。それは恐慌が破綻せずに繰り返すから悪いというのではない。資本主義はどの状況でどのように人民にマイナスの現象を起こすか、という因果連関の現実的解明ができなければ科学などではなく、それをあたかも為したかのごとき誤解しか結果しない仕事など、どこにも評価の余地はない、といっている。価値論は確かに宇野の誇る不朽の成果だが、同じ伝で資本主義分析が終わると思ったら大間違いだ。)
(p.s.3 しつこいですが、宇野の経済学ゼミナールによると、資本主義の矛盾は、どの蓄積様式段階でも相対的過剰人口の形成にある、と思っているようです。そこまでいわれてはどうしようもねえ。全面的にアウト。哲学者と文学者は喜ぶだろうが、歴史はそうは動かない。
ぶっきらぼうすぎるか。資本主義はね、教えてやるけど世界が相手なんだよ。欲しい労働力はいくらでも世界にある。タイの労働力を「相対的過剰人口」と呼べ、とでもいうのか。
相手がバカだといくらでも書くことが増えていく。
そんなものを相対的過剰人口と呼んだ瞬間に、理論の実効性はゼロになるんだよ。
こういう気遣いは際限がない。果てしないバカを知りすぎてるし。もうやめた。)