
伊勢崎銘仙との関係で
アロハシャツの起源を調べています。
専門書などを注文しました。
インターネットでこのような
ページを発見しました。
アロハシャツの起源には諸説ありますが、
このホームページの「アロハシャツの起源」では
次のように書かれています。
1978年3月7日の『The Atlanta Journal and Constitution』に
チャン氏の言葉として次のように掲載しています。
「1932年、地元の人間が着られて、旅行客は土産に出来るような
カラフルで特別なシャツを作ろうと思いついた。
当時、信頼出来るハワイ産の布地が無かったので、
華やかで派手な日本のキモノ布地を購入した。
シャツのデザインをし、2ダースほどの半袖シャツを
仕立屋につくらせ「ハワイアン・シャツ」という看板を置いて
商品をショーウィンドウに飾った。
とても良く売れましたよ・・・」。
1987年10月6日の『Honolulu Advertiser』紙の記事も
ほぼ同じ内容を伝えている。
チャン氏の言葉によれば、
1934年に日本の着物の生地で
シャツを作っています。
これは、昭和9年です。
日絹月報第27回では、
伊勢崎銘仙について次のように
記述しています。
明治21年には伊勢崎太織を伊勢崎銘仙と呼称した。
明治に入ってからは、括り絣、板締絣、解模様絣、
緯総絣、併用絣と多彩な美しい絣技法を研究し
取り入れ伊勢崎産地は正に絣の宝庫となった。
伊勢崎銘仙は昭和4年には昭和恐慌にもかかわらず
年間生産高ではピークの456万反に達し広く
大衆に受け入れられた。
明治・大正・昭和と多くの女性に愛された
伊勢崎銘仙だが昭和30年代後半からウール絣が
主力製品となり、昭和50年には伊勢崎絣が
伝統的工芸品に指定され、
伊勢崎銘仙は姿を消していった。
この記事によれば、
伊勢崎銘仙は、明治・大正・昭和と
幅広く愛され、特に昭和4年がピークだったようです。
チャン氏は昭和9年に日本の着物生地を使い
アロハシャツを作ったので、
そのころハワイで入手できた生地が
伊勢崎銘仙であったと断定はできませんが、
可能性はあります。
伊勢崎銘仙が大流行していた当時、
日本においては、ほかの産地の生地は
どれくらい売れていたのか?
伊勢崎銘仙のシェアは?
日本からハワイへの移民は
明治から始まっていますが、
昭和のころは、どの程度継続されていたのか?
アロハシャツと日本の関係について調べている中で、
ハワイ国王から、日本政府へ
連邦を組もうと申し出があった話や、
そのため当時東京にハワイ王国公使が駐在し、
群馬県の伊香保温泉にはその別邸も現存していることも
わかりました。
意外と群馬県とハワイは
関係が深かったのですね。
こうなったら、伊香保温泉で毎年開かれる
ハワイアンフェスティバルに、
伊勢崎銘仙製の、アロハシャツを作って
売りに行かなくては!
アロハシャツの起源を調べています。
専門書などを注文しました。
インターネットでこのような
ページを発見しました。
アロハシャツの起源には諸説ありますが、
このホームページの「アロハシャツの起源」では
次のように書かれています。
1978年3月7日の『The Atlanta Journal and Constitution』に
チャン氏の言葉として次のように掲載しています。
「1932年、地元の人間が着られて、旅行客は土産に出来るような
カラフルで特別なシャツを作ろうと思いついた。
当時、信頼出来るハワイ産の布地が無かったので、
華やかで派手な日本のキモノ布地を購入した。
シャツのデザインをし、2ダースほどの半袖シャツを
仕立屋につくらせ「ハワイアン・シャツ」という看板を置いて
商品をショーウィンドウに飾った。
とても良く売れましたよ・・・」。
1987年10月6日の『Honolulu Advertiser』紙の記事も
ほぼ同じ内容を伝えている。
チャン氏の言葉によれば、
1934年に日本の着物の生地で
シャツを作っています。
これは、昭和9年です。
日絹月報第27回では、
伊勢崎銘仙について次のように
記述しています。
明治21年には伊勢崎太織を伊勢崎銘仙と呼称した。
明治に入ってからは、括り絣、板締絣、解模様絣、
緯総絣、併用絣と多彩な美しい絣技法を研究し
取り入れ伊勢崎産地は正に絣の宝庫となった。
伊勢崎銘仙は昭和4年には昭和恐慌にもかかわらず
年間生産高ではピークの456万反に達し広く
大衆に受け入れられた。
明治・大正・昭和と多くの女性に愛された
伊勢崎銘仙だが昭和30年代後半からウール絣が
主力製品となり、昭和50年には伊勢崎絣が
伝統的工芸品に指定され、
伊勢崎銘仙は姿を消していった。
この記事によれば、
伊勢崎銘仙は、明治・大正・昭和と
幅広く愛され、特に昭和4年がピークだったようです。
チャン氏は昭和9年に日本の着物生地を使い
アロハシャツを作ったので、
そのころハワイで入手できた生地が
伊勢崎銘仙であったと断定はできませんが、
可能性はあります。
伊勢崎銘仙が大流行していた当時、
日本においては、ほかの産地の生地は
どれくらい売れていたのか?
伊勢崎銘仙のシェアは?
日本からハワイへの移民は
明治から始まっていますが、
昭和のころは、どの程度継続されていたのか?
アロハシャツと日本の関係について調べている中で、
ハワイ国王から、日本政府へ
連邦を組もうと申し出があった話や、
そのため当時東京にハワイ王国公使が駐在し、
群馬県の伊香保温泉にはその別邸も現存していることも
わかりました。
意外と群馬県とハワイは
関係が深かったのですね。
こうなったら、伊香保温泉で毎年開かれる
ハワイアンフェスティバルに、
伊勢崎銘仙製の、アロハシャツを作って
売りに行かなくては!











コメントありがとうございます。
アロハシャツと伊勢崎銘仙あるいは、
日本人移民との関係は奥が深く、
研究には時間がかかるように思います。
交流や関係作りのためには、
姉妹都市も有効な手段の一つだと思います。
すでに伊勢崎市は、日本一の暑さであり、
来年には、ぐんまDCという
大観光キャンペーンも行われます。
研究の結果を待っていては間に合いません。
調べる作業と同時に、具体的な行動を
起こしていくべきだと私も考えます。
ただし、姉妹都市や友好都市は、
協定を締結して、代表団が税金で旅行して終わり、
あるいは、代表の青少年が行き来して終わり、
という形では、
成果が定着しないと思います。
具体的なねらいやコンセプトを立て、
ハワイ文化の何をどのように伊勢崎市に取り入れるのか、
そして、ハワイには何を与えられるのか、
そのフレームをしっかりと固めてからの
交流が望ましいと思います。
http://www.city.shibukawa.gunma.jp/shisei/kouryuukatsudou/shimaitoshi/hawaii.html
ハワイも伊勢崎も外国人が多く、多文化共生という切り口もあるかもしれません。相手に何を与える事ができるかというのは重い課題です。
「銘仙『売り出す』伊勢崎市」はぐんまDCでも可能と思います。ともかく、伊勢崎をもっと元気にするために、みんなでアイデアを出しましょう。