伊勢崎市議会議員 多田稔(ただ みのる)の明日へのブログ

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与件としての資本主義

2017-05-05 14:10:03 | 大きな時代の変革期
(資本主義の終焉)

資本主義がどうもうまくいかなくなっている、終焉なのではないか
ということを分かりやすくお伝えするため頭を悩ませています。
資本主義が終わって次は社会主義だ、あるいは共産主義だ、という主張ではありません。

資本主義の本質、歴史的な変遷、そして現在の状況の分析からです。
資本主義の限界がきていることについては、経済学者の水野和夫さんが
「資本主義の終焉と歴史の危機」(別章参照)という本に書かれています。
読み返すたびに、すばらしい分析に感心します。
経営者や政治家、行政職員はもちろんのこと、今の日本で働いている全ての方、
学生さんも必読と思います。

大雑把に言えば、こんな感じ。
資本主義の目的は投資して資本を増やすこと、すなわち利潤を求めることが本質。
昔は、植民地支配など、未開の地を見つけることで、
新たな市場を見つけて経済を拡大してきました。
しかし現在では地球上にフロンティアはなくなってしまい
実物経済では十分な利潤が得られません。
有効な投資先がなく、資本主義なのに資本が増えないのです。

そこで、電子・金融空間という仮想の世界で投資が行われ、
実体経済よりも大きなお金が金融経済の中で動くようになりました。
仮想空間の中で自己増殖する金融投資では、
3年に一度くらいの周期でバブルがおこり、はじけます。

水野さんによれば、長期国債の利子率は、資本利潤率とほぼ同じであり、
その超低金利状態が長期間続いていることは資本主義の終焉を表しているのです。
有効な投資先がないのです。その上、国際資本の完全移動性が実現した結果、
「株式会社の利益増=国民の所得増」でなくなりました。

日本の経済は、明治の近代化から始まって
昭和の高度経済成長期までは驚異的に伸びました。
その後、人件費が安い新興国に生産拠点が移転し、日本の経済成長率は低下しています。
これは、一時的に景気が良い、悪い、という状態ではなく、
日本の資本主義が成熟したことに伴う成長率の低下だと考えられます。

かつての高度成長期などは、景気の波はありましたが、
「全体として右肩上がりの経済成長」が続いていました。
その条件なら、政府の「財政出動による景気の刺激」が有効に機能したのかもしれません。
しかし、もう日本の経済成長が成熟しきっているので、
借金をして財政出動を繰りかえす戦術では、景気は回復しないまま
政府の財政赤字は膨らむばかりです。
このままでは国の財政破たんは避けられません。



以下、水野さんの本の要約と感想です。
詳しくはぜひ本書をご確認ください。

(水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」1~5章)


<はじめに―資本主義が死ぬとき>
 
資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、
「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって
「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム。

現在、日本を筆頭にアメリカやユーロ圏でも政策金利はおおむねゼロ。
10年国債利回りも超低金利となり、いよいよ資本の自己増殖が不可能になってきている。
つまり、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも
「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなってきている。

最も重要な点は、中間層が資本主義を支持する理由がなくなってきていることです。
自分を貧困層に落としてしまうかもしれない資本主義を
維持しようというインセンティブがもはや生じないのです。



<1章 資本主義の延命策でかえって苦しむアメリカ>

もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、
そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中する。

資本主義が経てきた歴史的なプロセスをつぶさに検証すれば、
成長が止まる時期が「目前」と言っていいほど近くまで迫っている。
それは、中世封建システムから近代資本システムへの転換と同じ意味で、
経済システムの大きな転換を迫るもの。

昨今の先進各国の国債利回りに着目すると、
際立った利子率の低下が目立つ。

1997年までの歴史の中で、最も国債利回りが低かったのは、
17世紀初頭のイタリア・ジェノヴァ。
ジェノヴァでは、金利2%を下回る時代が11年間続いた。
日本の10年国債利回りは、400年ぶりにそのジェノヴァの記録を更新し、
2.0%以下という超低金利が20年近く続いています。
経済史上、極めて異常な状態に突入しているのです。

なぜ、利子率の低下が重大事件なのかと言えば、
金利はすなわち、資本利潤率とほぼ同じだと言えるからです。
資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが
資本主義の基本的な性質なのですから、利潤率が極端に低いということは、
すでに資本主義が資本主義として機能していないという兆候です。

投資がすでに隅々まで行き渡ってしまい、
「革命」と言えるほどに利子率が低下したのです。
これが「利子率革命」です。

1970年代には、
オイルショック。ベトナム戦争の終結がありました。
これらの出来事は、「もっと先へ」と「エネルギーコストの不変性」という
近代資本主義の大前提の二つが成立しなくなったことを意味しているのです。

アメリカは、近代システムに代わる新たなシステムを構築するのではなく、
別の「空間」を生み出すことで資本主義の延命を図りました。
すなわち「電子・金融空間」に利潤のチャンスを見つけ、
「金融帝国」化していくという道でした。

アメリカの金融帝国化は、決して中間層を豊かにすることはなく、
むしろ格差拡大を推し進めてきました。この金融市場の拡大を後押ししたのが
新自由主義だったからです。新自由主義とは、政府よりも市場のほうが
正しい資本配分ができるという市場原理主義の考え方であり、
アメリカではレーガノミックス以来引き継がれてきました。

資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、
資本側のリターンを増やしますから、
富む者がより富み、貧しい者がより貧しくなっていくのは当然です。
これはつまり、中間層のための成長を放棄することにほあかなりません。

従来、マネーは銀行の信用創造によってつくられていました。
それには家計の所得が増加してある程度、貯蓄率が高くならなければならない。
しかし、1970年代半ば以降、利潤率は低下し所得の増加率が鈍化してしまった。

そこでアメリカ政府は、商業銀行の投資銀行化を政策的に後押ししたのです。
金融・資本市場を自由化し、資産価値の値上がりによって利潤を極大化するほうが、
資本家にとってみればはるかに効率的だからです。

マネーが銀行の信用創造機能によってつくられるときの主役は労働者であり、
商業銀行です。ところが、金融・資本市場でマネーをつくろうとすれば、
主役は投資銀行となります。こうして、貯蓄行為を行う家計は
「地理的・物理的空間」から主役の座を降り、その座を
「電子・金融空間」において、巨額の資金をボタン一つで、
国境を自由に越えて動かすことができる資本家に譲り渡したのです。

国境の内側で格差を広げることも厭わない「資本のための資本主義」は、
民主主義も同時に破壊することになります。
民主主義は価値観を同じくする中間層の存在があって
はじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、
民主主義の基盤を破壊することにほかならないからです。

マネタリスト的な金融政策の有効性は1995年で切れています。
根拠としている貨幣数量説は、貨幣の流通速度が長期的には一定のもと
「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論。
Mv=PT(Mは貨幣数量、vは流通速度、Pは物価水準、Tは取引量)
つまり、通貨量Mを増やせば、取引量あるいは物価が上昇するというもの。

しかし貨幣流通速度が一定であるという前提が、低金利のもとでは崩れている。
さらに取引量の中には、実物経済だけでなく金融経済の取引きが多く含まれている。
つまりグローバリゼーションによって金融経済が全面化してしまった現代では、
通過量を増やしても国内の物価上昇につながらないのです。

「電子・金融空間」のなかで資本が増殖することで、もたらされるのは
バブルの生成と崩壊であり、その結果引き起こされるのが過剰債務と賃金低下です。

これまでバブルが崩壊するたびに、世界経済は大混乱しましたが、
皮肉なことに更なる成長信仰の強化が行われてきました。

巨大バブルの後始末は、金融システムの危機を伴うので
公的資金が投入され、そのツケは国民に及びます。
まさに「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」
ことになっていて、ダブル・スタンダードがまかりとおっています。



<2章 新興国の近代化がもたらすパラドックス>

1970年代半ばに現代の「価格革命」が始まりました。
原油など資源価格が高騰したせいで、企業はそれまでのように利潤をあげることが
できなくなり、その利潤の減少分を賃金カットによって補おうとしたのです。

1865年から130年間、
イギリスなどでは名目GDPの増加率と同じだけ雇用者報酬も増えていました。
ところが1999年以降、企業の利益と雇用者報酬とが分離し、
日本でも好不況にかかわらず実質賃金は激しく低下しています。

資本側はグローバリゼーションを推進することによって、
資本と労働の分配構造を破壊しました。国境にとらわれることなく
生産拠点を選ぶことができるようになったのです。

景気回復も資本家のためのものとなり、
民主主義であったはずの各国の政治も資本家のために法人税率を下げたり、
雇用の流動化といって解雇をしやすい環境を整えたりしているのです。

21世紀の価格革命とは、
それまでの国家と資本の利害が一致していた資本主義が維持できなくなり、
資本が国家を超越し、資本に国家が従属する資本主義へと変貌を示すもの。

16世紀以来、500年かけて、人類は国家・国民と資本の利害が一致するように
資本主義を進化させてきましたが、21世紀のグローバリゼーションは
その進化を逆転させようとしています。

資本が国境を越えられなかった1995年までは、
国境の中に住む国民と資本の利害は一致していましたから、
資本主義を民主主義は衝突することがなかったのです。

現在のグローバリゼーションで何が起きるかというと、
豊かな国と貧しい国という二極化が、
国境を越えて国家の中に現れることになります。

イタリアの歴史社会学者ジョヴァンニ・アリギによれば、
(その国の資本主義経済が成熟することで)資本が健全な投資先を失い、
利潤が下がると、金融拡大の局面に入っていく。
それと同時にその国の覇権が終わる。利子率の推移はそのことを示しています。

16世紀以降、どの国でも最初は実物経済の下で利潤率が上がるが、
資本蓄積が進むと投資効率は低下する。
したがって、最も成長した国の金利が趨勢的に下がっていく。


<第3章 日本の未来をつくる脱成長モデル>

 先進国の中でもっとも早く資本主義の限界に突き当たっているのが日本。1997年から現在まで超低金利時代が続いていることが証明している。資本主義は1970年代半ばに「実物投資空間」のなかで利潤をあげることができなくなった。そのためアメリカは金融帝国化に舵を切ったが、当初は国際資本の移動が不完全であると同時に、資源国との交易条件悪化の負荷を最も強く受けていたので70年代から80年代は停滞を余儀なくされた。

 一方日本は、省エネ技術により二度のオイルショックを乗り越え自動車と半導体により「ジャパン・アズ・ナンバーワン」となった。しかし日本は近代延命レースのトップを走ったがゆえに、資本主義の臨界点に達するのも速かった。その証が80年代のバブル。金融バブル発生のための2つの条件。第1は貯蓄が豊かであり、ユーフォリア(陶酔感)があること。第2は「地理的・物的空間」拡大が限界を迎えること。

 80年代の日本では、個人貯蓄率は高く、首都改造計画やリゾート開発ブームで土地は値上がり続けるというユーフォリアが醸成されていました。日本は中間層が7割を占める社会となり、消費行動が似ているため乗用車やテレビなどの財の普及が速いスピードで100%に近づきました。また、少子化が先進国の中で最も早く進行し、成長が問題解決の決め手にならなくなりました。

 当時のアメリカは個人貯蓄率が低く、財政と経常収支の双子の赤字のため日本のような金融バブルが発生する条件がそろっていませんでした。90年代後半、国際資本の完全自由化を実現させて過小貯蓄の国アメリカは、過剰貯蓄の国日本など世界の貯蓄を利用できるようになりました。こうしてバブルの条件がそろうと、ITバブル、住宅バブルとアメリカでも立て続けにバブルがおきるようになりました。

「自由化の正体」
 金融の自由化や貿易の自由化はグローバリゼーション礼賛者がよく言う「ウィン、ウィン」の関係ではない。元来、自由貿易からして貿易がお互いに利益をもたらすというのはごく限られた条件でしか成立しない。

「ウォーラーステイン」
 「自由貿易は、実際、もうひとつの保護主義でしかなかった。つまり、それは、その時点で経済効率に勝っていた国のための保護主義だったのである」。「自由主義は、最弱の者と自由に競争でき、抗争の主役ではなく、犠牲者であるにすぎないか弱い大衆を搾取できる完璧な力を、最強の者に与えたかったのである」

 金融の自由化も同じ考え方で実施されたのです。最弱の貧者は自己責任で住宅を奪われ、最強の富者は公的資金で財産は保護されたのです。このように歴史の危機において繰り返し起きる金融バブルを景気循環の中での一過性のものだと捉えている限り、資本主義の本質を見抜くことはできません。バブルとは、資本主義の限界と矛盾とを覆い隠すために、引き起こされるものだからです。

 資本の絶対的優位を目指すグローバリズム1995年に国際資本の完全移動性が実現すると、資本は国境を越えて利潤の極大化をめざすようになった。その顕著な現象は「景気と所得の分離」。日本では2002年から2008年にかけて戦後最長の景気回復があったにもかかわらず賃金は減少。英米でも景気と所得の分離が確認されています。このままグローバル資本主義を維持するなら「雇用なき経済成長」という悪夢を見続けなければならない。

 日本では1999年に労働者派遣法が改正され、製造業以外の覇権対象業務の制限が撤廃され、2004年には製造業への派遣も自由化。資本の絶対優位を目指すグローバリズムにとっては、人件費の変動費化の実現のために労働市場の規制緩和は不可欠だったのです。グローバリゼーションに対応して生産拠点を海外に容易に移せるようになった大企業と、容易に働く場所を変えられない被雇用者の力関係を考えるとわかるように、労働市場の規制緩和は総人件費抑制の有力な手段。

 アベノミクスの第1の矢、金融緩和によるデフレ脱却はできない。根拠としている貨幣数量説は、国債資本の完全移動性が実現した1995年以降は、いくらマネーを増やしても物価上昇につながらず、それは金融・資本市場で吸収され、資産バブルの生成を加速させるだけ。

 アベノミクス第2の矢である積極的な財政出動も無意味。宮沢内閣以来、歴代政権は切れ目のない総需要対策で200兆円以上の外生需要を追加しましたが、日本経済を内需中心の持続的成長軌道に乗せることはできませんでした。理由は明らかで、すでに経済が需要の飽和点に達していたからです。

 日本の得意分野である「モノづくり」で実物経済を立て直そうとするのは、時代の逆行に過ぎません。グローバリゼーションによって、新興国が成長を追い求めている現在の状況では、先進国が製造業を復活させることはほとんど不可能。それを無理やりにでも改革しようとするのが構造改革。既存のシステムがうまく機能しなくなると、時の為政者が構造改革を断行したがるのはいつの時代にも見られました。しかし大構造改革もまた失敗するのが常です。

 既存のシステムはこれ以上「膨張」できないために機能不全に陥っています。それにもかかわらず、既存のシステムを強化したところで新しい「空間」は見つかりません。16世紀のスペイン帝国が戦争を繰り返したのは、社会のシステムが転換しようとしているにもかかわらず、過去のシステムを強化してなんとかしのごうとしたからです。ひるがえって現在の日本も、インフレ目標政策(第1の矢)、公共投資(第2の矢)、そして法人税の軽減や規制緩和(第3の矢)などを総動員して、なんとか近代システム(成長)を維持・強化しようとやっきですが、その過程で中間層の没落が始まっているのです。つまりアベノミクスの積極財政政策は過剰な資本ストックを一層過剰にするだけ。

 私自身(水野)は、デフレも超低金利も経済低迷の元凶だと考えていません。両者のどちらも資本主義が成熟を迎えた証拠ですから「退治」すべきものではなく、新たな経済システムを構築するための与件として考えなければならないものです。デフレよりも雇用改善のない景気回復のほうが大問題。雇用の荒廃は、民主的な資本の配分ができなくなったことを意味しますから、民主主義の崩壊を加速させます。そうなれば、新しいシステムの構築どころの話ではありません。雇用なき経済成長は、日本を政治的・経済的な焦土と化してしまう危険性すらある。したがってアベノミクスのごとく過剰な金融緩和と財政出動、さらに規制緩和によって成長を追い求めることは、危機を加速させるだけであり、バブル崩壊と過剰設備によって国民の賃金はさらに削減されてしまうことになる。

 その結果、国民経済は崩壊し、先進国のみならず新興国においても一部の特権階級だけが富を独占することになる。非正規雇用者が雇用者全体の三割を超え、年収200万円未満で働く人が給与所得者の23.9%を占める日本の二極化も今後グローバルな規模で進行していく。このような危機を逃れるためには、先進国は「より速く、より遠くへ、より合理的に」を行動原理にした近代資本主義とは異なるシステムを構築しなければなりません。

 ダンテは資本主義の黎明期にこの危機を見抜いていました。当時のフィレンツェで資本家が競って読んでいた小冊子に「貧乏人とは付き合うな、なぜなら彼らに期待すべきものは何もないからだ」とあります。そうした風潮にダンテは異を唱えました。

 成長を求めない脱近代システムをつくるためにはどうすればいいのか、その明確な回答を私(水野)は持ち合わせていません。ただ、少なくとも新しい制度設計が出来上がるまで、私達は「破滅」を回避しなければならない。そのためには、当面、資本主義の「強欲」と「過剰」にブレーキをかけることに専念する必要がある。

 一国の財政状況には、そのときどきの経済・社会構造が既存のシステムに適合しているかどうかが集約的に表れています。巨額の債務を恒常的に抱え込んでいるということは、すでに日本の経済・社会構造が資本主義システムには不適合であることの証です。資本主義を乗り越えるために日本がすべきことは、経済優先の成長主義から脱して、新しいシステムを構築することです。新しいシステムの具体像が見えないとき、財政でなすべきことは均衡させておくことです。社会保障も含めてゼロ成長でも維持可能な財政制度を設計しなければいけない。


<4章 西欧の終焉>

 資本主義と一口に言っても、時代に応じて中身は異なる。資本主義が勃興する時代は重商主義でしたが、自国の工業力が他国を圧倒するようになると自由貿易を主張し、他国が経済的に追随して自国を脅かすようになると植民地主義に代わり、IT技術と金融自由化が行き渡るとグローバリゼーションを推進したのです。


<5章 資本主義はいかにして終わるのか>

 ケインズの唱える財政出動も、公共事業にかつてのような乗数効果が見込めない現在にあっては、財政赤字を増加させると同時に、将来の需要を過剰に先取りし未来からの収奪をしている。

 人類は数億年前に堆積した化石燃料をわずか2世紀で消費しつくそうとしています。資本主義は、未来世代が受け取るべき利益もエネルギーもことごとく食いつぶし、巨大な債務とともに、エネルギー危機や放射能などの環境危機という人類の存続を脅かす負債も残そうとしている。私たちが取り組むべき最大の課題は、資本主義をどのようにおわらせるかということ。現状のごとくむきだしの資本主義を放置し、ハードランディングに身を委ねるのか。あるいはそこに一定のブレーキをかけてソフト・ランディングを目指すのか。むきだしの資本主義の先に待ち受けているのは、おそらくリーマン・ショックを凌駕する巨大なバブルの生成と崩壊です。すでに資本主義は、永続型資本主義からバブル清算型資本主義へと変質。

 本来、資本主義が効率よく実行されているかどうかは資本の利潤率で測るが、ゼロ金利となった現在、どの実物資産に投資してもリターンは見込めないのです。代わって株価が資本主義の効率性を図る尺度として登場し、その主戦場は「電子・金融空間」となりました。その結果、サマーズ財務長官の指摘どおり「3年に一度バブルが起きる」ようになったのです。しかしバブルは必ず弾けるので、その時点で投資はいったん清算されます。17世紀に誕生した永続資本(株式会社)を原則とする資本主義は20世紀末に終焉を迎え、一度限りのバブル清算型の資本主義へ先祖がえりしたのです。バブルが弾け、経済が冷え込めば、国家債務は膨れ上がりますから、財政破綻に追い込まれる国も出てくるに違いありません。日本はその筆頭です。

 これまでの歴史では、国家債務が危機に瀕すると、国家は戦争とインフレで帳消しにしようとしました。つまり力ずくで「周辺」(搾取する対象)をつくろうとしてきたわけです。しかし現代の戦争は、核兵器の使用まで想定されますから、国家間の大規模戦争というカードを切ることはおそらくないと思います。けれども国内では行き場を失った労働者の抵抗が高まる。
資本が容易に国境を越えられなかった時代には、資本主義は国家を利用し、国家も資本主義を利用していました。しかし、資本が国境を容易に超えるときに、国家は足枷にしかなりません。にもかかわらず、バブルが崩壊すると、国家は資本の後始末をさせられる。資産価格の上昇で巨額の富を得た企業や人間が、バブルが弾けると公的資金で救われます。その公的資金は税という形で国民にしわ寄せが行きますから、いまや資本が主人で、国家が使用人のような関係です。

 次のシステムが見えていない以上、資本の暴走を食い止めながら、ソフト・ランディングを模索することが現状では最優先。逆説的だが資本主義にできるだけブレーキをかけて延命させることで、ポスト近代に備える準備を整える時間を確保することができる。
現在のゼロ成長社会(定常状態)を維持していくためには、ゼロ金利だけでは不十分。国が巨額の債務を抱えては、ゼロ成長下において税負担だけ高まることになるので、基礎的財政収支(プライマリー・バランス)を均衡させておく必要がある。今後は団塊世代が貯蓄を取り崩し、銀行が国債を購入するための預金が減り始める。残された時間はあと3、4年しかない。その間に基礎的財政収支を均衡させることが日本の喫緊の課題なのです。

 財政均衡を実現する上で増税は止むを得ない。消費税も最終的には20%近くにせざるを得ないでしょう。しかし、問題は法人税や金融資産課税を増税して、持てる者により負担してもらうべきなのに、逆累進性の強い消費税の増税ばかり議論されていること。法人税にいたっては、財界は下げろの一点張り。法人税を下げたところで、利益は資本家が独占してしまい、賃金には反映されないのですから、国家の財政を健全にして、(富める者から貧者への)分配きのうを強めることのほうが多くの人に益をもたらすはず。
 
 ゼロ成長の維持には、成長の誘惑を絶って借金を均衡させ、さらに人口問題、エネルギー問題、格差問題などに対処していくには、旧態依然の金融緩和や積極財政に比べて高度な構想力が必要とされます。もはや地球上に周辺はなく、むりやり周辺を求めれば中産階級を没落させ民主主義の土壌を腐敗させることにしかならない資本主義は、静かに終末期に入ってもらうべきでしょう。

 ミヒャエル・エンデが言うように、豊かさを「必要なものが必要なときに、必要な場所で手に入る」と定義すれば、ゼロ金利・ゼロインフレの日本は、いち早く定常状態を実現すれば、この豊かさを手に入れることができるのです。そのためには近代資本主義の理念「より速く、より遠くへ、より合理的に」を逆回転させ、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければなりません。その先にどのようなシステムをつくるべきなのかは、私(水野)自身にもわかりません。定常状態のイメージは語りましたが、それを支える政治体制や思想、文化の明確な姿は、21世紀のホッブスやデカルトを待たなければならないのでしょう。


(多田感想)

 定常状態を支える社会体制や価値観について考えてみたいと思います。水野さんは次のように指摘します。近代資本主義の理念「より速く、より遠くへ、より合理的に」を逆回転させ、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければなりません。資本主義が行き着いた姿がグローバリゼーション。その逆を考えたいと思います。

 「スローフード」という言葉があります。1986年にファストフードへの反対をきっかけに起こった、食を中心とした地域の伝統的な文化を尊重しながら、生活の質の向上を目指す世界運動の意。資本主義では、最高の利潤を得るために、より速く、より効率的に、が優先される価値観です。「より儲かるかどうか」というたった一つのモノサシ・価値観で世界中を評価して活動するのですから、地域や国ごとの価値観や文化などは無視されます。他人は、自分が儲けるための対象でしかなければ、人間社会は殺伐としたものとなります。たった一握りの人は、大金持ちになれたとしても、人類全体を見た場合に、幸せな状態と言えるのか?

 本来、何が好きか、何を大事にしたいのか、どんな暮らし方や文化を尊重したいのかなどは、多様であり、他人がたった一つのモノサシを強制するべきではありません。どんな国の田舎にも、世界的な企業の製品が入り込み、現地で作っていた製品よりも、安い製品が入り込むなら、地域の産業や雇用・文化は破壊されます。水野さんのおっしゃる「よりゆっくり」というのは、スローフードの精神のように、地域の伝統的な文化を尊重しながら、生活の質の向上を目指す取り組みが、当てはまるのではないかと思います。

 次に「より近くへ」を検討します。例えば、私の住む群馬県のスーパーマーケットには、県内で作ったジャガイモよりも安い値段で北海道産のジャガイモが売られていることがあります。このような状態では、県内の農家は利益を上げて経営を続けていくことは困難です。かつてインドがイギリスに植民地支配されたときは、産業革命により、イギリスで生産された布地がインドで伝統的な方法で作られたものより安く売られました。インドの人たちは、安いイギリスの布を買うことで、それまで国内で布をつくることを仕事にしていたたくさんの人が失業しました。

 現在の日本では、自動車会社なども国内の生産拠点を集約しています。つまり国内のごく少ない工場でつくった車を全国に運んで販売しています。もし、道州制が実施され、道州内の食料は、道州内で生産されたものだったら。もし、道州内で購入する分の自動車は各道州内でそれぞれ生産されるとしたら、道州内に雇用が生まれ、経済が循環すると思います。

 最後に「よりあいまいに」。水野さんは「より合理的に」の逆の意味としてこの言葉を出しました。ものごとを合理的に考えるならば、答えは一つしか出ないでしょう。グローバリゼーションにおける合理的とは、「どっちがより儲かるか?」です。現在の地球では、資本主義が搾取する対象としての「周辺」はなくなりました。それゆえ、同じ国内の中間層や、未来からの搾取が始まっています。それでは、多くの人は幸せにはなれません。だとすれば、「より曖昧に」は、いろいろな考え方や価値観があることを認め、それぞれをお互いが尊重するということを意味していると思います。

 もし、財政力だけで全国の自治体を評価すれば、1位もありますが、最下位もあります。たった一つのモノサシと序列が全てではありません。それぞれ地域に、それぞれの暮らしや歴史や文化があります。どれが1番で、他は劣るということではなく、みんなちがって、みんないい、これが幸せへの道ではないでしょうか。



(資本主義の補足)

○ピケティ
フランスの経済学者ピケティは、長期的な検証の結果、
「資本家の投資の収益率が、社会全体の経済成長率を上回っているので、
 金持ちはより金持ちになり、そうでない人との格差は広がるばかり」
と「21世紀の資本」で指摘し、世界中で注目されました。

この本について、読売新聞の書評で東京海洋大学の濱田准教授が
次のようにコメントしています。

  先進国では所得の増加速度よりも財産・資産など
  資本の収益力の方がより大きくなっているので、
  格差拡大がとまらないというものである。
  たしかに財産を持っている富裕者ほど
  運用技術にコストをかけることができ、
  より高収益の資産運用が可能である。

  経済成長が鈍っている中、こうした資本の力が
  発揮されているのだから、富める者はますます富み、
  貧しき者はますます貧しくなるのも当然だ。

  そこでピケティは財産に目をむけ、「グローバル世襲資本主義を
  放置してはならない、所得税、相続税に加えて財産も税の対象とし、
  高い率の累進課税を設けるべきだと主張する。
  国際協調などが必要で実現困難だが、格差是正の
  政治手段はこの方法以外なにがあるのだろうか。

国内格差を広げる「資本のための資本主義」は、
民主主義も同時に破壊することになります。
民主主義は、価値観を同じくする中間層の存在があって
はじめて機能するのであり、多くの人の所得が減少する中間層の没落は、
民主主義の基盤を破壊することにほかならないからです。

格差拡大が止まらなければ、中間層が資本主義を支持する理由なくなります。
自分を貧困層に落とすかもしれない資本主義を維持しようという
インセンティブが生じないのです。

○ゾウのグラフ
植民地が機能した時代は、イギリスやスペインなどの本国は
植民地から搾り取っていました。

その後も、原油や資源などを安い価格で先進国が自由に調達できた時代は、
南北時代といわれるように、
南半球の貧しい国のおかげで、北半球の先進国は潤っていました。

現代では、かつての途上国が経済発展し
先進国としては、儲ける元となる未開の地、
すなわちフロンティアを喪失してしまいました。

それが先進国の経済成長率の低下として表れています。
これは資本主義が成熟段階に達したしるしです。

お金を儲けるには、ヒトから儲けるしかありません。
発展途上国から儲けられなくなったとすれば、
先進国は、その内部で儲けるようになります。

貧困層からはお金を取れませんので、
中間層からお金を儲けるようになります。
先進国の中で、金持ちはより金持ちになり、
中間層は没落し、2極化が進みます。
それがゾウのグラフで示されている状態です。


(資料:朝日新聞GLOBE)

先進国では、富めるものはますます富み、中間層は没落しています。
2007年のアメリカでは、わずか1%の所得上位富裕層が、
アメリカ全体の所得に占める割合は23.5%でした。
ニューヨークのウォール街で起こった抗議行動は、
没落する大多数を象徴する
「We are the 99%」がスローガンでした


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