こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

天国を生きる植物と、私の統御感

2012年09月24日 | 未整理
盛夏の草取りにふーふー言いながらも、草取りがなくてはつまらない。
誰かに手入れをしてもらって鑑賞するだけの庭は、私にはちょっと考えられません。
しゃがみこんで小さな草を引いていると不思議な感慨に包まれますが、
雑草引きや庭の手入れは心の環境を整えることによく似ている、重なるものがあると感じます。

生き甲斐の心理学を学びだした頃、草引きが苦痛でなりませんでした。
作業を始めるときまって、ネガティヴな感情が止め処なく湧いてきて収拾がつかなくなって、
ストレス曲線をさ迷った挙句、最後は投げやりな気分で作業は中止、庭から逃げ出してしまうのです。
あれから十余年。今では錯乱して草引きを投げ出すようなこともなく、大きく育った木々を見ながら
私の統御感の原型が育った家の庭にあったことを、しみじみと確認しています。

庭と私の間には成育史だけでは納まりきれない何か-魂の領域も深く関係しているような気もします。

感情生活が混乱していた当時、見つめれば見つめ返してくれる月に対する思慕のような愛着は、
グレートマザーへの緩やかな退行ではなかったかと思うのですが、最近の私は月への愛着よりも、
木々を渡ってくる風や身体を吹き抜ける微風に心を動かされることが多くなりました。

植物に意識があるか?人間にとって植物はどのような存在なのか?
無意識で行われているらしい人と植物のコミュニケーションに、とても興味があります。
私たちが植栽した庭の木々たちは果たして居心地よく暮らしているだろうか。
身近な人間の在り様は、植物たちの調和と共生にも何らかの影響を与えているに違いありません。
そんなことを考えながら、いつも庭に面した居間のテーブルで、パソコンやメール、
書物を通して人々と対話をしているわけですが、もし植物が幸せならば、
その気配はきっと心地よいものとして相手にも伝わってゆくと思うのです。

瞑想することは植物に近づくことだと言う人がいますが、なるほどと思います。
もし植物に意識があるとしたら時空を超えた世界、天国を生きていることは確でしょう。
とすると植物と交信しているのは魂としての私ということでしょうか…?たぶんそうなのだと思います。
コメント
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