昔話にありますね。イケメン坊主を追いかけて大蛇になる女とか。
しつこい女に本当に愛されたら黒コゲ…恐ろしいですね。
以前ポニョとか見て思ったんですけど、
本当の意味で女性や女性性や女性の愛が解放されたら、多分、今ある形の人の文化は終わるんだろうな…と。
私も時にヘビのように粘着質でしつこいのです。
全ての良いものは、その場で風のように過ぎて行き、
悪いものは「もういい!沢山だ!」と納得するまで
心に残りとぐろを巻いて己の火が燃え続けるまでくすぶり続けるのです。
こりゃ酷い!と気に入らない絵も、真底納得行くまで100回だって描き直す気でいれば、
10回くらいまでなんか余裕で何のその…のつもりですが、やはり堪える時もへこたれる時もあり。
もし自信や情熱や勇気が、苦労や努力や困難を上回っていなかったら、
たったヒトコマの絵でも、失敗の連続にはとても耐えられない、
私の炎は自分をくすぶらせてしまいます。
北斎先生ですら80過ぎてもネコすらまともに描けないと泣いたそうです。
私みたいな下手っぴは泣いて筆を投げたくなるのも当然なんだと分かっているのに
それでも楽になろうとする、創作と関係の無い欲が、さらに苦しみを作ってしまうんですね。
何にでも言えることなんだと最近思い知りましたが、
自分の都合と目標を混乱させると、言い訳とか、歪みとかが出てきてしまいます。
楽こそ捨てて苦しみを捨てよう!
北斎先生みたいに、ただただ描けないと描きつつ泣くのは超クール!
実は全然泣いてないですけど。
失敗しながら、まただ!またやり直せるんだ!と身体に巣食う大蛇が喜び笑っています。
しかし作業が終わらない…
画像はダメ絵
時々日中、突然意識が落ちるかのように睡魔がやってくる。
普通に眠いというのと違って、中々強烈だ。
昼寝をする習慣など無いし、寝つきも良くないのに、この時ばかりは一瞬で眠っている。
外でや、来客中はまずないので、自分である程度コントロールはしているようだけど。
大抵夢を見る。そしてよく覚えている。
考えていたことの続きだったり、気になっていることの夢だったり、
何で突然気絶するみたいに眠くなって、思考の続きが夢で現われるんだろう?と
ずっと不思議だったのだけど、今は何となく納得できる。
多分私は自我を守っているんだと思う。
意識で受け入れがたいことを、夢の無意識でまずは見るとか、そう考えれば納得できる気がする。
私はもう守るべき自我の砦は必要以上にいらない…と思うようになったけど、
意識と夢の関係も、何か変わってくるのだろうか。
それとも夢の思考へのチェンジが、今の私の最低限の自我を守る必要なラインなんだろうか。
心の中の受け入れがたいこと、何を私が偽っているかを静かに見つめてみようと試みた時、
あるポイントの度に、思考が散漫になり眠くなったりすると、自分でもあきれて可笑しくなってしまう。
今度は私は何にパニック的思考を起こすのだろうか?と心を見つめてみる。過去のパターンを振り返ってみる。
またもや強烈な眠気の出番。パニックという自我崩壊を避けているのかな。
私のパニック的思考を探るということは、パニックを起こす核心に触れなくてはいけないんだろう。
私は自分でその自分が判らないのだ。
そんなに自分を見たくないのか見せたくないのか。
もちろんもう放っておいてもいい。
だけどそう思うと益々見たくもなる。
でも無理やり見ると、私はまた眠って逃げそうすっとぼけそう。何だか女性みたいだね。
私が私に嫌われるかもしれない。
たとえ私の内でも、無意識の領域、ワケノワカラン類には
「お願いですから見せてください。」という謙虚さ腰の低さも大切かもしれない。
気まぐれな相手に任せて、見れたらラッキー!くらいで。
心の拘りや混乱を、ちょいちょい…と、かいま見ていると、
これが沢山残っている限り、世界は雲って綺麗に見えないだろう、思考もできないだろうとも思う。
もしかしたら、雲っても綺麗かも、曇ってる方が綺麗かもしれないけど、
晴れ間も見てから感想を言いたい。
画像は漫画のネームラフ。何度も描き直した最新版。
結局シンプルになっていく。
何処から何処までが自己なのか、最近気になる私…
いつでもそういう意味の無い事ばかり考えているんだけど、
意味の無い考えも考えなりに、マイブームがあって、追っているテーマもある。
何処から何処までが自己かなんかなんて、検証不可能という意味で、どうでもいい事かもしれないけど、
何処までが自己と認識できるか、自分が規定してみることによって、
自分のあり方と、世の中の見え方は変わってくるかもしれない。
普段の私は、おそらく、自分がコントロール可能な意識までが
「自我」「自己」「自覚」「自意識」と思って生活している感じかもしれない。
コントロールの世界は安定や安全感があるようで、心地良い気もするけど、
それは常に予想内の行いをし、ある意味で退屈で飽きるものでもある。
自己規定がそのような自意識の内にある自我を、自分なのだと思った時、
世界も共に神秘を失い、退屈なものになりそうだ。
全ては「こういうものなんだろう」という枠に入ってしまうかのようで。
では、本当にコントロール可能な自覚ある意識が自己か?と問えば、それは絶対違う。
他人を見れば明らかだ。
自分が怒りっぽくない冷静な人間だと主張したがる、よく怒っている人もいる。
自分の愚かさを知らない自称インテリだっているはず。
自分の美しさ優しさに無自覚に生きるゆえに真底美しい人もいる。
アナタが酒の席ではスケベだって事、アナタ以外は皆知ってるって…とかね…
残念だけど、人は他人が見ているほどに自分の事が分かってないかもしれない。
こうでありたい自分が自分だと思おうとしつつ、本当にそうありたい自分には決してなれないと思っている時もある。
特定の個性を持った性格や行動を自己規定している限り、
規定された自己は、現実に生きる自分自身や世界と確実に不和を起こすのかもしれない。
まず自己規定は自分にとって肯定的なものか許せる範疇以外は、
自分にとって意味が無いどころか、時に害を成すものだ。
例えばある中学生が「本当の自分を分かってくれない」なんて訴えた時、
その子の明らかな欠点ばかりを指摘して「君だよ…」と…確かにその通りだが…
だからこそ!誰が「わかってくれた」と納得するだろうか。
その場合の「本当の自分」は「良いと納得できる自分」だ。
自己規定は良いものしか認められず、それでいながら、他者規定は、否定的なものが人気がある時も…
これは大変な矛盾を含んでいる、多分自分が「良い人」や「勝者」と思っている人にしか使えない、
つまりは、波乱万丈の人生の役には立たない肩書き名詞みたいなものだ。
性格的自己規定が通用するのは、人間社会の便宜上だ。
だけど、その便利さが、自分と他人と関係性を窮屈にする。
他人から悪い投影をされる時ほど、辛いものはない。
それが家族や愛する人や本来尊敬すべき先生など近しい大切な人たちからだとしたら、
一度貼られたレッテルから自由になることは、本当に大変なことだろう。
自他を「こういう人」「ああいう人」と規定し合う、安心とつまらなさ、不愉快厄介さ。
時に互いの自由や可能性までも一緒に摘み取っていないんだろうか。
「こういう人であって欲しい」「あなたが期待するような私じゃないんです」
自分も他人も、今まで思っていたものなんかじゃないかもしれない。
もし本気で付き合えば、目の前の人がどういう人だなんて益々分からなくなる。
もし本気で何かに挑めば、私がどういう人間かだなんて益々判らなくなる、
あるいはその程度の自己の意味なんかがぶっとんで、どうでも良くなる時もある。
元気で頑張れる時は何でもいい、どんなアイディンティティーでも大丈夫。
悪とでも、亡者とでも、犬とでも豚とでも、誰に呼ばれようが、自称だろうが構わない。
でも…何にも本気になれず、愛も沸き上がらず、
一人膝を抱え、自分の弱さや情けなさを思い知る時間はどうしようか?
今日、今、何もできない何も無い私の時こそ、私は一体何なんだろうか。
私は私が安住したり、酔いしれることのできる、何の肯定的自己規定にも頼れないではありませんか。
病める時でも、老いる時でも、死に逝く時でも、何も自分の良い処が見つけられない時でも、
世界や自分と不和を起こさない唯一の自分は、
生きる私の命の流れみたいなものなんだろうな。
性格だとか、主義だとか、何をやっているとか、何の職業とか、自分の自意識とか、何が好きだ嫌いだ、
私はしばし忘れたい。
それどころか、そんなものだけに頼って拘って、この先の私を生きたくないと思う。
頑固な理屈とプライドという意味の無い架空の自己保身、お願いですから何とかなってください。
今まで沢山私を守ってくれたけど、もう必要とせずに生きてみたいのです。
本物の誇りと、本当に自分を守ることを知りたいから。
勿論仕事も大事。制作も好きだ。
だけどそれだって自分の拘るアイディンティティーになった時に、好きだからこそ何かが崩れていく。
私のキャラたちが窮屈さに狭い!と、もがいているみたい。
もっと自由に楽しく大きく何もかも創りたくて、
今までしがみついていたものを手放したい。
今自覚できない無意識も、厄介な人生の出来事すらも、人生で見えるものは全て自己の内。
私の良いカードと悪いカードをもう差別しない。
良いも悪いもなくなるだろうか?
そして見えないものすらも私の内。
それでは私はいなくなってしまうかもしれない。
新しい自己規定。新しいジブン。
知らない世界に怖くてドキドキ。
何か、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」という言葉が最近英語スペルで思い浮かんだのを、今思い出した。
OUTSIDER
画像はラクガキ。
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時にまとわりつく言葉がある。
気になっているのは意味なのか、或いは言葉の持つ響きや音なのか、
TVやニュースで何度も響くと、私の頭でも再生されているのか、
想定外想定外ソーテーガイ
想定外とはどういう意味だろう?
果たして起こってしまった事に『想定外』なんて有り得るんだろうか。
ここで気が付くのは、人の意識の持つ限界的側面だ。
『想定』をした途端、その範囲でしか考えられなくなるし、行動もできなくなる。
おまけに、その『想定』は『分析』ではなく、『都合』で決められていることもある。
私は外の世界で起こる事は、人の内で起こる事と、関係が深いと思っている。
勝手に自分の都合でしかない、想定や予想をして、それ以外の事が起こると責任逃れをしたり、
あるいは起こった事実を認めなかったり、人間は日常的にもそういう事をしそうだ。
「そんな処にカップが置きっぱなしだったなんて思ってもみなかった!」
(直訳:割れたのは私のせいじゃない!あなたが私が無いと思っていた場所にカップを置いたのが悪い!)
「事故は私たちの責任じゃありません。大きな地震や津波が来るなんて思ってもみなかったんです。」
全く同じ理屈かもしれませんね。
事実よりも都合の良い自己想定にしがみついている。
愚かでみっともないし、何よりも目の前の現実が見えてない。
集団生活の中で事故が起こるということは、物事と人とが関わる心のあり方も影響があるかもしれない。
気が付く側面から、まず私が変わらなくてはいけない。
もう少し掘り下げて、『想定』って何だろう。
そんなことが本当に可能なんだろうか。
人が人の意識の範疇だけで生き、考えることに胡坐をかいてしまった途端、
放たれた言葉が絶対的な意味を持つように、錯覚されてしまう。
『想定』『予想』『統計』『データ分析』
自然は人間の言葉なんか全く知らないかもしれない。
人は僅かな知恵で、生き残るために、気休めとも言えるかもしれないけど、
必死に『想定』や『予想』や『分析』をしている。
本能で地震や災害を察知する野生を失ってしまったのだから、
それにしかすがれないし、それしかできないのかもしれない。
そう、謙虚に思っていれば、事故前も事故後も『想定』という言葉が言い訳には変化しない。
『安全』も同じ、物理的には、努力して、そういう状況を作ろうとする事ができるだけで、
そんなもん無い!誰からももらえない。
「安全です」はただの言葉。
個人の人生も『想定』なんか無い。
目的や夢のために努力することはできるけど、
本当はありもしなかった『想定』から外れてしまった時、その事を嘆く必要もないだろう。
そもそもこの世界は『想定外』どころか、『言語外』『思考外』かもしれない。
私たちは頭で理解できることだけを、見ているし、ああだこうだ言っているんだろう。
画像はラクガキ
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こんにちは。
水面下作業の進むKTOOONZ。
年末くらいに新作の公開情報が出せれば嬉しい限りですが。
それと、来年中にあるアニメ作品を是非ともパブリッシュしたい処です。
少し前の話ですが、家族連れのお客様がありました。
私は疲れていたので、もう食事はラーメンにしようと思ったのですが、
ラーメンのスープについてのお話。
私は積極的に買いたい特定のスープでもない限り、意地でも買わない手作り派。
ですから大抵、スープのつかない麺だけを買ってきます。
その日も即興手作りのスープで楽しんでもらいました。
2歳の子が沢山食べてくれたのを見てほっとしたものです。
子供のころ、ラーメンのスープは全部飲んじゃダメと言われて育ったので、
市販で売ってるスープに好ましくない印象が染み付いてしまったのもあるかもしれません。
元々ラーメンはあまり食べません。
美味しいとは思うのですが、積極的には…という感じ。
かつて恋人の影響で、有名なラーメン屋さんを廻るという、
楽しい日本食文化体験もさせてもらい、ラーメン文化には好感を持っていますまが、
その彼と別れた時に、ラーメン屋さんとも疎遠になってしまいました。
日常の外食としてのラーメンが無くなってしまいましたし、
ラーメンを作るのも、友人が来たり、泊まったりする、イベント的な感じの時が多いです。
手作りのスープの話にもどりますが、
私一人なら、フライパンで野菜やニンニクや生姜をごま油で炒め、
お湯をさして、塩、醤油、胡椒で味付けで薬味の葱でもあれば出来上がりです。
横で生麺も茹でてますから、トータル5分でできあがりです。
「え?」
って思う方もいるかもしれませんが、スープなんか野菜の出汁だけでも十分美味しいです。
勿論、粉末にした煮干を加えたり、ひき肉などを一緒にいためれば、もっとコクがでます。
ラーメンはとにかくジャンク!何でも入れる!使う!と思っているので、
私は滅多に作りませんが、焼肉や肉炒めの時に出るスープの類、
そういうものも再利用されます。
お湯を挿し、場合によっては濾して、ニンニクや生姜、ゴマ油やすりゴマ、酒、香辛料で煮詰めて
スープにしてしまいます。
こういうものは、レシピではないので、二度と同じ味はできないかもしれませんけど、それも楽しいのです。
子供のころ、母が作ったハンバーグの煮汁で作ったソースが美味しかったものです。
私はハンバーグ(の中の玉ねぎ)と市販の甘いソースが苦手だったので、
その手作りソースが無いと結構食べ難かったのですが
肉汁再利用をすると、ハンバーグの楽しく辛い思い出が蘇ります。
ビフテキのソースも焼いた時の肉汁で作るものですけど、本当に美味しいものです。
でね…
また凄いラーメンスープのアイデアが…
お店のラーメンでも同じアイデアはあると思いますけど、
私のは再利用ジャンク料理。アイデアというより作り方が凄いかも…
先日アジより大きい、油の載った普段食べない魚(名前忘れた)の大きな干物をいただきました。
量も多くて、その日に限って細かい実を取るのが少し面倒に思いました。
(ただの自慢ですが、私は定職屋さんが驚くほどの、魚食べのテクニシャンです)
ご飯もなくなったし、干物は美味しいんだけどしょっぱいし、身はまだ中途半端に骨周りに残ってるし、
頭なんかも柔らかめなので、ガリガリいけば美味しいんだけどな…どうしよう…と思ったところ
「あ…これで何かができそう…」
そのまま、僅かに身が残った食べかけを冷凍してしまいました。
数日忘れていたのですが、今日の朝方突然
「これでラーメンのスープを作る」
と思い、冷凍庫から出しました。
お昼に干物と水をそのままミルサーにいれてガーして、砕ききれなかった骨をザルで濾しました。
油が載っているので、ラーメンスープらしく乳化しています。
細かい骨はスープに混じって出汁になりましたカルシウム。
ジャンクで濃い味、そして美味しいです。
魚臭いけど、臭いに関しては慣れないだけで豚骨の比ではないかな。生姜や葱で消したらいい感じ。
ところで、家には今ラーメンが、インスタント麺すら無かったのです。
今回中華風の付けうどんでいいかと思ったら、乾麺も切れていました。
急遽、小麦粉と塩水で手作り。5分で打って伸ばして切って、5分も茹でたら、できあがりです。
トータル10分うどんでも、スーパーのお安いうどんよりはずっとずっと美味しいです。
特に小さい子に作ってあげるとバクバク食べますよ。
こういう事を言い出すと、完全にオヤジオバサンそのもの、
しかも話はそれますが、
小学校の家庭科なんかでは、まずは粉からつくる一番簡単なパンやウドンからでも教えればいいと思います。
私の初めての実習は、鮭のムニエルと粉吹き芋でしたが、
子供によっては、ご飯の炊き方も知らない小学生に、
いきなり洋食屋でも出しそうな献立なんか、レベルが高すぎると思います。
大人になってあらためて思い返すと、何考えてんだって感じですが、
採点しなくてはいけない、という事を踏まえてみれば、
こういう実習をすれば、できる子とできない子の差は、子供の目からも本当に一目瞭然なので、
そういう利点もあるのでしょうか。
本来教える行為と点数は何の関係もないのですけど、学校はそういう場所ではありませんからね。
点数で差別化する事ができないタイプの、料理以前の食文化の基本かもしれませんが、
なるべく原材料に近いものから作る方法を知らないと、
便利だから使うじゃなくて、それが無いとできないから、市販品に依存する、という事になってしまいます。
災害も多いご時世だからこそ、
何事もなるべくシンプルな材料で最低限の形にする基本的なテクニックを見直す教育になると良いですね。
で、ラーメンというか、今回は付けウドンの話にもどって、
麺とあえても美味しかったです。
魚の臭いが強いから、やっぱりうどんよりはラーメン向きでしょう。
これからは残った干物はラーメンのスープだ!と思ったのでした。
今回はオリジナルを知るために、最低限の薬味で食べましたが、
今後はゴマ風味、唐辛子味、色々試してみたいです。
ラーメンの名店がスープに干物を使用する話は良く聞きますが、
家庭でも簡単に5分でできる…というネタでした。
画像は謎の漫画下絵。スープを飲む豚。
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こんばんは。
ねずは、その後の痕跡が今に至って見出せないので、
兵糧攻めとネコ声作戦が効いたのか、出て行ってくれたようです。
ご近所も出ているそうなので、油断してたらまた来ると思うので、
清潔と整頓を心がけなくてはいけません。思い知るべき良い機会となりました。
欺瞞かもしれないけど、どうしようもなかったら私は人間としてねずと戦うんですけど、
それでも今はねずが愛しいような本当にバカらしいような…
ねずとも少しは関係あるのか…
最近思ったのですけど、私が個々の事例や対象にあまりにも構い過ぎると、
どうしても「良い」「悪い」とか比べて判断したりして、
終いには問題点探しになってしまって疲れるような気がしてきました。
私が生きる世界には時々、二十年以上経っても忘れられない嫌な思い出や拘りとか、
どうやって受け入れていいのか全くわからない悲しい事もあるんです。
今までその手の類に関して、
人生のショッキングに思われる事柄において「不愉快」「悲惨な気持ち」などであり続ける事は、
記憶や好みがある限り仕方がない、打つ手が無いように思って来たかもしれません。
自分が今まで溜め込んできた、道徳感、善悪の基準、美意識、
そしてできる限り偏見を捨てた発想と言う名の美意識。
それらを総動員して、あらゆる視点で見ようとしても、良くも美しくも見えない記憶、事柄、
それは今ここに無くても、思い出すたびに私の気持ちを重くし、時に抵抗心を呼び起こします。
ぽん!と口から自然に出た言葉は、
「個々のケースを個として見る限り、悪いと思う物は悪くしかあれない…」
「もし全体(や流れ)の一つとして、それらを捉えられれば…」
言っていて自分でも何だかよくわからないんです。
でもそういう時が楽しいんです。作品づくりと同じです。
「は?どういう意味?何なのこの絵は?…一体…」
出口の無さそうな行き止まりに、ワクワクする希望の香りと共に落ちて来た謎の言葉やイメージに連ね、
自分の動きを入れて、関わった誰かとのキャッチボールの中で、
意味なり結果なりインパクトみたいなものを作っていく中で、
拘っていた疑問や問題、この世でのやるせなさもどかしさの類がまた消えていくだろうか。
あるいは、醜いもの、悲しいものたちが、今まで気が付かなかった美しさを元気に放ち出すだろうか。
打つ手が無いと思っていたことは、本当に打つ手がないのか?
自らトライして検証してみるのは楽しいと思います。
一つの言葉はさらなる言葉を生み出す。
「個である私が、全体や流れを感じるにはどうすれば良いのですか?」
似たような事で、
「死ぬのは当然で仕方がない事」
これが本当かどうか考え直して、私が死なないようにトライしてみたいと過去に思ったことを、思い出しました。
恋人と一緒に映画を見て、主人公が余りにも悲惨な死「殺される」を覚悟した時に、
吾身の将来、考える事すら自らのタブーになっている「人の死、私の死」という敗北感を重ね合わせて
悲しくなった反動として生まれた疑問や視点だったと思います。
たとえシュールでも、そんな視点や発想ができるだけで、
「あれ?人間歴史的にもそういう事沢山やってて、案外成功している人たちが沢山いる?」
なんてユニークな視点もできる時もあるんです。
勿論「死なない」というのは、一般的世間的常識的な意味ではないかもしれませんが、
もしかしたら「死にも老いにも病にも負けない何か」という不老不死健康はあるかもしれません。
「死ぬのは本当に当然?打つ手は無し?」
この疑問ももう一度復活させてみたくなりました。
画像は仮面少年
ここはネズミのブログです。
たった一匹のねずに心乱される生活。
私の人生今ねず中心主役生活かな。
台所ではかじられたらしきものを一つだけ発見。
ワゴンの下の床に落ちた(落とされた?)スープのストックでした。
ソッコー捨て。こんなのかじって辛くなかったのかな。
まずかったからやめたのかも。ついでに出てってくれって感じ。
少し前に2階で見てしまいました。
見れてよかったんだけどね。
今のところ家でかじられたものも少ないようですし、同じくらいの大きさみたいだから、
お願いだから一匹であってほしいもの。
もしだけど沢山いたらさすがに耐えられませんね。
数日前にベランダとかの網戸も開けている日があったから、
その時入って出られなくなってしまったとか、
でも大分以前も屋根裏方向から少し謎の音が聴こえた事があったとも思うし、わかんないですね。
今回は屋根裏から降りてきたっぽい。
一階で発見して、何処に消えたのか何処に穴があるのか全くわかりませんでしたので、
階段を上って屋根裏に逃げたみたい。
私はほとんど上がらないので、隠れるのに調度よかったのでしょう。
逃げる動きとか、かわいいっちゃ可愛いんだけど、でも相容れられない。
マジで増えたり巣をつくられたりして電気関係とかやられる危険があるなら
業者さんを呼んで一掃するしかないし、それも人の身勝手だけど、そういうのできたらしたくないし。
自分で生ゴミ処理や流し掃除とか甘くて、隠れやすい物を増やして、
ねず好みの家にしちゃったのかもしれなくて、それで入ったら始末というのも本末転倒だから、
嫌ならまずせめて、食べ物閉まって、小まめに掃除して、家中スッキリさせるしかないよね。
皆当たり前にしていることだと思うけど。
で、さらに屋根裏にもう一度逃げたのか、何処にいったのかがわかりません。
こういう時には本当に床置きの物やカーテンが煩わしいです。視界がさえぎられる。
前から思っていましたが、本棚とかの一番下には物をいれずに壁ということにしてふさぐか
ドンピシャの木製とかの引き出し型ボックスを入れたい。
これマジで今後実践したい。本当、ほこりも溜まっちゃうし、一番下に入れた本なんかまず読まない。
家中の電気をつけて、TVとかCDとかPCとか。音が出せるものは出しておいて、
私が移動する時は、棒でその辺の物を叩いて音を立てながら歩いています。
玄関だけ暗くしてロックだけかけて、戸を空けています。
お願いだから家から出て行って欲しいです。
蚊が入ってくるでしょうけど、ねずよりは良しというか。
例のにゃん子が入って来たりして…ねずは出て行くかな。
ここは都内とはいえ、家の境界なんて仮のもの。
人間ですら守らない人もいるけれども、人の勝手に決めたルールは動物には関係ない。
縄張りに足を踏み入れられた動物の気持ちも少しわかるね。
本当に、通りがかりで閉じ込められちゃっているだけだったらいいんだけど。
用事もあるので、来週半ばくらいに、屋根裏検証です。
しばらく屋根裏は夜電気をつけてCDをかけっぱなしにするつもりです。
節電したいけど、この夏クーラーほとんど使わなかったから、
一通り片付けて、ねずを見なくなるまでは許してくれいって感じ。
画像は今描いてる漫画の原稿。つまんないモザイクつき。
朝、リサイクルビニールプラスチックと新聞雑誌のゴミ出しでしたが、
ノロノロまとめていたら雑誌の一束だけ間に合いませんでした。
今はネズミの巣の材料にしか見えませんね…
昨夜ねずみを見て、朝から片付け掃除をしていますが、
台所はそんなにあらされてないようでした。目にしなかったら全く判らなかったでしょう。
でもねず糞を一つ発見…一つくらいでよかったのか?
この暑いのにつかれるな〜わかってよかったんだけど…
お手洗い横のクローゼットも、そこに無くても良いものがつっこんであるし、
ネズミ云々もだけど、そういうのまとめて何とかしたいです。
通りがかりのネズは仕方がないかもしれないけど、
ごはんや隠れ家になりそうな物の提供はしたくないし、
普通に生きてると無駄なものが溜まるシステムの世の中だから、
ねずみが通ったら一発でわかる家にすべく、ダンシャリとか考えちゃいます。
カバーとかかけていたところ、はずしたら広くなった感じ良い感じ。
隠さなければそこに物を置かなくなりますね。
画像は顔が二つな人
見てしまいました…この家に住んで十年…初めてです。
ぞっとしました。でも見られて良かったです。
明日早朝から台所洗いざらいして通り道を見つけないと…
でも少し納得いくものもあります。
一週間ほど前、台所に普段見ないダニみたいな虫が何匹もいたので、
変だなと思ったのですが、ねずが運んだ虫だったかもしれません。
もし、明日もその虫がまたいたら、ねずが原因だった可能性はかなりありますし、
逆に言うと、まだ家に来て間もないという事なら、
今後定着させない事も十分可能かもしれません。
節電だけど、しばらく台所は夜中明かりをつけておこうと思います。
夜行性だから光を嫌ってくれるかも。
ネットで調べたら、
食べ物を出してなかったとしても、ぼろきれや紙くずがあるだけでも
巣の材料になるので、やってくるそうです。
今まではっきりとかじられた跡や糞は見てないので、
今頑張れば大丈夫かも。
一階と台所にはそんなに物は無いと思うんだけど、
2階と屋根裏部屋の原稿なんかの紙とかもプラケースに入れて収納しないとやばいのかな。
屋根裏をよく通るというので、2階3階もねずの通り道にされてしまいますし。
押入れも長い事開けてないのはまずいそうです。…家は正に開かずの扉がいくつかあるかも…
紙とか布とかの、
すぐに使わないものとか、もう処分するか、きちんと頑丈なプラケースとかに収納するかどっちかですね。
棚に入れている料理の本とかも今後作らないだろうものは処分したり、
よほど愛用してるのじゃなければデジタル化したいです。
東京郊外練馬の木造家はなめて生活しちゃダメですね。
ダンボールの収納箱もいくつか持っているけど、小まめに使っているもの以外は、
プラスチックやブリキのしっかり蓋ができるものに入れなおさないと…
明日は新聞雑誌の日だから、調度良かった。
かじって持っていたストックがあったかもしれません。
クマネズミ、都心で増えていると聞いていましたが、
家も通り道ルートになっていたのね…
ご近所、古い木造多いし、結構密集してるし、一つの家だけじゃないはずなので
本当に呼び寄せないように気をつけないと。
とにかく物は極力減らさないとダメですね。
家は生ゴミを埋めているし、汚れたゴミは洗って捨てていましたが、
それでも燃えるゴミは蓋付きに入れとか無いと。
隠れる場所がなければいいわけですし、
いっそ流し台の上下扉とか取ってしまおうかな…無くてもいいし。
まあ、上は穴さえなければあってもいいとして、
特に下段とか、排水溝もあるし、抜け穴ありそうだし、通気性悪くてかえってフケツかも。
扉があると、つい空き缶とか溜め込んでしまうし。
台所の棚もわずかな隙間で入れちゃうでしょうから、
今まで籠に入れていた食品は、フタ付きのタッパーに移さなくちゃな…
最近夕方ころに家に帰る時に、
近所の白い小さめにゃん子が門の内側の同じ場所で待っているみたいに良く座っているのですけど、
(門を開けるとしらじらしく、とててて…といつも同じ庭方向に逃げるそぶりをするのが可愛い)
ねず退治してくれるなら家ネコでもいいかなと、一瞬思いました。
白ネコは、のんびりしてそうですけどね。
アビシニアンとか、ネズミを取る能力が高いそうですが、
家の物もかなり壊されるそうです。
動物がいる家に、物が多いのはダメって事かな。
ねずが嫌いなスプレーとかも買いに行かないと…
できたら殺鼠剤とか使わないで、来ないで欲しいし。
明けたら一日大掃除・・・消毒!
しかし、今年はアリンコもほとんど入れなかったくらいなのにネズとは…
良い機会だと思いたい!
やっぱり食料品ストック法にたるんでいたのだと思うし、
ネズ好みの紙や布、押入れの物もロクな管理もなく増やしてしまったのかも。
しかし大掃除済むまで料理なんかしたくもないから、
明日は朝昼外食かな…
画像はねずみぃ。

























