末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

ハナミズキ

2015-04-24 17:54:54 | 近所の花
ハナミズキ

桜が散った後、ご近所ではハナミズキが咲き出しましたので、掲載させて頂きます。

家から2分のお宅のハナミズキ

庭の真ん中に立派なピンクのハナミズキがあります。

ピンクのハナミズキ

郵便局前のハナミズキ

我が家から徒歩4分の郵便局の前のハナミズキで、白とピンクがあります。

郵便局前の白とピンクのハナミズキ

白のハナミズキ

ピンクのハナミズキ

お菓子屋さん前のハナミズキ

郵便局の隣にあるお菓子屋さんお前にも白とピンクのハナミズキがあります。

お菓子屋さんの前のハナミズキ

お菓子屋さんと道を挟んで隣にある小さな公園のハナミズキ

ここは白のハナミズキのみです。

白のハナミズキ

ハナミズキ通り

直ぐ上の写真の奥に太い木の幹が見えますが、この左に先に掲載した桜並木があり

右に続く道路がハナミズキ通りとなっており、ピンクと白のハナミズキが並んでいます。

ハナミズキ通り



長野県中野市の散策 その1 中山晋平記念館

2015-04-23 10:38:32 | 旅行
16日に長野県塩尻市と長野市にそれぞれ住んでいる友人K君とM君と3人で

長野県の中野市の散策をしてきました。

K君とM君は長野県で先生をされた方で、

今回はM君の教え子で、地方新聞の編集をされて中野に詳しい70歳になるSさんが、

ご自身の車に乗せて案内をして下さったので大変有意義で楽しい散策が出来て感謝している所です。

見学した主たる場所は中山晋平記念館、高野辰之助記念館、それに旧家の山田左衛門家でした。

今回は中山晋平記念館について書かせて頂きます。

中山晋平記念館について

記念館前にある中山晋平の銅像

中山晋平記念館

生誕100年を記念して建てられたもので、晋平ゆかりの資料や竹久夢二装画の作品集などが展示されており

上の写真の右側の高い屋根のあるリスニングコーナーでは、晋平の懐かしいメロディが流れており

メロディーを聴きながら懐かしい歌を口遊む事が出来ました。

中山晋平について

中山晋平の生家

中山晋平は、明治20年に長野県下高井郡新野村(現在中野市)に生まれ、

明治38年に東京で島村抱月の書生となり、東京音楽学校予科に入学し45年に卒業。

生家全景

庭の素敵なカエデ

大正3年「カチューシャの唄」を作曲し、松井須磨子の歌が大ヒットしました。

カチュシャの銅像
 「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょうか」(カチューシャの歌)

晋平はやがて詩人・野口雨情と出会い、レコード化されたのが「船頭小唄」や「波浮の港」でした。

 「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け 明日の日和はヤレホンニサなぎるやら」(波浮の港)

北原白秋・西條八十・野口雨情など、時代を画した詩人たちと共に作り上げた

日本人の心の歌といえる名曲の数々は、今なお人々に愛され、口ずさまれています。

中山晋平が作曲した作品は、童謡818曲、新民謡282曲、流行歌462曲、その他学校の校歌・社歌等208曲あり、

現在判明しているだけで1770曲の作品がありおます。

その中から小生も良く歌った童謡や流行歌の幾つかを以下に挙げてみました。

童謡

シャボン玉で遊ぶ子供の銅像。土台には歌詞が書かれています

 てるてる坊主、砂山、黄金虫、肩たたき、シャボン玉、あの町この町、證城寺の狸囃子

「海は荒海 向こうは佐渡よ すずめなけなけ もう日は暮れた みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ 」(砂山)

あがり目さがり目、、鞠と殿様、キューピーピーちゃん

證城寺の狸でしょうか

流行歌 

カチューシャの唄、ゴンドラの唄、波浮の港、鉾をおさめて、東京行進曲、 愛して頂戴、

 「いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」(ゴンドラの歌)

唐人お吉の唄、、銀座の柳、マノン・レスコオの唄

民謡

天龍下ればを始めとして多くが長野県の民謡ですが、東京音頭、大島おけさ、熱海節、その他もあります。

勿論中野小唄もありますが、歌いにくい曲とのことで、小生も聞いた事がありません。

中野小唄が刻まれた碑









我が家の花 4月20日

2015-04-20 20:31:57 | 我が家の花
長野に出掛けたりで、ブログネタは色々ありますが

暫くブログを書いていないと、生来のなまけ癖が出てしまいました。

今日は留守をしていたにもかかわらず、元気咲き続けてくれていた

我が家の花を先ず掲載させて頂きます。

家の中の花

胡蝶蘭


開いた花も6つになりました。

カランコエ


白とピンクの花のカランコエが、咲き続けています

庭の花

花壇


手前のビオラは相変わらず賑やかに咲いています。

薔薇が大分伸びてきていますし、金魚草その他も咲きだしました。


ビオラの後ろにあったチューリップが留守中に咲き終わってしまいましたので

そこにデージーの鉢の花を並べました。

花壇以外で咲く花

フリージア

黄色と白のフリージアが庭のあちこちで開きだしました。

賑やかに咲く黄色のフリージア

白のフリージア

薔薇の根元に咲く白と黄のフリージア

カラー


白のカラーも咲きだしました。

ゼラニューム

赤とピンクのゼラニュームが咲いています









治田池の桜

2015-04-13 20:28:18 | 自分史
家内の実家の前にある治田神社の二つの治田池の周囲には桜の木があり

毎年美しい景色が楽しめます。

今年は例年より大分早くほぼ満開になり、先日行っていた時に写真を撮る事ができました。

似た景色ですので、一方の池の桜のみを掲載します。

今日の電話では満開の状態が続いているとのことです。

実家に行った今月一日は晴れの良い天気でしたが、この時は下の写真の様に未だ桜は蕾の状態でした
 
一日の蕾の桜

その後は毎日曇りや雨の天気が続きましたが気温が高く

あれよあれよという間に花が開きだし、帰宅した6日にはほぼ満開になっていました。

上記とほぼ同じ場所の満開に近い桜

以下家の中から順次外にお出てのお花見です。

家の名から見た桜

庭の左の花は満開の杏
 
門から見た桜


更に進んで土手の下から見上げた桜


土手に上がって眺めた上の桜並木

 
上の桜並木に直角に並んだ桜並木

 
上記二つの桜並木を一緒に見た所

奥の桜が最初の土手の桜

最初の土手と池の反対側の桜


上の写真の右に見える枝垂れ桜



また明日早朝から長野に出掛けますので、

コメントへの回答は帰ってからになりますのでお許し下さい。

今回の長野行きは善光寺御開帳の見学と、長野の二人の友人と中野市の散策を予定しています。

面白い写真が撮れればと願っています。













上田城の桜

2015-04-10 09:02:58 | 
昨日はみぞれが降ったりで冬に逆戻りの寒さで

長野の友人から送られてきた雪の積もった桜の木の写真をみると

今週初めに見た信州の満開の桜も寒さに震えた事でしょう。

6日の帰りに立ち寄った上田城の桜を掲載させて頂きます。

上田城の桜


上田駅前に「上田城千本桜まつり」の看板が出ており、まつりは4月8日から19日となっていましたが、

多分大丈夫だろうと思って行くと、幸い満開の状態でした。

上田城趾公園の外から眺めた桜と北櫓(右)と東虎口櫓門と南櫓(左)

上田城について

上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年に築城された平城で

真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名です。

第二次上田合戦後、関ヶ原の合戦にて、真田昌幸、信繁が属した西軍が負けたため

上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められあしたが、江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ

真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建しました。

仙石忠政により、本丸は櫓7棟、櫓門2棟、それらをつなぐ塀と

二の丸にも櫓や櫓門を再建するための櫓台などが再建されましたが

忠政の突然の病死により再建は中断され、そのまま幕末を迎えました。

明治以降は、破却や城外への移築が行われ、城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみでしたが

昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが復元されています。

現在は下図の上田城址公園となっています。


田城千本桜まつりについて

江戸時代、城の中が松、杉の大木や竹がうっそうと生い茂る林だったことから

「カラスのねぐら」と例えられた上田城は、廃城後には松や杉が千本もあったそうで

秋になると、城の周辺ではキノコ狩りができたとも伝えられています。

松や杉が伐採された後、城跡内に多くの梅や桜が植えら

明治40年頃の絵葉書には、「花の上田公園」という題名がつけられ、当時から花の名所だった様です。

櫓門に行く途中の桜

東虎口櫓門・南櫓・北櫓と桜 

東虎口櫓門と南櫓と桜

北櫓と桜

北櫓と桜

東虎口櫓門前の右手の堀と桜

平和の鐘と桜

平和の鐘と桜

戦時中に軍に徴発された「時の鐘」が、昭和47年に復元されたもので

「この鐘の鳴り響くかぎり再び悲惨な戦争が起こらないように」の願いを込めた「平和の鐘」 

真田石

真田石

東虎口櫓門の正面右手にある高さ2.5m、横3mある巨石で

築城のおりに柱石として据えられたと伝えられているものです。

大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために大きさを競った様です。

真田赤備え兜

大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村がかぶった朱色で鹿角型の兜です。

真田赤備え兜

茶室

変わったものがありましたが、茶室と書いてありました。

茶室