畑を掘り、木を彫り、石を刻り、の自然人!

退職後、自分に気ままな課題をちょっと与えて遊んでいます。

「顔真卿」の作品とその生き方

2016-02-13 13:03:20 | 篆刻


小生は書道に関しても知識貧弱をまず前置きとして、顔真卿(がんしんけい)の作品を通じて
その生き方に関心を持ちました。

書の歴史で、例え方として不適切かも知れませんが、「王羲之」が横綱クラスそして「顔真卿」は大関クラス。
書をなさっている方でこのお二人の名前を知らないひとはまず居られないでしょう。
王羲之を学び、顔真卿を学び、また影響を受けている書家は大勢おられることでしょう。

「顔真卿」は書家としてよく紹介されていますが、書家である以前に政治家であり官僚であることは記載はされて
いますが、その生き方・生涯について詳細に紹介されることは稀です。

「顔真卿」は家貧しかったため、小さい頃大地を紙に見立て、木の枝と石を筆代りにして書を習いました。
また「顔真卿」は孔子の弟子である顔回を祖としていて論語を子守唄に、孟子を枕にして育っています。

孔子の弟子による論語は五常の仁・義・礼・智・信という徳性を拡充し五倫の父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の
関係を維持することを教えとしています。
この教えは儒教ですが、現在でも全てではありませんが生きています。
現在、日本では儒教の教えと道教の教えが混在しているのではないでしょうか。
お隣、韓国は儒教の影響は日本以上でしょう。

「顔真卿」はこうした環境に育ち、世界最高の難関といわれた科挙の試験に合格、めでたく仕官しています。
科挙の合格率は最も高い倍率のときは300万人受験して300人しか合格しなかったといいます。

科挙に合格して仕官した後は順調な滑り出しだったのですが、儒教を教えを真剣に受け止め、その性格は
剛直で気質強く、心正しい道を生涯歩んでいきます。
背筋のまっすぐ伸びた、古武士のような人であったようです。

中央政府に居た時に上司の不正非行を摘発。睨まれてしまいます。
その後、洛陽や山東省、峽州などに左遷させられましたが、その生き方に変わりはありません。

よく言われることですが権力の中枢には妖怪が棲み、そうした時代背景、環境の下で書人・顔真卿の筆には
官僚社会における苦渋に満ちた反骨精神が投影されています。

山東省時代・45歳のときには10kmの城壁を築いています。
顔真卿が生きた時代は玄宗皇帝、楊貴妃、安禄山のころです。
玄宗皇帝はあろうことか息子の嫁を横取りし、これが有名な楊貴妃です。

顔真卿は709年に生れ、77歳で亡くなりました。
最後は適地で政敵を懐柔する任を与えられ、無念の死を遂げています。
そういえば杜甫も長安に幽閉されて、かの有名な「春望」国破れて 山河あり・・(以下略)を作っています。

顔真卿の生きざまは石碑に「その身体は逆賊に陥れどその精神は屈せず、終(つい)に至るまで、内に媚びず、
外に諂(へつら)わず」と刻まれています。

今は平和な時代、書も展覧会で鑑賞することが主ですが、顔真卿の時代は想像を超えた時代だったことでしょう。
顔真卿は当時、どのような気持ちで書作をしていたのか、と想像してしまいます。

現在でも書家の方で雅号に「卿」を付けた方が居られますが、ひょっとして顔真卿の「卿」から?
写真、右は王羲之の超・有名な蘭亭序です。顔真卿とは作風が大きく違っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿